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トイの青空(終章)──132.
「トイ。──ッ……」
ソンリェンがトイの前で膝立ちになるために屈んだ。が、途中で止まった。ソンリェンは息を飲んで地面を見ながら顔を強張らせている。トイもつられて床を見る。
「あ、虫?」
一匹のそこそこ大きなクモが呑気に床の上を歩いていた。
トイにとっては見慣れた光景な上、廃屋に虫はつきものなのでどうってことないのだが、生粋のお坊ちゃんであるソンリェンにとってはそうではないらしい。
綺麗な顔を引き攣らせた青年の代わりにクモをひょいと靴に乗せ、ぽいと壁板の隙間から外へと逃がしてやる。
「元気でな」
蜘蛛はかさかさと音を立てて草の中に逃げ込んでいった。くるりと振り返る。
「ソンリェンって虫苦手だったんだな」
「お前はなんでそんな平然としてられんだよ……」
忌々しさを隠しもしないソンリェンに、トイは目を瞬かせた。
「え? だって虫なんて沢山いるし……ソンリェンビビり過ぎだって。ほら、よく見るとかわいい顔してんだぜ?」
「やめろ! 近づけんじゃねえ」
壁を歩いていたこれまた小さなクモをちょこんと手に乗せソンリェンの傍まで持っていこうとしたのだが、全力で拒否されて楽しくなってしまう。
なんていったっていつも澄ました顔をしているソンリェンが、こんな小さなクモを持っているだけのトイから後ずさろうとしているのだ。
今、彼の肌には鳥肌が立っているに違いない。
「なんだ、ソンリェンのこと嫌んなったら虫投げ付ければいーんだな」
「てめぇ殺すぞ!」
再会した頃はあんなにも恐ろしかった言動が、今は露ほどにも怖くない。不思議な感覚だった。あのソンリェンとこんな、ふざけ合うような会話が出来るようになるなんて。
ただ、ソンリェンの怒鳴り声で会話は途絶えてしまった。それにこれ以上ふざけたことをしてしまうと短気なソンリェンの機嫌が下がり過ぎてしまう。
そこまでする気はないので、手のひらでこそこそ動いている小さなクモを窓の隙間からそっと外に逃がす。
「……おい」
黒いそれが草むらに消えていくのを見送っていると、後ろから声を掛けられた。
くるりと振り返ると、なにやら難しい表情をしたソンリェンがトイをじっと見つめていた。なんだろうとトイも見つめ返す。
ソンリェンは何を言い渋っているのか、トイから目線を逸らして腕組みをしたり腕を解いたりと忙しない。
ますます怪訝に思えて首をかしげると、ソンリェンは乱雑に頭を掻いてからトイにようやく視線を合わせ、ぽつりと吐き捨てた。
「今のは、冗談、だ」
「……え?」
「本気じゃねえよ」
何のことを言っているのかと一瞬考えかけたが、それがソンリェンの言い放った『殺すぞ』発言のことを指しているのだと理解した途端、トイは言葉を失ってしまった。
トイがクモを逃がすために背を向けたことで、ソンリェンの言葉でトイが怯えたと勘違いさせてしまったらしい。
「──う、うん。わかってる、よ」
なんだろう、どぎまぎしてしまう。
トイが神妙に頷いてみせたことでソンリェンも気が済んだのか、ふいとそっぽを向いてしまった。
ソンリェンの指先が動いている。煙草を弄っている時のように。ただ、彼の手元に今煙草はない。一週間前から、一日の本数を5本以下と決めているらしい。
トイにとってはそれでも多いような気がするのだが、これまでの本数が一日20本以上だったのでこれでもかなりの進歩、とハイデンは言っていた。
そんなに吸っていたのかと驚いたが、言われてみればソンリェンは常に煙草を吸っていた。
一週間、ソンリェンの屋敷で過ごした。
トイが傷つけてしまったソンリェンの手の看病をしたいと願い出たはいいものの、肝心のトイの体調がやはり芳しくなく、基本的にはソンリェンの部屋で過ごした。ソンリェンはその間別室で過ごしていた。
