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玩具の人形──93.

「好きよ、大好き……あなたが大好きよ、トイ」 「おれ」 「大好きよ、トイ。大丈夫、あなたは壊れてないわ、キレイなままよ」 「とい、は、おもちゃ……」 「違うわ、貴方はおもちゃじゃない」 「こわい、よ」 「ええ、そうね。怖いわね。大丈夫よ、傍にいるから」  こわい、と怯え始めたトイの姿にシスターの声が涙で震えたが、直ぐに切り替えて柔らかな微笑みを浮かべ、トイにもっと顔を近づけた。 「大丈夫、怖くたっていいのよ、泣きなさい。傍にいるわ。大好きよ」  懇切丁寧に語り掛けるシスターに、少しだけトイの強張りが溶け始める。 「大好きよ、トイ。だいじょうぶ、大丈夫よ、大丈夫……」  母親が、小さな幼子に言い聞かせるように。シスターははらはらと涙を零し始めたトイに懸命に語り掛けていた。  暫くしてトイも僅かばかり落ち着いたのか、それとも医者に飲まされた薬が効いてきたのか、意識がすうっと溶けて瞼が下がった。  シスターの手のひらが、そうっとトイの前髪を撫でる。誘われるようにトイが完全に目を閉じた。荒かった呼吸が少しだけ規則正しいものになる。  寝たのか気絶したのか、どちらにせよトイが落ち着いたことだけは確かだった。  ソンリェンがやれなかったことをいとも簡単にやってのけた女は、トイの意識が落ちたことを確認してから長いため息をついた。  その身体はまだ硬く、ンリェンの方を向くこともない。 「寝たか」 「……意識を失っただけよ。これからです」 「育児院は」 「今日だけ知り合いに任せています。それにディアナもいます」  失笑を浮かべてしまった。ソンリェンとトイの情事を目撃して一目散に逃げることしかできなかった子どもに何ができる、と。  ソンリェンのそんな嘲笑に何を察したのか、シスターが僅かばかり顔を上げた。 「あの子は子どもたちの面倒を本当によく見てくれます。トイと同じ、強くて優しい子です。そんな子がわんわん泣いてしてしがみついてきました。貴方ディアナに何をしました?」  再び向けられた鋭い視線に目を細める。 「トイに、何をしました? この優しい子に、貴方、一体何をしました?」  意志の強い瞳だった。声を荒げる時のトイに似ている。誰かを守ろうとしている人間の目だ。 「おかしいとは思っていました。貴方のような方が、なぜ私たちの育児院を……いえ、貧しい育児院を支援する事業を始めたのか」  これだからまともな人間は面倒臭いと、少し前の自分であれば煙草片手に吐き捨てていただろう。 「ただ、トイと……関係していることだとは、知らなかった」  だが残念なことに今手持ちの煙草はない。車の中に置いて来てしまった。 「数か月、思い詰めている様子でした。でもトイは言わないから。この子の触れられたくない部分に容易に触れてしまえば逆に苦しめることになる。貴方と顔を合わせた時も、トイの様子はおかしかった。でもこんなことになるくらいなら、トイに発作が起きようが何が起きようが聞くべきでした。私は未熟者です」  歪んだ眦に、シスターの後悔が見て取れた。 「酷い……有様でした。今よりもずっと。1年前、この子が道端で倒れていたことと貴方は何か関係がありますか? 貴方が私の育児院に来たのも、トイに接触を図るためだったのでしょう?」  畳みかけながら、女がぎりりと拳を握りしめた。  トイの今の状態が、1年前にシスターがトイを拾った時と同じ状況であると彼女はやはり気が付いていた。 「貴方は、トイの何ですか」  何かと聞かれても答えようがない。言えることは、ソンリェンがトイを犯し苦しめる者であるという事実だけだ。それ以上でもそれ以下でもない。 「ただの知り合いでは、ないのでしょう」  トイと知り合いだということがこの女に知られてから、どこか猜疑心を含んだ瞳を向けられていた。トイにとってソンリェンがどういう人間なのかを、訝しんでいる目だった。  トイが怯えていたことにも、どうせ気が付いていたはずだ。 「それを知ってどうするつもりだ」  トイにとってのソンリェンの存在は、この女とはあまりにも違う。  