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トイの青空(終章)──131.

 そこは初めて足を踏み入れた場所だった。  当たり前だ、貧民街などほとんど訪れたことがないのだから。  それに、トイを攫った時もソンリェンは傍にはいなかった。だからトイがどんな場所でどんな生活をしていたのかなんて知らなかった。知る必要もないと思っていた。  けれども少しでも興味を抱いていれば、トイのこんな顔を見ずに済んだかもしれないとは思った。  ソンリェンはもう一度辺りを見回した。  細かく入り組んだ迷路のような道が大通りと繋がっている。足場は非常に汚く舗装されていない小道は所々が汚物に汚れて、道の端にはガラクタが山のように積まれ異様な匂いを放っていた。  汚い場所だから車にいていいよ、とトイに言われたが、そんなわけにはいかず付いて来たがここまでの惨状だとは。到底、人が衣食住を営んでいる場所とは思えない。  簡易な木や布で造られている家とも呼べないような小さな小屋がぽつぽつと立ち並び、異様な存在感を放っていた。きっと住居なのだろう。  だが、肝心の人の気配が全くしない。それもそのはずだ。  トイの育った貧民街は、一掃されていた。 「ここな、オレが住んでた場所」 「……ここは人が住む場所か?」  ソンリェンらしい正直な発言にトイは苦笑した。  彼からしてみれば、この廃屋など物置のようなものなのだろう。いや、ソンリェンの屋敷にある物置も、ここに比べればもっと立派に違いない。 「うん、屋外の日も、あったけど」  張り巡らされたクモの巣をぱっと手で払い、部屋の奥へと進んで行く。  平静を装っているソンリェンの足音はみるからに恐る恐るという様子で、育ちの違いとやらを如実に感じてしまう。  だから車で連れてきてくれるだけでいいと言ったのに、ソンリェンは一緒に貧民街を歩くと言って聞かないのだ。 「ほとんどはここにいたよ。外よりはましだったから。廃屋だし、天井も崩れてるけど」  仰ぎ見ると、屋根の一部がぽっかりと開いていた。寒くない夜はそこから星が見えて綺麗だとは思ったけれど、冬や雨の日は大変だった。  近くで拾った布で穴を塞いだり、大量の缶を並べて雨のせいで床が腐らないようによく工夫を凝らしたものだ。ここを去ったあの日からもう随分経つ。穴はあの頃よりももっと広がっていた。  蛇口を捻ってみたが、ぎゅっと錆びた音がしただけで何も出てこない。鉄の混じった赤い水も。  本当に整備の手が途絶えて久しいらしい。最も、かろうじて水が出ていた頃も飲料としては使えなかったけれど。  よくあることだが、1年ほど前にこの貧民街は一掃されてしまったようだ。そろそろこの地域も掃除されるという噂が流れていたことは知っていたが、皆行き場がなくて留まっていたのだ。もちろんトイもその内の一人だった。  ここにいた子たちはどこへ行ったのだろう。ほとんどは追い出されて別の地区に逃げたのだろうが、いずれ逃げた場所も一掃されるに違いない。  こうやって一つ一つ潰されていくのだ。身寄りのない孤児にこの国は冷たい。ソンリェンと一緒でなければトイはここの地区に入ることも出来なかった。  きしりと、板で出来た床を踏みしめ埃臭い部屋を見渡す。汚れた簡易ベッドと、破れた毛布はあの頃のままだ。だがあと一つ足りない。 「やっぱりない、か」 「なにがだ」  ベッドの下を覗き込む。もくもくと煙のように散った埃をかき分けてもどこにも落ちていない。 「ここに人形置いてたんだけど、無くなってる」  ベッドの脇にあるささくれた小さなテーブルの上に、トイは幼少期にゴミ捨て場から発見した人形を置いていた。 「そりゃもう、2年半……それ以上、経ったしなあ」  そこまで大きくはない。トイの片手からちょっとはみ出るくらいの外国の人形。  汚れていたしお世辞にも綺麗だとは言い難かったから、盗んでいく子どもなんて誰もいないと思っていたのだけれど。 「誰か、持ってったのかな、一掃された時に捨てられたのかも」  ぽすんと、ベッドに座る。  その途端ベッドに沈殿していた塵が宙に舞って少し咽てしまった。慌ててベッドの上をぱたぱたと払い、綺麗にする。  