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第2話

「食べられるか? 今の季節が一番うまい果物も用意したんだ。ほら……」  なんとかこちらを向いて欲しくて急いたように声をかければ、モモはやっと顔をあげた。  のろのろと、ひどく緩慢な動作で腕の中から顔を覗かせる。その濁った真っ暗な瞳がサイドテーブルに広げられたものを見る。  いや、見るというよりも視界に入れたというほうが正しいのかもしれない。ぼんやりと焦点の合わない虚ろな瞳は、視界に映ったものを眺めているだけだ。その証拠に、モモの瞳はさほどの関心もないままにゆったりと瞬かれた。  けれどもエイダンは、そんなことでも嬉しかった。  モモの興味が食事に向いたことに、暗い喜びが胸の中に広がった。 「ほら、エイロンだ。モモの世界では確か……めろん、だったか?」  モモの肩に手を添えながら、耳元で優しく囁く。  細い肩だった。少し力を込めれば直ぐに折れてしまいそうな程の。  本当はモモの好きなスイカという果物を用意したかったのだが、この国にそんな果物はない。唯一形や大きさが似ているとモモが笑いながら教えてくれたものが、このエイロンだった。  黄色くみずみずしい果肉には甘さがたっぷり入っている。モモはこれを美味いと言って食べてくれた。それも、もう1年も前の話になるけれど。  ここまで甘いエイロンは、滅多にお目にかかれない。モモのためにエイダンが栽培させたのだ。国の金を、使って。  1年前のモモであれば、そんな下らないことに金を使うなとエイダンを一喝でもしていただろうが、今はそんなことすら言ってくれない。エイダンと目を合わせようともしない。  喜んで頂けるといいですねと、儚く笑んだ作り手もモモの優しさに触れた一人だった。 「これは栽培した中で一番甘かったエイロンだ、失敗作も出来てしまったんだが……」  モモは小柄だが、あちらの世界ではかなりの運動をしていたようで、それなりにほどよい筋肉に包まれていた。  皮で出来たエイロンくらいの大きさの丸い球を蹴り飛ばし、互いの籠に入れて点数を競い合うというなんとも珍妙な運動をしていたらしい。  モモは、フォワアドという強い地位にいたんだと以前嬉しそうに話してくれていた。モモはとても足が速かった。  だが、今はその足もただ細いだけだ。筋肉も削げ落ちて棒のようだった。食欲の落ちたモモに毎日きちんと食べさせているつもりなのだが、か細い体は日に日に痩せ細ってきている。  精神的な負担が大きいこともあるだろうが、一番の理由は別にある。  モモの両足首には一筋の深い傷があった。そしてそこに、重い枷までも巻き付いている。  モモの体をこんな風にした人でなしを捜す必要はない。もちろん、犯人を罰することもだ。この国では誰も犯人を裁くことなど出来やしない。当たり前だ。  犯人は、他でもないエイダン自身なのだから。  モモの足首の腱を切り、それでは飽き足らず、エイダンにしか解けない詠唱を使って枷を嵌め、鎖を巻き付けこの部屋に閉じ込めた。  モモはもう自力で走り回るどころか、自分の力で部屋の中を歩き回ることすらも叶わない。仲良くなったこの国の子供たちと、球を蹴り合って遊ぶことも。  手洗い場や風呂場に行くときもエイダンが抱きかかえて連れて行く。モモはエイダン無しでは生きられない哀れな体になった。それなのに、いっそのこと腱を切るだけではなく両手両足も切り取ってしまいたいと思ってしまうのだからエイダンも重症だ。ほとほと自分に呆れる。  エイダンはモモに死ぬほど嫌われ、途方もなく憎まれていることだろう。 「いいのが出来たと連絡を受けてな。直ぐに受け取りにいってきた」  モモをそっと引き寄せると、モモはぽすんとエイダンに体重を預けてきた。受け入れられたわけではない、抵抗する気力がないだけだろう。  ふわりと香るモモの匂いに、このままモモの体調も考えずにこの甘い体を暴いてしまいたくなる熱い衝動に駆られる。だが、抱いた腕に力を籠めることで抑えた。  今日こそは無理矢理抱かずに優しくしようと心に誓ったのだ。  懸命にモモに話しかけて、少しでもモモと会話をしようと。