見せつけられて、こんな状況であっても理不尽にも怒りがこみ上げてくるくらいには。 「俺を断罪でもするか? 金も権力もねえ、血の繋がりもねえガキ集めて家族ごっこして、いい気になってるだけの独り身の女が」 「玉ねぎ林檎かぼちゃ」 「あ?」  話の流れに関係のない台詞が耳に飛び込んできて顔を顰めた。 「聞こえませんでしたか? 玉ねぎ、林檎、かぼちゃ」 「……なんだってんだ」 「わかりませんか、トイの好きな食べ物です」  壁に深く背を預ける。そんなもの知るわけがない。  トイとそんな会話をすることも、ソンリェンの目の前でトイが食事をすることも一度たりともなかったのだから。  一度無理に食わせようとしたことがあったがその時は直ぐに吐いてしまった。ソンリェンの前で食べ物を口にすることがトイにはできない。唯一食べても吐かなかったのは、ソンリェンが思いつきで買ってきた子ども騙しの菓子だ。  大した額ではないが、貧民層はまず手に入れることが出来ない菓子だった。  あまい、と幼い仕草で頬をほころばせたトイの表情に込み上げてきた感情を、ソンリェンはずっと心の奥に抱えたままだ。 「トイの苦手な食べ物はトマトです。前にこっそり教えてくれたことがあるんですが、食感が苦手だそうです。マリアという子はトイに一番懐いてる子ですが、とても敏い子なのでトイの苦手なものがわかるんでしょうね。迷惑をかけるからと平気な振りして食べようとするトイのトマトを、いっつも食べちゃうんです」 「何が言いてえ」 「貴方知らないでしょう」  トマトが嫌いなのはなんとなく予想がつく。  ロイズとエミーが床に零したトマトスープを、ペットごっこと称して床に這いつくばって啜らせていたことがあったからだ。あれがトラウマにでもなっているのだろう。とは言っても、ソンリェンがそれを思い出したのも前にソンリェンの前でトイが吐いたのを見たからだ。  あの1年と数か月、トイにして来た残酷な事を思い出そうとしても記憶は曖昧だ。ソンリェンにとっては、トイを皆で輪したことも皆に交じっていたぶったことも、一人で好きな時に犯したことも取るに足らない出来事だった。  トイを捨てるまで、自分の感情にすら気が付かなかった。 「わからないでしょう、トイがどんな子なのか。何が好きで何が嫌いか、どんなことで笑うのか喜ぶのか、貴方、わからないでしょう」  当たり前だ。トイがソンリェンの前で笑ったことなど一度もないのだから。  喜んだ姿だって、菓子を与えたその一瞬だけだ。そこからバカの一つ覚えのように該当する菓子だけを持って行ったが、トイは微笑むどころか日に日に顔を強張らせるばかりだった。  確信を持てたのは今日だ。トイとあれを一緒に食べた、とあの少女は発言していた。ソンリェンから貰ったものをトイは食べたくなかったのだろう。だから好きな相手に譲ったのだ。  トイが恋する、あの女。 「トイがどんなに育児院の子どもたちに好かれているか。トイの心根がどんなに真っすぐで、相手に優しい気持ちを分け与えることのできる人間か、貴方知らないでしょう」 「は、知らねえな」  子どもたちに囲まれて溢れんばかりの笑顔を零すトイの姿は、いつも柵の向こう側だ。ソンリェンが踏み込むことなど到底出来ない領域の話だ。身体をいくら暴いたとしても、トイの心にソンリェンは近づけない。  そんなこと、今更言われなくともわかっている。 「子どもたちが、そして私が、そんなトイをどんなに大切に思っているか、愛しく思っているか。貴方わからないでしょう」 「だったらなんだ」  口調が荒くなる。トイの唯一を前にして、感情が破裂しそうだった。 「だったらなんだっつーんだ」 「知らないからそんなバカなことが言えるんです。貴方とトイの関係を知ってどうするか、ですって? 愚か過ぎる質問よ。お金持ちの方はバカなんですか? それとも貴方がバカなのかしら」 「……てめえ」 「全力で守ります」  力強い答えだった。ソンリェンが思わず口を閉じてしまうほどに。

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