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亀裂──76.

「な……に、してんだよソンリェン、これ俺のお気に入りなのに」 「止めろ。手え出すな」 「は? 」 「トイには、手を、出すな」  一言一言、噛みしめるような声色にさすがのロイズも柔らかな表情を硬めた。エミーは頬を引き攣らせて笑みを取り繕おうとしているが、それもいつまでもつか。  レオは壁にもたれかかったままため息をついた。  嫌な予感が当たったのだと、この瞬間はっきりと確証してしまった。 「な……んだよお、まだ俺なんも言ってないんだけど」 「どうせ屋敷に監禁してまた楽しもうとか言うつもりだろうが。もう一度だけ言う、止めろ」  まさかソンリェンがそんなことを言うとは思いもよらなかったのだろう、ソンリェンの返答に皆が言葉を失った。レオを除いて。 「……で、でもさ、独り占めはずるくない? 元々あれ、みんなのものだったんだよ」 「違えよ」  ふとソンリェンが目線を下げた。長い睫毛が伏せられ白い頬に影を作った。 「ええと、まさかソンリェン、トイのこと独り占めしたいんですか?」 「そうじゃねえ」  陰りを帯びた青い瞳は、あまりにもらしくない。 「もうあいつは、共有物じゃねえっつってんだ」  ソンリェンの発言が理解できないのか、怪訝そうな顔でロイズは紅茶を飲むことを止めカップをずれたテーブルの上に置いた。 「……あー、だから、ソンリェンだけのものにしたいってことですよねえ」 「違う、アイツはもう……いや、もともと最初から、誰のものでもねえ」  ソンリェンはとつとつと語り始めた。  まるで、自分自身に言い聞かせているかのように。 「共有物でも、玩具でも穴でも、俺たちのもンでもねえ」  ソンリェンの指先が、きゅっと握りしめられる。 「俺の、もンでもねえ」  薄く笑ったソンリェンにレオは頬を掻いた。その笑みは誰がどう見ても自嘲の笑みに違いなかった。  ロイズもエミーもソンリェンのこんな表情初めて見たはずだ、暫しの沈黙が訪れる。時計の針の音だけが響く空気を破ったのはエミーだった。 「なにそれ」  しかしそこに、いつもの明るさはない。茫然とした声は掠れていた。  レオは胸ポケットからライターを取り出し、手に持っていた煙草に火をつけた。 「俺のもんだとか言ってたじゃん、路地裏で」 「俺がトイを望んでたとしても、トイが俺を望んでなきゃ俺のもンにはならねーだろうが」  皆、もう一つの事実に気づいているだろうか。ソンリェンがレオたちの前でトイのことを名前を呼んでいることに。  レオの記憶が正しければ、ソンリェンはあの1年と半年、一度たりともトイの名前を呼んだことはなかったはずだ。 「な……なに、言ってんのソンリェン。どうしたの?」  エミーが狼狽えるのも無理はない。  ソンリェンは唯我独尊を地で行く男だ。彼が自分のものだといえば全てがソンリェンのものになる。そこに相手の意思などは存在しない。  そんな歪み切った価値観で生きて来た傲慢極まりない男が、相手の意思を尊重しているかのような発言をしているのだ。まさに青天の霹靂、天変地異にも負けず劣らずの衝撃だ。 「今日ここに来たのははっきりさせるためだ、トイには手を出すな」 「なんで? ソンリェンのものでもないんなら、よくない?」 「よくねえよ」 「なんで!?」 「傷つけるな」  誰を、そんなのは決まっている。レオは煙を吐き出して天井を仰いだ。  まさかこの1年の間にこんなことになっていただなんて全然気がつかなかった。 「ソンリェン、あなた」  ロイズの指先が動揺のため震えているのはレオの見間違いではないだろう。 「ど……いうこと、なの」 「そういうことだ、トイを傷つけたら殺す」  ソンリェンは本気だ。低い声と鋭い瞳がエミーとロイズを射抜く。気圧されたようにふらりとエミーが傾いた。エミーの血色のよかった肌が蒼白になっていた。  誰も何も言わない。ロイズもソンリェンを凝視したまま固まっている。 「ソンリェンよお、トイに恋とかしちゃってんのか」  凍っていた空気が震えたが、誰も何も言わないのであればレオが言うしかない。こういうのはいつもレオの役目だ。  レオの問いにソンリェンは何も答えず、ただ目を伏せた。  いつものように絶対零度の視線でふざけるな、ともうるせえ、とも返してこない。そこに明確な答えがあった。  つまりは、そういうことなのだ。 「マジ……? え、マジで言ってんの、ソンリェン。あの玩具のこと好きなの? は? え? 」  やはりソンリェンは肯定もしないが、否定もしない。  エミーは信じられないと首を振った。今にも倒れそうに見えた。 「いや、はは。驚きましたねえ」  ロイズすらも平静を装おうとしているが動揺している。指を外したり組んだりしている。 「貴方に、そんな感情があったとは思ってもいませんでした。しかも相手は、玩具ですか」 「てめえに言われたくねえな」 「……なんです? 」  眉をひそめたロイズにソンリェンがゆっくりと起ち上がった。ロイズを見据える瞳は真っ直ぐだ。 「やめとけ、取り返しがつかなくなるぞ。俺みてえに」  ロイズは自覚がないのだろうが、レオはなんとなく気づいていた。トイにそういう感情を抱いたソンリェンも少なからず気づいていたのだろう。  ロイズの新しく連れて来た玩具を見つめる視線の熱っぽさに。 「一応仲間だったからな、忠告しておく」  だった、過去形だ。それだけを言い残してさっさと部屋から出て行こうとしていたソンリェンは、青い顔をしたエミーに追いすがられて足を止められた。 「なにそれ……うわ、なに、マジになっちゃってんの。は? 今更何いってんの? ソンリェン、馬鹿じゃないの?」  ソンリェンの腕を掴んだエミーの手は、簡単に振り払われた。少し前にトイと手を繋いでいたソンリェンに拒まれたことが引き金となったのか、エミーがついに爆発した。 「はあ? あれだけのことしておいて本気で好きになったって? 何様のつもりだよ!」 「……てめえに言われんでもわかってる」 「わかってないよ、だってみんなで犯したじゃん! ソンリェンだって蹴ったり殴ったり鞭打ったり、いっぱい、いっぱいしてきたじゃん! 輪したじゃん! 散々、壊したじゃん……!」  ソンリェンの横顔が僅かに歪められた。ここからでもわかるほど色濃くにじむ苦渋の色にレオですらも顔を背けたくなった。  ソンリェンの表情を間近で見てしまったエミーはそれ以上だっただろう。ぽかんと呆けた後、目を見開いてソンリェンを揺さぶり始める。 「……ねえ、遊んだじゃん、楽しかっただろ?」

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