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第57話 (7月) (3)

長い静寂のあと… 小さな声でAoiが告げる。 「ごめん…、 俺…… 今日…歌えない…! …ごめん…っ!」 涙声のAoiは紅葉より震えていた…。 「…うん。分かった。 …タクシー呼んでるから、すぐに病院に行きな。」 マツはAoiの肩に手を置いて優しくそう答えた。 「ほらっ! 立って! 早くしろよ。」 「これ鞄…ちゃんと持って。 Aoiタク代あるー?」 サスケとゆーじがAoiをフォローする。 「紅葉も病院に行く?」 凪に聞かれて迷う紅葉…。 「でも……! 後から…行く…。」 ユキのことはとても心配だし、本当は今すぐ病院に駆け付けたいが… ボーカルのAoiがいなくて今日のLIVEはどうなるのかと心配する紅葉。 それにまだ先ほどの動揺が酷いので、少し落ち着いてから向かうと告げた。 すぐにサスケとゆーじが楽屋に戻ってきて 「さて…」 「…どーする?」 開場まで残り1時間、開演まで1時間半だ。 ボーカル不在でツアー初日を切り抜けられるのだろうか? それともこんな直前に公演の中止? 既にお客さんは集まっているし、グッズを手に楽しみにしてLIVEを待ってくれている。 チケットの払い戻し代だけでもかなりの損失になる…。 楽器を弾くメンバーならこの前凪がピンチヒッターを務めたように、片っ端から連絡すれば見つかるかもしれない。 でもボーカルはバンドの顔だ。 LiT Jの花形をAoiと同等の歌唱力と表現力を持ってステージに立てるボーカリストを今から探すのは不可能に近い…。 「一応聞くけど…紅葉…歌えないよね?」 凪の台詞に驚く紅葉。 「えっ?! 僕っ?! 曲は分かるけど…、下手なの知ってるでしょ? ヴァイオリンがあればメロディーを奏でるくらいは出来るけど…ごめん、無理だよ。 LiT Jの曲、難しいもん。」 「うーん…」 中途半端に紅葉を出すよりボーカルなしでいく方がいいだろう。 それでLIVEが成立するか疑問だが… それかAoiの歌唱部分だけ撮ったのを編集して流すか…。 時間が足りないが…。 中止か…。 金銭的に現実的でない。 …ファンのためにもこれは避けたい。 メンバーは決断を迫られていた。 「……胃薬が欲しい。」 リーダーのマツは胃が痛いらしい。 10年以上LiT Jをやってきて、初めての事態だ。 Aoiは口も悪いし、不真面目そうに見えるが、練習にもLIVEにもきちんと現れるし、ハードなスケジュールでも体調管理を怠らない。 いつも完璧なLIVEをこなす。 身体が楽器と言っても過言ではないボーカリストにとって、これはけっこうスゴイことだ。 影で努力していて、周りに気付かせないタイプなのだ。 だから今日、「歌えない」と言った彼を誰も止めることなんて出来なかった。 皆、大切な人が命の危機にあったら自分はステージに立てるのだろうか?と考えていた。 プロとして立つべきなのだろうが、もし最悪の事態を迎えてしまったら…? 後悔と悲しみを抱えて生きるだけでもツラいと思うが、それでも好きな音楽を続けられるのだろうか? 続ける意義を見出だせるのだろうか…? 「あーっ!! もう! 誰かいねーの? Aoiの代わり!」 「いないよねー? ドラマみたいにそんな奇跡は起きないよねー?」 サスケとゆーじも途方に暮れた目で天井を眺め、煙草を手にしていた。 コンコン…っ! 「やっほー! 初日おめでとー。 結婚式で会えなかったから若菜さんに挨拶しようと思って、やっと少し気温下がってきたから遊びに来たよー! …あれ? 何かあったー?」 「あぅー」 「あ、とりあえず煙草消してもらっていーい?」 突如現れたのはLinksのボーカルみなで、その胸には生後3ヶ月半の愛娘、愛樹(あんじゅ)を抱っこしている。 「み、なちゃんっ!!」 「女神?天使?」 「…サスケ、煙草消せって。」 冷静な凪と、みなの手を離さないサスケとゆーじ。 「な、なに? 怖いんだけど…っ! マツくん…?」 「2人とも離して。 …ごめん、とりあえず座って。 来てもらっていきなりだけど、ちょっと話してもいい?」 「……いーよ?としか言えない雰囲気(苦笑) 紅葉、喉渇いたからお水買ってきて。 凪、愛樹を抱っこしてて?」 「あ、うん。」 「了解…。」 首がすわったので前よりは抱っこに自信がついた凪は慣れた様子で愛樹を受け取った。 「か、かわい…い!」 「既に美人! 瞳が透き通ってる! まさに天使!」 「見ろ、手足がすげー小さい!」 「ぅー…」 「「喋ったっ!」」 サスケとゆーじは小さな愛樹に夢中だ。 マツも自然と微笑む。 それから…事情を聞いたみなは5分ほどその場で考えて、LIVEへの出演を決めた。 光輝に電話をしてAoiの代わりにステージに上がることを本当に一言で伝え、後はマツに事情を説明させていた。 「授乳しながらセトリ覚えるから愛樹と2人にして欲しい。紅葉、LIVE中、愛樹のこと頼める?」 「うん、もちろん。」 「凪はカナに連絡して家から衣装になりそうな服とメイク道具持って大至急くるように伝えて。あ、靴も欲しい。 お客さんやスポンサーへの説明云々はあとの3人でよろしく。多分30分は押しになるかな。」 じゃあ時間ないから、とクールに告げたみなは楽屋に籠った。

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