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第111話 (4月) (2)

結婚記念日のディナーに選んだのは凪の亡き父親が働いていた京懐石料理の店だ。 「スゴい…お店だね。」 一流ホテルに入るこの店は完全予約制。 格式高くて紅葉は緊張した様子だ。 「そうだな。 あ、あんま緊張しなくていーよ? 個室だし。 …俺もここに来るのは二度目なんだ。 でもなんとなく…雰囲気はあんまり変わってない…と思う…。 もちろん味も…。 一度目は店がオープンしてわりとすぐ…。 母さんの誕生日に。 来年もって約束してたけど、その日が来る前に親父が亡くなって…そのまま。」 「…そうなんだね。」 今は父親の一番弟子が継いでいて、目の前で料理を出してくれている。 寡黙な人だが、そっと凪の父親の分もグラスにお酒をついでくれた。 「因みにこのホテルのオーナーが翔くんの親父さんだよ。」 「えぇっ?! そーなの?」 お金持ち…と紅葉が呟く。 凪の父親と翔の父親は古くからの友人同士だったようだ。 翔の父親が少し年上で、このホテルの管理を任されることになった時、京都の別の店で働いていた凪の父親に出店の声をかけたそうだ。 転職、転居、転校を勝手に決めた父親に凪は怒り、反抗した。 でも何も変わらず…。 一度覚悟を決めたらあとはどんどん動き出す父親だったらしい。 なんだか凪と似ているな、と紅葉はこっそり微笑んだ。 都内に引っ越してそこから両親はとても忙しくて、父親は体調が悪くても休むことも病院へかかることもせず、末期まで病気に気付けなかったそうだ。 でも店は残っていて、本格派の京懐石料理が味わえる店として繁盛している。 今の店主は凪の父親の功績だと話してくれた。 凪は父親の病気のことを知らされていなったそうだ。 転校して新しい環境に慣れるのに精一杯だったこと、早く友人たちに溶け込みたくて関西訛りはその時に直したことなど…凪は懐かしいと言いながら話してくれた。 「亡くなる直前になって病院で親父と話したんだ。その時だけ意識あってさ。 母さんのこと頼まれて…“お前はもう一人でも生きていける年だ。好きなことをやれ”って。」 「音楽とお料理の道…迷ってたの知ってたのかな?」 「どう…かな? ちゃんと話したことないんだ。 ドラム欲しいって言ったら買ってくれたし、習わせてもくれた。忙しくてあんまり家にいなかったけど、やりたいこと全部やらせてくれて…そこは感謝してる。 俺も自分の店持つのが親父の夢だったのは知ってたから…反抗しつつもいつかは継ごうって思ってたし、でも高専出て就職してもやっぱ迷いが出てさ。 その時、親父の言葉思い出して…。 音楽選んだのは自分だけど、すぐ売れたわけじゃないから時々後悔したり…。 でも紅葉と逢えたから…良かったって、今は本当にそう思うよ。」 凪がそう話すと紅葉は黙ったまま、優しく微笑んだ。 「ずっと話そうと、この店にも連れて行こうと思ってたんだ。」 思いはあってもなかなか実行出来なかったのは、本当に辛い想い出だからだ。 紅葉は両親を亡くしていたのもあり、そのことを理解していたし、父親の死について詳しく凪や彼の母親である早苗に聞いたことは一度もなかった。 紅葉だって気になったこともあっただろうに、過去に触れずにそっとしておいてくれたことに凪は感謝していた。 結婚式の前日…、2人で墓前に挨拶に行った。 紅葉は改めて凪を大切にしますと誓ったのだ。 「そっか…。 ありがとう。 話してくれて。 そして今日、連れてきてくれて。」 「こちらこそ…。 紅葉を連れて来れて良かった。 ごめんな? 記念日に暗い話して。」 「ううん! そんなことないよ。」 ツラい過去を受け入れて、未来を歩むのは大変だ。それでもこれからは2人で支え合って生きていける。 話しにくいことも、下らないこともなんだって話そう。そう誓い合った。 「なぁ、事後になるけど、やっぱ紅葉のご両親にもちゃんと報告しに行こう?」 「うん…!」 凪はけじめやスジを通すことを大切にしているのだ。紅葉は日本人らしい彼を素敵だと思っている。 優しい彼の提案に笑顔で頷いたのだった。

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