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繋がれた手──114.

 自分は壊れてしまったのだと思っていた。  だって、壊されたから。  でも、優しい人たちに拾われたから。優しさに触れたから。  壊れた体を戻すことができるのかもしれないと、思っていたのに。  やっぱり壊れた人形は、いつまでたってもガラクタのままだった。  それなのに。  ****  もうここにくることはないだろうから、目を凝らして窓から外を見降ろす。  この部屋はかなり高い位置にある。木も近くには植えられていない。  前に監禁されていた屋敷も同じ3階だったが、それよりももっと高さがあった。  下はタイルで舗装されているし、落ちたら全身打撲どころではすみそうにない。打ちどころが悪ければ頭が割れて死んでしまいそうだ。  しかもトイのような骨も細く小さな身体の子どもは特に。  だが、高さがあるぶん景色は綺麗だった。もったいない、雨模様でなければもっと美しく見えただろうに、生憎と空は今朝から変わらずに曇天だ。  ただ、遠くの方では晴れ間も覗いているのでいい天気になる可能性はあるのかもしれない。 「ハイデンさん」 「はい」 「シスター、何時に来るとか、聞いてる?」 「聞いておりますよ、だいたい14時頃になります。今、迎えの者がここまでお連れしている所かと」 「そっか」  時計を見れば今は13時すこし前という所だった。ソンリェンとはあれ以降会っていない。  彼が言っていたように深夜に部屋を去ったっきり、明け方を迎えてそのまま仕事に向かってしまったらしい。 「玄関まで車いすをご用意しますので」 「え」 「まだ、歩くのはお辛いでしょう」 「あー……」  確かに、切れた部分はずきずきと痛かった。立ちっぱなしだと腿も震えてくる。  だが熱もないし、自力で立ち上がれるようにもなったので1階までは自分で移動できると、思う。ふらふらの状態ではあるかもしれないが。 「大丈夫、だよ。部屋の中だって歩けたしさ」  実際の所、掴まり立ちをして壁伝いに歩いていたので自力で歩けたとは言い難かったのだが、これ以上迷惑をかけたくないという思いのほうが強かった。 「……用意いたしますので。あなたに何かあれば私がソンリェン様に怒られてしまいます」  そんなわけないだろ、と笑うことは出来なかった。  時計を見直す。13時を過ぎた。シスターが来てくれるまでもう少し。早くシスターの顔を見たいと思う反面、もう少しこの部屋に留まっていたいという相反する気持ちがざわめいている。  過去を知られたことに対する痛みはもちろんある。どんな顔をして会えばいいのかと散々悩んだ。それに育児院に戻ればディアナもいるし顔を合わせづらい。  だがそういった事情とは関係無しに、別の痛みも心の中を侵食してくるので厄介なのだ。  ここにいたのはたった数日だ。しかも気を失っていたのでほとんど記憶にない。けれども時折頬に触れてくる固い指が、温かかったことだけははっきりと覚えている。  今日を過ぎれば、ソンリェンとの歪んだ関係も終わる。  ソンリェンはもうトイには触れないし酷いこともしない。そう言ってくれた。  トイはやっと解放される、これは喜ばしいことのはずだった。  トイはトイとしての人格を取り戻し、自由になるのだから。  それなのに、かちかちと時計の針が時を刻むたび焦燥感ともいえる不可解な感覚が湧き上がってくるのは何故なのか。  ソンリェンと、もう一度だけ話をしたかった。  そしてそれと同じくらい、もう二度とソンリェンに会いたくなかった。  押し込め続けている二つの真逆の思いが、毎秒ごとに膨れ上がっている。  トイが元いた居場所へ帰れば、この苦い感情も忘れることが出来るだろうか。 「失礼します」  とんとんと扉がノックされ、別の使用人が顔を覗かせた。  ハイデンが直ぐに扉へと向かい、何やら話しこんでいる。「なぜ」やら「引き取って頂いて」など、少々不穏な単語が耳に飛び込んできた。 「申し訳ございません。少々席を外します」  部屋に戻って来たハイデンがいささか引き攣った顔でトイに告げた。バルコニーに用意された椅子に座っていたトイは、ハイデンに支えられながら部屋の中へと戻った。 「あ、う、うん」  誘導されるがまま、真ん中に位置するベッドまで連れてこられる。 「私が戻るまで部屋にいて、絶対にここから出ないでください。私が出たら部屋に鍵をかけますので」 「誰か、来たの」  ここまでくれば、よくないことが起こっているのかもしれないとトイでも気が付く。 「大丈夫です。あなたはここにいてください。あとなるべく窓には近づかないでください。外から見られないように部屋の中央に。扉の外には私以外の使用人を控えさせますので」  しかもさっと窓を閉めて丁寧に鍵をかける始末だ。この高さからだと外から部屋は見えないはずなのに。 「わ……わかった」  騒がしい剣幕に、トイは素直に頷いてベッドに腰かけた。  なにがなんだかわからないが大人しくするに越したことは無い。ベッドの上で縮こまる。  ハイデンはトイを安心させるためにか、少しだけ口の端を釣り上げ、急いた様子で部屋から出て行ってしまった。  動くなと言われたのだからトイに出来ることはない。  トイは扉の外の様子を気にしつつ、広い窓の外の雨模様を眺めることにした。  ****  ぼうっとしていると、かちゃり、と鍵が開けられる音が背後から聞こえた。  ハイデンが出て行ってから数分ほどしか経っていないし、あまりにも自然だったのでハイデンが戻って来たのかと思ったのだが。  振り向いた結果それが間違いだったと直ぐに知ることになった。 「やっほー、久しぶり、トイ」 「──ッ」  思わず後ずさる。がたんとベッドに膝裏が当たってしまって倒れ込みそうになったがすんでの所で体勢を立て直した。 「ちょっと抜け道通って来たから埃まみれになっちゃったよ、ボロボロ」  明るい声色で、真っ直ぐに部屋に足を踏み入れてきた男を凝視する。  青年がぱっと顔をほころばせ、朗らかに笑った。 「なんだよその顔、やだなぁ。俺のこと忘れちゃったわけ?」 「……エ」  視線だけは決して目の前の相手から逸らさないようにして、震える喉からなんとか声を絞り出す。 「エミー……」 「あ、覚えててくれたんだねえ」  癖っ気の強い茶色の髪と同じ色をした瞳が、1年前と変わらずコロコロとさまざまな感情を映し出していた。  表情も仕草もどこか子どもっぽく、明るくお調子者で、気まぐれで──陰惨な苛虐性に満ち溢れていた青年がそこにはいた。

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