数年前まではこんな汚れとは毎日隣り合っていたけれど、久しぶり過ぎてあまりの汚さに鼻がツンと痛くなった。  ここに居を構えていた時もここまでではなかった気がする。なんだかんだ言って時間がある時は掃除を欠かさなかった。  ここに戻って来られなかった年月を思い知る。 「どんな人形だ」  ぎしりと床が軋んだので顔を上げると、埃を避けながら汚い床にしゃがみ込み、棚下の隙間などを覗き込もうとするソンリェンがいた。  ソンリェンの高級そうな長い裾が地面についてしまいそうになって慌てた。 「い、いいって! たぶんもうここには、ないだろうし」  大切なものではあった。だがもう行方を追うほどのものでもない。きっともう誰かしらに捨てられている。一抹の寂しさはあったがこればかりはもうどうしようもない。 「もうほとんど、ゴミみたいなもんだったしさ」  悲しい気持ちを隠すためにつま先で床を蹴る。  トイはゴミだと思わなかったが、誰の目から見てもそれは壊れる寸前の人形だった。取れかかった目、ボロボロの布、ほどけた糸。黄ばんだ綿。  そう、道端に捨てられていても見向きもされない、ただの玩具だ。 「ゴミか」 「うん」 「だが、お前にとっちゃゴミじゃなかったんだろ」 「へ」  顔を上げる。眉間に皺を寄せたソンリェンがいつのまにか目の前に立っていた。 「どんな、人形だったんだ」  自然な動作でソンリェンに手を取られる。反射的にびくりとしてしまったが、トイが震えたことによって直ぐに離れようとした大きな手が温かかったので、トイの方から掴む。  トイがナイフで刺したソンリェンの手の甲の傷跡は、未だに塞がっていない。 「そんりぇん」  ソンリェンを見上げる。眉間の皺が深まっていた。ふと口元が緩んだ。 「驚いた、だけ」  ソンリェンは何も言わなかった。何も言わずにもう片方の手をトイの手に添えた。暫く二人で手を繋ぐ。  ソンリェンの指先に手の甲を撫でられてくすぐったさに自然と口が開いた。 「トイって……トイって名前だと思ってたんだ、その人形」 「トイ?」 「そ。トイって、洋語でおもちゃって、意味なんだろ」  ぎゅっとソンリェンの手に力が籠ったので握り返す。 「それがさ、人形の脚に書かれてて。オレ、それがあの子の名前なんだって勘違いしちまって」  ソンリェンが今どんな顔をしてるのかは想像に難くない。  だから彼の白くてきめ細やかな手だけを見つめた。 「汚れてて、手足も千切れて綿も出てて、色も黄ばんでたけど……金色の髪で、目も青くて、綺麗な人形だったんだ。だから、オレ」  すうと息を吸い込む。 「自分のこと、トイって名前に、したんだ」  顔を上げる。トイもある程度緊張していた。目の前にいる彼に本当にこの話をしていいのかと。  ただ、今のソンリェンにならトイの名前の由来を聞いてほしいと思っていた。 「……ソンリェン」  案の定、ソンリェンはなんとも言い難い顔をしていた。  『あ、トイって名前すごくない? 完璧玩具になるために生まれて来たって感じだよね』  彼に対する怯えが全て消えたわけじゃない。傍にいれば緊張もするし、急に触れられるとびくついてしまう。  ただ別に、今はソンリェンを責めようとしているわけではない。何も言わずにここに連れてきてくれたし、服が汚れるのにも構わずトイの大切な人形を一緒に探そうともしてくれた。  潔癖で、汚い所が大嫌いなはずのあのソンリェンがトイと一緒にこの廃屋に足を踏み入れてくれた。  だからこそ、話したいと思ったのだけれど。 「……人形、探そうとしてくれてあんがとな」  失敗だったのかもしれない。  車から降りここに来る途中、通った道に足が竦み数秒硬直してしまった。  怪訝そうな顔をしたソンリェンに、「狭くて暗いよな」と言い訳にも満たない言い訳をして振り切るように足を速めたのだが。  暗いと言ってもまだ太陽も昇っている時間帯だ、ソンリェンは気が付いたのかもしれない。  急に手を握りしめられて、その道を抜けるまで彼の手はトイから離されなかった。  そこはトイがロイズたちに車に押し込められ、連れ去られた場所だった。

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