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雨音──78.

 自分は壊れてしまったのだと思っていた。  だって、壊されたから。  でも、優しい人たちに拾われたから。優しさに触れたから。  壊れた体を戻すことができるのかもしれないと、思っていたのに。  やっぱり壊れた人形は、いつまでたってもガラクタのままだった。  ****  ソンリェンに、暫く来ないと伝えられてから1週間ほどが過ぎた。  ここの所毎日トイの自宅に来ていたソンリェンの来訪がないことはトイの心を軽くさせた、のだが。同時に一抹の不安も芽生えた。  あの時、トイの部屋を去ったソンリェンの様子はどこか変だった。  そっと頬に触れてみる。帰り際にソンリェンに押し付けられた唇の熱さが未だに抜けきっていないような気がする。  頬にキスされたことはある。口なんて言わずもがなだ。ただなんとなく、この間の頬へのキスは今までのそれとは何かが違うような気がしていた。  何かは、やはりわからないけど。  ソンリェンの、脳の奥まで浸透してくるような独特な低音が耳の奥から離れない。あの時のソンリェンの表情にはかなり驚かされた。  ソンリェンは自分に逆らう人間がいれば踏み潰すと、あの冷えた青い目一つで語る男だ。そんなソンリェンが眦を下げてトイを見降ろしていたのだ。 『嘘つきだな、お前は』  全てを諦めているような、切なそうな表情に見えた。  なぜあんな顔をしたのだろうか。トイの返答はいつもと変わらなかったはずだ。  お前は俺のものだ、と言われれば頷いた。俺のものだろう?と問われても頷いた。お前は誰のものだ、と質問されればソンリェンのもの、と答え続けて来た。  だからあの時もソンリェンのものだと答えたのだ。いつものソンリェンであればトイの返答に満足げに鼻を鳴らすだけだった。それなのにあの時は違った。  トイは誰のものでもない、けれどもソンリェンに逆らうことができないから頷いているだけだ。ソンリェンもそんなことはわかっているだろうに、どうして今更あんな顔をするのだろう。  そういえばと思い出す。前にも似たようなことがあった。  ソンリェンに「俺のもンになれよ」と懇願するように告げられた時だ。  ソンリェンに抱きしめられていたため顔は見えなかったが、もしかしてこの間のソンリェンと同じような表情をしていたのかもしれない。  どうして来れないのか、と尋ねたのは純粋な疑問だった。  初めて見るソンリェンの使用人という存在に驚いたのもあるが、怒気や苛立ちや嘲笑以外では滅多に表情を変えないソンリェンの青い瞳が不安定に揺れているのが気になった。  だが後になって振り返ってみると別に知る必要もなかった。  ソンリェンの仕事などトイには関係のないことなのだから。  頬にそっと押し付けられた唇も、ぐしゃりと掻き回された頭も、また来ると囁かれた声も。  そして、少しだけ赤らんでいるようにも見えた白い耳たぶも。  今のソンリェンは明らかに1年前の彼とは違う。それがより一層トイの心に巣食う不安を煽った。  焦燥がどんどんと膨らんでいく。こんな関係間違っていると、常に警鐘が鳴り響いている。  ソンリェンは、ロイズともエミーともレオとも全く違うタイプの青年だった。  ロイズは怖い、あえて酷いことを沢山して、トイにどんな悲鳴を上げさせるのかを愉しむような男だから。  エミーも怖い、いつ豹変するかわからない。トイはいい子だね、と髪を撫でてきた手で爪を剥ぐことも平気でする残酷な男だから。  レオも怖い、飄々としてるくせにトイの一挙一動の粗を探して、苛む題材にしていた。軽口の裏では何を考えているのかがわからない男だから。  どの人たちも等しく残忍で、怖かった。  ただ、ソンリェンはまた別の怖さをトイに与えてくる男だった。  ソンリェンの中にはトイの存在がなかった。  ソンリェンにとってトイは、目の前にあればいることを思い出すそれくらいの存在だった。  トイが他の3人に何をされていても、トイがどんなに絶叫しても、気が乗らなければ混ざることもなく煙草をふかして部屋を後にする。  彼は常にトイに対して無関心だった。  それなのに苛立ちや怒りの感情ばかりは強く主張する男で、トイが粗相をすれば容赦なく手を上げた。  トイはソンリェンが恐かった。あの目を前にすると体が竦む。  3人はトイを虫けらだと思っていただろうが、ソンリェンはトイのことを虫けらだとも思っていなかった気がする。興味を抱かれないということは、存在を無いものとされることと同義だ。  それでも、最初はソンリェンのあの青い瞳を空みたいだなと思ってた。  トイが軟禁されていた部屋には窓もなく、唯一外を見れる機会は誰かの部屋に連れていかれた時だけ。自由がなかったので、ソンリェンの目を見ると空を仰げる気がしていた。  だからなのか、一度目の脱走の時はソンリェンの部屋から逃げ出した。  タイミングが合ったことも理由の一つではあったが、トイに無関心なソンリェンであれば、たとえ逃げたとしてもどうでもいいと無視をしてくれるのではないかと高を括っていた。追いかけては来ずに放置してくれるかもしれないと。  しかしそれは間違いだった。  地面に強か身体を打ち付け動けなくなったトイは、直ぐに屋敷に連れ戻された。  冷気のような怒気を湛えたソンリェンは何も言わなかった。無表情に近い顔で、何の前触れもなくトイの腹を蹴り上げた。  ボールのように転がった身体を、再び蹴り上げられた。四度目の蹴りでやっとトイは「ごめんなさい」と口にすることができた。  しかしソンリェンの怒りは収まらず髪を引っ張り上げられ、拳で殴られて口の中から血の味が溢れた。 『あーらら、やらかしてくれちゃって』 『しかもソンリェンの部屋から逃げたってマジ? やるじゃーん』 『黙れ』 『うわ、ブチ切れてる。そりゃ腹立つよな、こんだけコケにされれば』 『どうしましょうかねえ、あ、そうだ。せっかくなんで懲罰室使っちゃいます?』 『あ、そういやあったなそんな部屋。いいぜ』 『さんせぇーい!』 『ソンリェンは?』 『とっとと連れてけ』  ソンリェンはとても自尊心が高い。彼が侮辱されたと認識すればその分しっかりと報復をされる。  トイはあの懲罰室でそれを嫌というほど味わった。今でも思い出すだけで背中が、心が、身体のありとあらゆる所が痛むくらいなのに。ソンリェンは──。 「トイ!」  背中をぽんと叩かれてびくりとする。  傍にはディアナが立っていた。

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