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第3話

 ゆるゆると潤んでいく瞳に哀れさが募るが、モモに対して湧きあがって来た昏い感情は止まらない。エイダンの傍にいるというのに、いつまで経っても元の世界に固執するモモに苛立ちさえ覚えていた。  コーチとはモモのなんだ。知り合いか。もう二度と戻れないというのに、モモはエイダンの前でエイダンの知らない人間の話をする。それは家族であったり、友人であったり。それ以外の者であったり。  二人がこんな関係になる前、帰りたいなと、空を見上げながらポツリと呟いていたモモに、エイダンはいつも焦燥感を抱いていた。 「靴などあってどうする。逃げたいのか、俺から」  モモは今にも泣き出しそうな顔で眉を下げ、ぎゅっとシーツを握った。違う、と首を振る動作に、すっとエイダンの心が冷えていく。  こんなにもモモが愛おしいのに、ふいに同じくらいモモが憎くてたまらなくなる。何をどう足掻いてもエイダンに同じ想いを返してくれないこの少年の首を、時折酷く締め上げてしまいたくなるのだ。  モモが誰かに殺されそうになった時は、その前にエイダンがモモを殺す。モモが、モモ自身の命を絶とうとするならば自死など選べぬように心を完膚無きまでに壊すか手足と舌を切り取る。  モモが死に絶えるその時でさえ、その綺麗な黒い瞳に最後まで映るのはエイダンであるべきだ。そしてその後、エイダンはモモの後を追う。  エイダンが死ぬ時はもちろんモモを連れて逝く。どんなにモモが泣き叫び、嫌がってもだ。  今世でも来世でも違う世界であっても、エイダンはモモを手放す気はない。 「──許さないからな、モモ。俺から離れることは」  モモに靴は履かせていない。歩くことが出来ないモモにそんなものを与える必要はない。  モモが本当に欲しているものなど聞かずともわかりきっている。自由と解放だ。しかしエイダンにはそれだけは叶えてやることは出来ない。叶えてやる気も、微塵たりともなかった。  そうでなければ、ここまで非道な手を使ってモモを手に入れた意味がない。  モモが唯一、元の世界に帰る方法。  それは、この世界に来た時の私物を身にまとい、王宮の奥に広がる泉に入ることだ。  だからまず広い泉を壊した。源泉があったとて代々伝わる泉そのものがなければ効力を発揮しない。それなりの人数を集めて一日で石を砕き、水をくみ上げ、干からびさせた。  モモの私物は全て処分した。四角く固い、遠い場所にいる人間と会話が出来るという不可思議な異物は粉々に壊した。モモが着ていた珍しい形状の制服というものや、下着、カバンや、その他のものも灰にした。  モモの本名──『モモタハルキ』という名が書かれた小さな本すらも、破いて焼いた。  モモは、この国を救うために尽力した結果、力を使い過ぎて死に絶えたということにしてある。国を挙げての葬儀も終わった。モモはもう彼方の世界にも、この国にもいない存在だ。  モモが生きていられるのはエイダンの傍でだけだ。モモの手足を枷で拘束し閉じ込めている王宮の最上階、その奥にあつらえた部屋にはエイダンしか入れない。  王宮にいる使用人たちにも命を下してある。モモが生きていることは誰にも言うな、もしも命に背けば家族諸共死刑だと。  半年以上前に、エイダンの命に背いた男が一人だけいた。モモと一番仲が良かった男だ。  あろうことかモモを連れて逃げようとさえした。そしてモモはあの男について行った。  見せしめに使用人とモモの前でその男とその母親を処分した時から、モモはより一層塞ぎ込むようになった。  モモの両足の腱を切ったのもその時だった。もう二度と、エイダンから逃げられないように。  ここにいるのは彼方の世界で生まれ育ったモモタハルキという少年ではない。  神託によって召喚され、持ち前の明るさで国の皆から慕われ、ハルキと呼ばれていた少年でもない。  エイダンのためだけに存在する──モモだ。 「乗馬であれば、明日にでも私有地に連れて行こう。俺が乗せてやる」  乗馬、という単語にモモはぴくりと反応した。だがそれは乗馬をしたいからでないだろう。その証拠にモモはくしