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亀裂──75.

   トイの瞳がぱちりと瞬き、僅かに見開かれる。  予想通り、じわじわと緩和していくトイの身体。目の奥に広がるのは紛れもなく安堵の色だった。  これ以上見る必要はない、怒りのままトイに酷い言葉を浴びせてしまう前にソンリェンはぎしりとベッドから立ち上がろうとしたのだが。  くん、と引かれて振り返る。トイがソンリェンのズボンをやんわりと掴んでいた。 「あの……なん、で?」  そういった切り返しをされるとは思っていなかったので多少面食らった。トイを見下ろせば、トイはタオルケットで顔を隠したりはせずじっとソンリェンを見上げていた。 「ソンリェン、仕事してんだよな。だから、これねえの? 」  トイの瞳には確かに安心感が広がっていたがそれだけではなかった。媚びへつらっているわけでもない。  夕焼け色の瞳には、純粋な疑問が広がっていた。 「なんで、って」  これにはソンリェンの方が答えに詰まった。こくりと唾を飲み込み口を開く。 「なんでそんなこと聞くんだ、お前」  ソンリェンの問いにトイは怪訝そうな顔をした。戸惑うソンリェンに、戸惑っている。 「な、なんでって。理由聞いちゃ、いけねえ?」  きゅっとシーツを握りしめたトイが不安そうに視線を揺らし、「ごめん、変なこと聞いて」と小さく呟いて身体を丸めた。今にもタオルケットに顔を隠しそうな勢いだった。  そっとタオルケットを下げてトイの顔を覗き込む。心の中に灯ったのは温かいものだった。  これ以上怖がらせないように静かにトイの頬に手を添え、指先でゆるりと撫ぜる。ソンリェンに怒りの気配はないと理解したのかトイはくすぐったそうに首を竦め、ほわりと口の端を緩めた。  笑ったわけではない、力を抜いただけだ。  だがその顔があまりにも、穏やかな幼さに満ちているものだから。  見てみたいと、切望していたものだったから。  たまらず頬に口づけていた。  舌を這わせるでもなく、ただ愛しさのまま唇をくっつけた。  至近距離から、くりんと見開かれたトイの瞳と目が合った。輪郭はぼやけていたが、トイの赤だけは強く輝いて見えた。  ちゅ、と音をたてながら丸みを帯びた頬から唇を離す。トイの顔を見ることができなくてソンリェンの方から視線を背けた。  慣れないことをしたせいで、トイの頬に触れていた指先が熱い。 「また、来る」  わしゃ、とトイの頭を撫でて、ソンリェンはベッドから立ち上がりさっさと玄関へと向かった。  背後にトイの視線を感じたが、トイから声を掛けてくることはなかった。それでいい。呼びかけに振り向いた所でトイに顔を見られるのがオチだ。  この、動揺を隠しきれていないみっともない顔を。  ソンリェンは顔を引き結び、後ろ手で扉を閉めた。  そして停められている車へと向かった。  かつての旧友である、彼らと対峙するために。  ****  今は夕方の17時で、指定時刻ぴったりだった。  待ち合わせ時間などあってないようなものなソンリェンにしてはしっかりとした到着だ。  レオとエミーの報告を受けてからさっさとソンリェンを呼びだすよう使用人に使いを出させたロイズだったが、どのようにソンリェンを呼び出したのだろう。  彼はここ最近、なにをどう誘っても屋敷に寄り付くことはなかったのに。  エミーと一緒に、というよりはまとわりつくエミーを無視しながら客室に入ってきたソンリェンは、あいも変わらず不機嫌なオーラを丸出しにしていた。  いつもと変わらぬ表情、つい先ほど見かけたばかりだがまともに顔を合わせたのは数ヶ月ぶりだった。  よう、と片手を上げればソンリェンの一瞥がよこされるが返事はない。それもいつものことだ。 「ソンリェン、お久しぶりですねえ」 「用件は」  どかりとコートを脱ぐこともなく椅子に座り、足を組んでロイズを見下すように顎をしゃくる不遜な態度もいつも通りだ。  何も変わったようなところはない。先ほどのトイとの彼の邂逅を見ていなければ気にもとめなかっただろう。  珍しすぎるソンリェンの質素な私服や、手首に巻かれた紐や、首に巻かれていないストールの行方など。 「来てくれるとは思ってませんでしたよ、ここ最近誘っても顔見せてくれなかったじゃないですか」 「来ねえと何するかわかりませんよ、だなんてほざいてたやつがよく言いやがる」 「おや、何をするかは言ってないんですけどねえ」 「どーせろくなことじゃねえだろ」  ロイズはこの4人の中で一番財力のある家で育った生粋のお坊ちゃんだ。4人の仲は対等ではあったが、やはり薄っすらと見え隠れする序列というものが存在する。特にロイズの家はソンリェンの家と同じく貿易の事業主だ。こういった時にお家の差というものが出る。  とはいってもソンリェンは家柄などには捕らわれず、そういった脅しは鼻で笑い飛ばし相手にしない男なので、ロイズの遊び紛いの脅しを彼がこうして聞き入れたということは彼の中でロイズの要求を呑むような何かがあるのだ。  いやな予感が増した。 「ソンリェン、話を聞きたいんですけど」 「なんの」 「いやだなあ、わかってるくせに。トイのことですよ」  まるでそう言われることを予測していたかのように、ソンリェンは一切動揺しなかった。  静かに椅子の背もたれに身体を預け手の甲に顎を置き、これまた不遜な態度で眉根を潜める堂々ぶりだ。 「お前ら見てやがったな」 「あ、やっぱバレてた? 」  実のところそんな感じはしていた。  部屋に入って来た時レオを一瞥してきたソンリェンの瞳が鋭かったからだ。 「俺のこの格好を見て何も言わねえのが、そもそもおかしいだろ」 「その前からわかってただろ?」 「レオ、お前煙草落としたな。あの路地裏で」 「は? 吸い殻で気づいたとか言う?」 「あんな貧しい地区であんな高級メーカーの煙草吸う輩が他にいるか」 「そんなん、俺じゃねえかも知んねえじゃん」 「お前だよ、煙草の尻の形が妙に潰れてた」 「……それが?」 「てめえの癖だ」  そう言われてもわからない。レオは取り出したはいいもののまだ火は付けていなかった煙草をまじまじと見つめた。どこも潰れてなどいない。 「まあそんなことはどうでもいいですよ、さっさと本題に入りましょう。ソンリェン、貴方トイと会ってるって本当ですか?」  さらりと確信を突いた質問にソンリェンは初めて唇を歪めた。  ち、と落とされた久方ぶりの舌打ちが、やけに懐かしく感じられた。 「ああ」 「あー! やっぱあれトイだったんだ」 「まさか生きていたとは驚きですねえ。ソンリェン、どうして教えてくれなかったんですか?」  ソンリェンがゆっくりと上体を起こした。なんの返答もない。  面倒臭がって答えないわけではなく何やら言い渋っているような様子だ。ソンリェンにしては珍しい態度だ。 「別に、言ったところでどうすることでもねえだろ」 「そんなことないですよ、ソンリェンったら水臭いんですから」 「あ?」 「貴方、トイにまだ飽きてなかったんでしょう? そんな風に裏で動かなくとも別に貴方を馬鹿にするとかないですから」  頷くロイズにソンリェンは怪訝そうな顔をした。ロイズの台詞の続きはエミーが引き継いだ。 「そうそう、言ってくれればよかったのに。まだトイで遊び足りないって。こそこそ遊ぼうとしなくてもちゃんと言ってくれれば手伝ったのにさ。ソンリェンがいなくなっちゃって寂しかったんだからな、俺ら」  ソンリェンの瞳がすっと細められた。  言い当てられたが故の不機嫌さだとロイズとエミーは理解しているだろうがレオにはそうは見えなかった。 「それでねソンリェン、提案があるんだ。またみんなでさ、トイをここに」  エミーが全てを言い終えることはなかった。  ソンリェンが低いテーブルを蹴り上げたのだ。  ガチャンと、テーブルの上に乗っていたカップが床に落ち、溢れた紅茶がカシミヤのカーペットに染み込んでいく。茶色い染みがとくとくと広がっていく間、誰も喋ることはできなかった。  これまで見たことがないほどのソンリェンの鋭い殺気に、ここにいる全員が気押されていた。  床に弾かれたカップの取っ手が外れて、ころりとエミーの足元に転がった。

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