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トイの青空(終章)──134.
頼むから、そんな真面目な声で名前を呼ばないでほしい。
おまけにこつんと額をくっつけられてしまえばトイはもう目を逸らせなくなる。
なぜこういうことをするのかとソンリェンに問うた時に、彼はトイの瞳がよく見えるからと言った。
そしてそれと同じように、ここまで近づけばトイの方からもソンリェンの瞳がよく見えてしまう。長い睫毛の下に青く澄んだ宝石が揺れている。
それがトイだけを見つめているのだと思ったら、恐れとは違う何かがぶわりと吹き荒れ身体中が熱くなる。視線に晒されている産毛までも、ソンリェンの視線に焼かれそうだった。
「したくねえか。俺とこういうことは」
だが、それとこれとは話が別だと、思う。
「……わ、かんねぇよ」
今までであれば、ソンリェンとはしたくないとはっきりと明言できた。
「だってオレ、せっくす……って好きじゃない」
もう1週間前の傷はほぼ癒えたが、人としての尊厳を奪われて玩具として、穴として弄ばれるのは嫌だ。それはもはやセックスではなくて自慰だ。自慰の道具として自分の身体を使われるのは嫌だ。
「こ、怖えし、苦しいし、痛えんだもん……」
玩具であったトイが痛がろうが泣き喚こうが、ソンリェンと残りの男たちは関係なくトイを組み敷いてきた。あんな思いはもう二度としたくない。けれども。
「二度と、玩具扱いはしない」
今のソンリェンは昔のソンリェンとは違う。トイを人間として扱ってくれる。
「ほんと、に?」
「ああ」
「痛いのは、いやだ……」
「痛くも、しねえよ」
「苦しかったりするのも、や、やだよ……」
「ああ、しない」
それが嘘ではないということは、言葉や態度から伝わってくる。
今のようにするりと鼻を擦り合わせられたり。
「──トイ、お前を抱きたい」
こうやってしっとりと唇を吸われ強く抱きすくめられたりすれば、ソンリェンの気持ちに触れることが出来る。
ソンリェンはトイが玩具だからトイを欲しているのでもなく、トイがトイだからこそ求めてくるのだと。
それはもう、わかっているのだが。
「でも……オレ、途中でやっぱやだって、なったら」
まだ身体を重ねるという行為にいい感情を持っていないというのも事実だ。それに今はだいぶ落ち着いてはいるものの、時折監禁されていた当時のことを思い出して錯乱してしまう時もないとは言えない。
もしもソンリェンとしている最中にそんな状態に陥ってしまったらと考えると、素直に身体を開くことは躊躇われた。
トイ自身、自分の身体がどうなるかわからないのだ。
「そうなったら止めてやるよ」
「え、ソンリェンやめれんの」
「……人を盛りのついた犬みたいに言いやがって」
「だって盛りのついた犬じゃん」
反射的に本音を吐露してから、あ、と口を抑えたが時既に遅かった。案の定増えた眉間の皺。すっと目が細めたソンリェンの頬が引き攣った。
「てめえ、言うようになったな」
「ご、ごめ……んん」
低い声に一瞬ひやりとしたが、三度目のキスでソンリェンが別に不機嫌を纏っているわけではないということがわかった。
薄く開いていた口を塞がれ今度こそ舌が忍び込んでくる。
けれども深い口づけは決して乱暴ではなくむしろ丁寧過ぎるほどだ。優しさを持って、トイの性感帯を巧みに暴いてくる。
「ふ……はぁ、ンン……」
鼻から色に満ちた声が抜けていく。荒い呼吸と共に溜まった唾液がだらだらと口周りに零れ落ちて、それを見せつけるように舐めとったソンリェンのじっとりとした視線に下半身にぶわっと熱が溜まった。
じんわりと下着の中に滲んだそれは言い訳不可能な快楽の証。しかも、ソンリェンにバレてしまった。
「硬えな……」
「あ……や」
「隠すな」
「んな、こと言われても」
「……隠さなくていい、トイ」
「ぁ」
