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玩具の人形──94.

「そうです、私は財力も権力も持たないただの女です。きっと何もできない。でも、たとえできなくとも、します。貴方にはわかりませんか? 私の気持ちが」  できないとわかっていながらも誰かを守ろうとする気持ち。  そんな崇高で愛溢れる想いなんて、人らしい感情抱いたことのないソンリェンが理解出来るはずもない。理解したいと思っても、もう遅い。 「……わかりたいと、思わないのですか」  心の奥に潜んでいた何かを言い当てられた気がして、ソンリェンは壁から背を離した。 「そうして、トイから離れて壁際に突っ立っているのはなぜですか」  それは、ソンリェンが傍にいればトイが怯えるからだ。 「トイ、私のことを呼んでいたんですってね。私を連れて来ようとしていたと聞きました。なぜですか」  それは、ソンリェンではトイを落ち着かせることも、救うこともできないからだ。 「そんな憎々し気な目で私のことを睨みつけてくるくらい、私のことが嫌いなのでしょう」  それも、当たり前だ。トイが一番懐き、心の底から慕っている人間なんて視界にも入れたくない。  この女だけじゃない、あの育児院でトイから可愛がられているガキ共も、トイと触れ合うことのできるあの少女も、トイに想いを返されているすべての奴らが憎い。  これほどまでにどろどろとした感情を嫉妬なんて可愛らしい言葉で言い換えることなど出来るはずがない。これは殺意だ。 「それなのに私を呼ぼうとした理由はなんですか。こうしてトイを医者に診せ、身体の手当をして、柔らかなベッドの上に寝かしつけている理由は? 貴方の手についているそれミサンガですよね。トイが、作ったものなのかしら」  あんな小汚い育児院潰してやりたい。ソンリェンにはそれができる。  けれどもそうすれば、トイが泣く。 「もう一度聞きます」  だから少しでもトイの生きる場所を持続させられるように、慣れない慈善事業なんてものにも手を出し始めた。  別に本気であの育児院を脅迫の材料にしようと思っていたわけではない。トイの唯一の居場所を奪うつもりはなかった。 「トイは貴方の、何ですか?」 『確か名前はディ……ディーナ? とか言ってたな』  トイに女がいるとレオに教えられて頭に血が昇った。  レオが嘘を言っている可能性もあったが、確かに薄っすらと覚えがあったのだ。 『ディ、あっ……ぁ、ァ、ああ、あ、あっ』  最後にトイを抱き潰した時に、トイはシスター以外の誰かの名前を呼ぼうとしていた。  絶望的に喘ぎながら、助けを乞うように伸ばされた手を引っ掴んでベッドに叩きつけた記憶は新しい。  育児院を訪れたのは、元よりこの日に来訪すると予定を立てていたからで、トイと親しいという少女を確認しようと思ったわけではない。  だからトイがディアナという少女と二人で話し込む光景を見たのも偶然だった。1週間堪えていた激情が爆発したのも、偶然だった。 『遅れてごめん、誕生日おめでとうディアナ』  手首に視線を移す。ソンリェンの手首にはミサンガがくくられている。  トイから手渡されたこれは、あの少女に宛ててトイが作っていたものだったのだとあの時確信した。彼女の誕生日は2週間前らしい、時期なら合う。  それに少女の好きな色は金色だ。ソンリェンの腕に光るミサンガにも同じ色が含まれている。これはソンリェンのために作られたものではなかった。元より好意的な感情でもって渡されたものだとはハナから思っていなかったが、元々あの少女に渡されるものだったとは。  誰にやるんだ、と質問した時に言い淀んでいたのはそれが理由だったのだろう。怒りを向けられるのが恐ろしくて、咄嗟にソンリェンのために作ったのだとトイは弁明したのだ。 『ああ、あの二人はとっても仲がいいんです。お似合いですよね』  仲睦まじげな二人を見かけて、何も知らないシスターにそう声をかけられた時頷くことすら出来なかった。  トイが少女の頬に口づけたのを見た瞬間、勘違いをしたのだという例えようのない羞恥心と少女へと抱いた嫉妬心は、目の前が真っ暗になるような底冷えする憤怒へと変わった。 『お前さ、入る隙間ねえぞたぶん』  レオの言った通りだ。トイの世界は、ソンリェンの知りえない場所でどんどん広がっていく。  いつか腕の中に閉じ込めておけなくなる日が来る。トイが離れていく。そんなことはわかっていた、だが受け入れられなかった。  だから、もう一度壊そうとした。  衝動的ではあったが、用意周到でもあった。ハイデンに自室に所持している薬を持ってくるよう指示し、彼にトイからだとディアナに時間を記したメモをディアナに渡させ、ディアナと訪れたというトイにとっての秘密の場所でトイの人としての矜持を根こそぎ叩き潰そうとした。  トイがソンリェンなどには目もくれず離れて行こうとするならば、足を、腕を、身体を、心を潰すしかないと思った。けれども。  ──オレ死ぬの? 「こいつは、俺の」  ──オレ、死ねる、の?  トイは、確かに死を望んでいた。無意識だったのかもしれないが。  ここまでトイを追い詰めたとして、何が得られる。あの少女から貰ったと言うトイのミサンガを引き千切ることは出来ても、どんな意図であれトイから貰ったミサンガを外せず、未だにこうして女々しく肌に身に着けているくせに。  トイを縛り付けておきながら、トイに縋るしかできないのはソンリェンの方だ。 「俺たちの、玩具だった」  壊した所で何も変わらない。心が死んでしまえば元も子もない。  手に入れるどころか失う。  やっと、トイを見つけたのに。生きているトイに、触れることが出来たのに。  トイが泣く。トイが、ほっとする。トイが吐く。トイが痛がる。トイが喘ぐ。トイが絶叫する。トイが痙攣する。トイが許してと泣く。トイの呼吸が、短くなる。トイが動かなくなる。トイの夕暮れ色の瞳が、星の見えない夜になる──トイが泣く。トイが。 「こいつを攫って監禁して肉便器にして遊んだ。だが飽きたから……最後に壊して、捨てた」

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