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玉ねぎのスープと林檎とサンドイッチ──113.

『トイって言葉の意味、知ってるか』  いつだったか、ソンリェンの機嫌が最高に悪い時に耳元で囁かれた。乱暴に組み敷かれ揺さぶられている最中に罵詈雑言以外の言葉をかけられるのは珍しいことで、よく覚えていた。 『ァッ、痛いっ……いたい、よ』 『質問に答えろ』  答えないという選択肢はなかった。かえって機嫌を損ねてしまうから。苦痛を耐えるために噛みしめていた唇を開き、震える声を口にする。 『っ……お、もちゃ……』  息も絶え絶えに答えたトイに、ソンリェンは冷たく口角を釣り上げた。 『違えよ、別の意味を聞いてんだ』  前髪を掴まれ、涙でぐちゃぐちゃになった顔を覗かれる。汚え顔だな、とトイを嘲ったソンリェンの瞳が、トイがかつて大事にしていた壊れた人形の青い目と重なった。 『くだらねえもの』  細められた瞳から放たれる冷気は、まるで凍てつく冬のようで。  ひとりぼっちであの廃屋で暮らしていた時のほうが、まだ暖かかったように思えた。 『その通りじゃねえか、そうは思わねえか?』 『──ひ』  トイの心は、ずっと凍てついていた。  傷つけられ過ぎて、恨み言なんてありすぎて、今更どの感情が悲しみで憎しみで怒りなのかもわからなくなるくらいに。  だってどの思いを口にすればいいのかすらも判断がつかないのだ。ソンリェンの望む言葉とやらを選んであげられる余裕もない。  自分はこんなにも冷たい人間だったのだろうか、ただ一つ確実なことは、ソンリェンの側にいることは今も昔も変わらずただ哀しかった。 「なんでそういうこと言うんだよ。たかが……『くだらねえもの』の、ために」  ソンリェンがゆっくりと顔を上げた。いつもは鋭く上を向いている眉の端が下がっているのがあまりにも子どもっぽく見えて、トイの方が渇いた笑みを浮かべてしまった。今更、そんな顔をされたって。 「ソンリェンさ、シスターに殴られた?」 「……いいや」 「そっか」  そうであれば、トイはソンリェンを殴らなければいけないのかもしれない。ソンリェンが望む通り。  けれども、そんな気力はもうない。 「いまさら人間扱いされても、どうしていいのか、わかんない」 「ト……」  ソンリェンが口を噤んだ。名前を呼ぶなとトイが叫んだから、口を閉ざしたのだろうか。 「でも、一つだけある。言いたいこと」  それだけのことで、トイの苦しみが柔らぐとでも思っているのだろうか。  そんなの、あり得ないのに。 「解放してあげてよ」  解放してくれではなくしてあげてという言葉が彼の中で結びつかないのか、ソンリェンが考え込むように眉を潜めた。  これは時折考えていたことだった。自分から動かずこうして頼み込むのは卑怯だとは思うけれども。 「──オレの次に攫ってきた子、自由にして」  ソンリェンが息を飲んだ。  今この場でソンリェンに対して恨み言を叫んだって意味がない。  だって全て過ぎてしまったことで、今更どうしようもない。傷は治らない。過去は過去で、一番大事にすべきは今だ。  ソンリェンが屋敷を出たと言ってもそこにはまだ残りの3人がいる。新しい玩具と呼ばれているその子は、今この瞬間にもトイが合わされたのと同じ目にあっているのだろう。 「……そいつは今、ロイズだけが囲ってる」  言葉を濁したソンリェンも見る。妙な言い回しだ。だが、ロイズだけと限定的に言われた理由は直ぐにわかった。とても信じられるような話ではなかったが。 「他の奴らと、共有はしてない。ロイズの野郎、新しい玩具に本気で惚れたらしい」 「ほ……れた?」  ほれたとは、何だ。言葉の意味は知っているがあまりにも想像とかけ離れた説明に理解が追い付かない。 「非道にも扱ってねえらしい。部屋与えて、丁寧に接してる、らしい。無理矢理も、やってねえっつー話だ」  暫く開いた口が塞がらなかった。あの、トイを残酷に扱っていた残忍極まりないロイズが、誰かに惚れただなんて。丁寧に扱っているだなんて。無理矢理犯したりもしていないだなんて。 「うそ」 「嘘じゃねえよ……本当だ」  ソンリェンの顔は、嘘を言っているようには見えなかった。 「そ、う……なんだ」  力が抜けた。 「そっか……」  よかった。鼻の奥がつんと痛んだ。純粋に、安堵のため息が漏れる。  ずっと、連れ去られてしまった新しい子どもの存在が気になっていた。あのロイズにそういった感情を向けられてまともに幸せになれるとは限らないが、少なくとも、もうトイのような目に合っていないのならばそれに越したことはない。  よかったと、もう一度小さく呟いて滲んだ目を擦る。  ふと、ソンリェンの視線が気になった。何とも言い難い表情をしている。  なんとなくだが、言いたいことはわかる。あの屋敷に監禁されていた最中、トイが誰からも受けなかった待遇をその子どもが受けていることを気にしているのだろう。  トイはロイズにとって本当の玩具で、それ以上でもそれ以下でもなかった。  そんなのトイが一番よくわかっていたことだ。別にだからと言ってどう思うわけでもない。無関心に対して怒りを持つだけ無駄だ。  むしろソンリェンがそういったことを気にする素振りを見せていること自体に、膿んだ傷口の痛みが増していく。  その綺麗な頬を、張り倒してやりたくなった。 「……誰かを憎めるほど、オレ、強くない」  1年前も今も、ただ解放されたかった。それだけでよかった。  そして今その願いは叶いつつある。それ以上を望みもしも裏切られでもしたら、今度こそトイの心は死んでしまう。  だったら最初から何も望まないほうがいい。  ソンリェンの唇が言葉を紡ぐ前に、畳みかける。 「強く、ないんだよ」  シスターが来たら、ソンリェンとは関わりのない世界へとトイは歩きだす。その道を選びたい。  自分の心と向き合ってしまったらそれすらもできなくなる。  そんなのは嫌だ、もう疲れた。  もう、疲れたんだ。  最後の沈黙は、今まで以上に長かった。  ゆっくりとソンリェンが離れた。行き場のない彼の腕がぱたりと下がった。その綺麗な指先をだけをじっと見つめる。くるりとソンリェンが背を向けて扉へと向かい、ドアノブを回して外に出た。  ぱたりと閉じられた扉に乱暴さはない。けれども性急だった。勢いをつけなければ立ち止まってしまいそうだったのかもしれない。  あまりにも呆気ない、最後の邂逅だった。  誰もいなくなった部屋で、ベッドに深く背を預ける。  結局、ソンリェンの笑った顔は見られなかったな。  そんなどうでもいいことを思いながら、手首にちらりと光ったミサンガを擦る。  青と金色の、大切な友達から貰ったミサンガ。  トイはこれに何を願ったんだっけ。そうだ、不相応な願いだ。これからも育児院のみんなと一緒にいられることと──ソンリェンから解放されること。  窓の外の雨はまだ止まない。  ソンリェンに一度引きちぎられたミサンガ。そのお陰か願いは叶った。けれども、重ねられたソンリェンの唇の苦さは今も口の中に残っている。  きっと生涯、消えることはないのだろう。

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