膨れ上がったトイの下腹部に、ソンリェンのそれがぐいと押し付けられた。しっかりとした硬さが服越しに伝わってきて頬が余計に赤らむ。ソンリェンの雄は、服越しからでもわかるほど盛り上がり、先走りで湿っていた。
本気だ。本気で、今ここでトイと触れ合いたがっている。
ソンリェンは、トイが欲しいのだ。
「そん、りぇん」
「惚れた奴前にして盛るなっつー方が無理だろうが」
「ほれ……っ」
直接的な台詞に心臓が潰れそうになって、ぎゅっとソンリェンの手を握りしめる。すぐ様握り返された。
かわいいだとか愛おしいだとか綺麗だとか、一週間前にソンリェンに耳を疑うようなことばかり言われたはがりだが、あの時は死にかけた直後だったし、自分の心を曝け出すので精一杯で他のことはあまり考えられなかった。
今はあの時よりも冷静になってソンリェンの言葉を受け止められるようになったぶん、羞恥心もさらに倍増する。
「……なンだ、照れてんのか?」
揶揄を含んだ囁きを吐息と共に吹きかけられて、トイはたまらず目を瞑った。
「ば、ばか……ソンリェンのばか……ッ」
「あ? 誰がバカだ」
「っ……ソンリェンってほんと、面倒臭いよな!」
誰が面倒臭いって? と怒られる代わりに、さらなる爆弾を吹き込まれる。
「ああ、お前の前でだけな」
しれっとした態度に言い返すための台詞が行き場をなくし、ぱくぱくと口が開閉してしまった。
「……優しくさせろ」
一瞬で、ソンリェンの声色からからかいの色が抜けた。言葉はあいも変わらず絶対的な命令口調のくせに、明らかな柔らかささえも滲んでいる。
至近距離から唇にかけられる吐息が熱っぽくて、思考すらもぐらぐらしてきた。
「優しく、抱きてえんだよ……ここで」
「でも、む、虫は」
「どうでもいい。今はお前しか見えねえよ」
頬に手を添えられ囁かれた台詞は今まで以上に甘ったるかった。さっきまで小さなクモにすら顔を引き攣らせていた人間の言葉だとは思えない。
トイはぽかんとソンリェンの顔を見上げ、思わず吹き出してしまった。
「な、なんだよぉ、そのセリフ……あはは」
「あ? なんか文句あんのか」
滅多にないことを言ったとソンリェンも思っているらしく、首筋に顔を埋められやんわりと噛みつかれた。もちろん痛みはない。トイから唯一見えるソンリェンの耳たぶは赤く色づいていた。
ふいに途方も無い何かが込み上げてきて、笑いながらも鼻の奥がつんと痛み眦に涙が滲んだ。
しゃくり上げてわけがわからなくなってしまう前に、トイの方からソンリェンの首に腕を絡め引き寄せる。
ソンリェンが顔を上げたので、僅かに見開かれた瞳を見つめながらトイの方からそっと口づけた。ソンリェンの真っ赤な唇に。
「──ない」
額を擦り合わせて、ソンリェンの顔を覗き込む。ゆらゆらと揺れる青の向こうに、泣き出しそうに歪んだトイの顔が見えた。
哀しみに彩られているわけじゃない。
ソンリェンの仕草一つ一つにいじらしい程の擽ったさが胸に広がり、感極まっているのだ。
人はこれを、泣きたくなるほどの幸福感と呼ぶのかもしれない。
「ないよ、そんりぇん」
トイがまだ玩具ではなくトイとして生きていたこの場所で、ソンリェンがトイに触れようとしてくる意味が、頬を伝う雫を伴って心の中に染みてくる。
「トイ」
「な、に」
ソンリェンが見るからに高級そうな羽織を脱ぎ、トイの後ろにそっと敷いた。トイが寝そべっても汚れがトイに付かないようにだろう。
オーダーメイドの服よりも、家よりも、トイを大事に扱ってくれるソンリェンに込み上げてくる想い。
自覚したくないのではなく、口に出すのが勿体なくてトイは自分の唇を柔らかく噛んだ。
「怖かったら、言え」
「ん……」
「痛くても言え」
「うん」
ゆっくりと掛けられてくる体重を、拒むことはもうない。
「途中で嫌になっても言え、気持ち悪くなっても」
「うん、うん」
「ただ虫は投げんな」
「ふは……んんぅ……」
笑いに開いた唇を塞がれて。
トイは口の中だけで、最後にうん、と囁いた。
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