ソンリェンの部屋で寝て、起きて、ソンリェンがトイに会いに来て、ハイデンや時々他の使用人に食事を持ってきて貰って、食べて、休んで。
仕事の合間を縫ってまたソンリェンが顔を見せに来て、午後になれば運動する必要があるからとソンリェンに連れられて二人で庭に出て、歩いて、また部屋に戻って。
ぽつぽつとソンリェンと少し話しをして。その繰り返しの日々だった。
ソンリェンとまともに触れ合った機会と言えば、庭を散策する際に手を繋がれた時。
部屋を去り際に、額か頬にキスを送られる時。
そして体力も回復し、屋敷の中を自由自在に歩けるようになった後半の2日間、ハイデンに頼んで朝と夜にソンリェンの右手の包帯替えをさせて貰った時、ぐらいだ。
トイの身体を気遣ってか、ソンリェンはトイと一緒に夜寝ることも、風呂に入ることもしなかった。食事は、何回かソンリェンの部屋で二人で取ったけれども回数はさほど多くない。
ソンリェンは元々そこまで口数が多い男ではない。
トイの身体を暴いている最中や罵詈雑言を並べたて怒鳴っている時は饒舌だが、それ以外ではむしろ寡黙……というよりも、気が乗らない時以外は口を開かない。もくもくと煙草を吸っている。
ソンリェン自身もそんな自分の気質をわかっているからこそ、本調子ではないトイがなるべく穏やかに過ごせるよう一人の時間を与えてくれたのだと思う。
トイの見立てではソンリェンはかなりの口下手だ。
煙草を吸う回数が多いのも、元々はそれが理由なのではないだろうかとも思っていたりもする。
本人は絶対に認めたがらないだろうが。
ソンリェンが渋い顔のまま身体を背けてしまったため、トイの方から近づくわけにもいかず窓から離れてベッドへと向かう。
「あのさ、ソンリェン」
なんだ、とばかりにソンリェンは組んだ腕を変えた。身体は此方を向かないが意識は向けてくれているようだ。
「オレもうちょっとだけここにいたいんだ」
それほど長い時間は取らせないという名目でここに来た。それに車ではハイデンがトイたちの帰りを待っている。だがもう少しだけこの部屋にいたかった。
きっと、もう二度と来ることはないだろうから。
「でも虫も出るし、ソンリェンきついだろ? 先に外出てていいよ」
とすんと再びベッドに腰かけて天井を見上げる。
開いた穴から零れた光が部屋に差し込み、舞い上がっている見えない埃が光を反射しキラキラ輝いていた。
天気の悪い日は穴を塞がなければならなくて大変だったのだが、透き通るような太陽の明かりが夕暮れの赤に変わるまでここから空を見上げるのもトイは好きだった。
特に星が綺麗な夜は、寝ずに何時間だって見ていられた。
「オレは慣れてるけど、ソンリェンこんなところにいたら病気になっちゃうかもしんねえし──」
どすん、と突然ベッドが軋んで横を向く。
いつのまにか、ソンリェンがトイの隣に座っていた。
「そ、そんりぇん?」
「なんだ」
「ベッド、汚ねえよ」
「わかってる、うるせえな……」
ソンリェンはそれきり黙り込み、だんと長い脚を組んだまま汚れた床を見つめ、動かなくなってしまった。
トイの方もそんなソンリェンにどういった態度を取ればいいかわからず、鼻筋の通った美麗な横顔から視線を逸らし、ソンリェンに倣って床を見つめる。
ベッドに深く腰を降ろしてもぴったりと床に足裏が付き、それでも脚が有り余っているソンリェンと違って、トイの脚はまだ短く足裏も半分しか床に付けられない。
なんとなく脚を交差させたり、両脚をぶらぶらさせてみたりした。
時間が過ぎる。まだまだソンリェンとの会話も、関係も手探りだ。
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