1年前のように、モモに僅かでいいから笑ってもらおうと。  決して苦しませたいわけではないのだ。  ただモモを傍に置くために理性を手放した結果、モモに地獄を味わわせることになった。  自由を奪いこの広い部屋に閉じ込めた。これ以上身勝手にモモを求めれば、モモは確実に壊れてしまう。もっとも、もう既に壊れていると言っても過言ではないのだろうが。  元気に人々と触れ合い、王宮の外の世界を走り回っていた勇ましいモモはもういない。  今のモモは生きながらに死者のようだ。エイダンの心に僅かな痛みが広がっていく。  だが、モモの手足につけた枷を取る気は、ない。 「……食べたくない」  やっと口を開いたモモの声はひどくしゃがれていた。  エイダンは影の差すモモの顔を覗きこんだ。頬はこけ、目の下の隈も酷く生気が感じられない。もうずっとモモの顔は土気色だった。それでも毎晩、エイダンはモモを抱き潰すことを止められなかった。  エイダンが執務に追われ部屋を訪れられない間、モモは何もしていないらしい。エイダンが用意した本を読むこともなく、ただベッドに寝そべったり、今のように膝を抱えてぼうっと大きな窓から見える景色を一日中眺めている。  えくぼが深まる笑みも浮かべず、静かに佇んでいる。 「……この白い食べ物もか、東から取り寄せたんだ。コメ、という奴に似ているだろう」 「食べたくない。腹減って、ない……」  エイダンに抱き締められながら美しい食器を眺めるモモの瞳は、絶望に膿んでいた。 「そう、か」  消沈したエイダンをよそに、モモは再び膝を抱えこんで沈黙した。こうなればもう会話どころではない。1年前まではモモと沢山色々なことを話したというのに、今ではもうモモとのまともな会話の仕方さえも思い出せなくなっていた。 「モモ、他にほしいものはないか。なんでもいい、言ってくれ」 「……なんで、も?」  ぽつりと零したモモに身を乗り出す。一度会話が途絶えた後モモがこうして反応を返してくれることは滅多にない。なんとかモモに意識して貰おうと、モモの背を優しく撫でる。 「そうだ、なんでもだ。モモのためならなんでも用意しよう。美味い料理も、宝石も、どんなものでも揃えてやる」  きっとエイダンは、モモが一言望みさえすれば他国さえも滅ぼすことが出来るだろう。モモがそんなことを望むような人間ではないことが、この国にとっての救いだった。 「スニー……カー……」  数秒押し黙ったモモがやっと口を開いたと思ったが、耳に飛び込んできたのは聞きなれない単語だった。 「スニーカとは、なんだ」  モモの柔らかな髪を撫でながらエイダンは問うた。スニーカとはモモのいた世界にあったものだろうか、エイダンの知らない単語を口にするモモに微かな苛立ちを覚えてしまう。  だが、似たようなものがこの世界にあえば地の果てでも探し出して揃えてやろうと思うくらいには、エイダンはモモに狂っていた。 「食べ物か、宝石か、服か」 「……違う、靴」 「──靴?」  モモが一瞬の躊躇の後、小さく頷いた。モモの肩を抱く手に力が籠る。 「靴。サッカー、してえな……」  ちりりと、神経が焼き切れる音がした。虚ろな目を細め、どこか遠くを見つめながら少しだけ口元をほころばせたモモにエイダンは口をきつく閉ざした。  サッカーとは、モモが元いた世界でよくしていた運動だ。あの、球を蹴る妙な遊び。 「コーチ、元気に、してっかな……みんなも、もう卒業、したかな……」  かつて、そんな子どものような遊びよりも乗馬や狩りのほうが100倍楽しいじゃないかとモモを馬鹿にしたエイダンに、モモは後ろから蹴りを入れて来た。  他の者であれば不敬罪で死刑すらも免れない悪行だが、エイダンはモモのそんな愚行を許していた。  モモが、あまりにも楽しそうに笑い、エイダンにじゃれつくから。 「必要、ないだろう」 「……え」 「お前の足はもう動かん。サッカーなんぞ出来るわけがない」  自分でも驚くほどに冷たい声が出た。一気に機嫌が下がったエイダンに、ひくりとモモの喉が上下する。

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