74 / 135
亀裂──74.*
汗にまみれた赤茶色の髪に手を差し込み、ゆっくりと梳く。屋敷にいた頃よりは短く、しかし再び出会った時よりは僅かに長い髪。
自身の長い指が、トイという草に絡め取られ、身動きが取れずに深い湖の底でのたうちまわる魚のようだ。トイという海に溺れている。
静かにトイの瞼が震え、虚ろな赤い瞳が瞬いた。
泳ぐ視線がソンリェンをはっきりと認識する前に小さな唇を塞ぐ。
「ん、ん……」
トイの喉奥に、舌を深く差し込んでは緩く吸う。途端に溢れ出てきたものを一滴も零さないように吸いあげる。他人の体液をこうして躊躇なく飲み込めるようになるだなんて、あの頃は思ってもいなかった。
「トイ」
啄むように、何度も唇を食む。
トイは一切抵抗することなくソンリェンのそれを受け入れていた。しかし解放された腕がソンリェンの背に回ることはもうない。
命令を下せばその腕は伸びてくるだろうが、命じていないからしない。ただそれだけのことだ。
今ここでうつ伏せになって尻を上げろと命ずれば、トイは震える身体に鞭打ちのろのろと動くだろう。それだけのことだ。
トイにとってのソンリェンは、それだけのものなのだ。残酷な支配者であり、略奪者だ。
トイはソンリェンを、心の底から嫌っているのだろう。
「てめえは、誰のもンだ」
監禁していた時、トイが目に見える抵抗を止めたのはいつだっただろうか、あまり覚えていない。
当たり前だ、その頃のソンリェンにとってトイは皆で愉しむ玩具にしか過ぎなかったのだから。
自身のトイへの想いにもっとはやく気がついていれば何か変わっていたのだろうか、いや何も変わらないだろう。トイを攫い皆で輪姦したあの瞬間に全てが始まり、そして全てが終わったのだ。
トイがソンリェンを受け入れることなど、一生ない。
「そ、んりぇん、の」
昼間も無理矢理言わせた、心など籠っていないいつもの返答に薄く笑う。
ぼんやりしていたトイが、ソンリェンの顔を見て困惑気に目を見張った。今自分がどんな顔をしているのかはわからないが、きっと馬鹿げた表情になっているに違いない。
「嘘つきだな、お前は」
「ソンリェン……? 」
頬を両手で挟み、もう一度口づけようとした時耳慣れない音が飛び込んできた。トイもびくりと身体を強張らせ、音のした方へと視線を向ける。
トイの部屋の扉を、ノックする音だった。
トイの自宅の居場所を知っているのはソンリェンと、トイの雇い主でありトイが唯一懐いているシスターという女だけのはずだ。
だがシスターがこの部屋に来たことは一度もない、来ないでほしいとトイがシスターに懇願しているからだ。
「失礼します、いらっしゃいますか」
三度のノックの後、聞こえて来た声にソンリェンは嘆息した。
「だ、誰」
「てめえじゃねえよ、俺だ」
わけがわからないと目をぱちくりさせるトイの頭をくしゃりと撫で、挿入していたそれをゆっくりと引き抜いてベッドから降りる。
溢れる精液にびくびくと震えるトイの姿にもう一度組み敷いてしまいたい欲が生まれたが、今はそれどころではない。
扉の向こうから聞こえて来た声は、紛れもなくソンリェンの屋敷に仕える使用人で、トイの居場所をソンリェンからの命令で探していた男に違いなかった。
必ず朝方には屋敷に戻るから滅多なことがない限りここへは近づくなと言っていたのだが、そんな彼がここに来たということは「滅多なこと」が起きたのだろう。
トイとの買い物帰りに路地裏で見かけた、潰れた煙草の吸殻。
もしやとは思っていたが、予想は当たったらしい。
ただ、まさかここまで早く接触を図ってくるとは思っていなかった。
「お前はここにいろ」
情事後の素っ裸の想い人を他人の眼前に晒す趣味はない。
トイの上にタオルケットを被せ、脱ぎ散らかした下着とズボンだけを履いて鍵を開けドアを開く。想像通りの顔がそこにはあった。
淡々とした表情ではあるが、少しだけぴっちりと着こんだ服装が寄れている。彼なりに急いでここに来たのだろう。脇に停められている車はいつもの黒ではなく緑色の安物のそれだ。
見つかってもバレないようにという配慮が見えた。
「どうした」
「ロイズ様から使いのものが屋敷に来まして」
小さな声も、部屋の奥にいるトイに聞こえないようにという気遣いだ。幼い頃は対してわからなかったがこの使用人は爛れたソンリェンの家に仕えるには勿体ない男だ、良識があり過ぎる。
「話せ」
「来ないと何するかわかりませんよ、とだけ。17時に皆の屋敷に、と」
ちっと舌打ちをする。いかにも奴らしい内容だ。無視したいところだが、はやく行かなければトイのことを調べられる危険性もある。
「一度屋敷に戻ってから向かう。車動かしておけ」
「わかりました」
すっと簡単に一礼をして車へ戻る使用人の背を確認し、静かに扉を閉めて部屋へと戻る。椅子に掛けていた上着を着た後トイへと向き直る。
「今日は帰る」
「……え」
タオルケットにくるりと巻かれたままベッドに寝そべり、帰り支度を進めるソンリェンの傍でトイはくたりとベッドに突っ伏していた。
赤茶色の髪がシーツの端から零れ落ち、放り投げられた腕はベッドから垂れている。細い足が艶めかしく、まだ息も荒く酷く気だるげな様子だった。
散々犯したのだから当たり前だが、ここ最近は事が済んだ後トイの身体を清めるのはソンリェンの役目だったので、このままの状態で放り投げていいものかと一瞬考える。
が、直ぐに自身の間抜けな思考回路に失笑する。
トイが望んでいるのはソンリェンに犯されないことで、一人の時間を持つことだ。むしろソンリェンがここから去ることこそがトイにとっての安らぎだろう。
「さっきの人、だ、誰」
「使用人だ」
「……しごと?」
トイの傍に行き、静かにベッドに腰かける。ソンリェンを見上げる赤色の瞳が髪に隠れてしまったのがもったいなくて、汗に濡れた前髪を払えばトイの目が細められた。
今からソンリェンが言おうとしていることを聞いた時のトイの反応は、簡単に想像できる。この丸い瞳が僅かに大きくなり、ソンリェンの言葉を咀嚼し直ぐに安堵の色に満ちるだろう。
しかしソンリェンの不機嫌極まりない視線にそれを表に出すことは憚られ、トイは緊張しながらタオルケットで顔を隠し、か細い声で「わかった」と答えるのだ。
奴らに後をつけられ、トイの居場所を知られたりすれば面倒なことになる。守るだなんて大層なことを言うつもりはないし、それこそどの口がだ。
だが、トイをあの屋敷に連れ戻す気など毛頭なかった。
ソンリェンはいつもと同じ平坦な声でトイに告げた。
「暫く、来ない」
ともだちにシェアしよう!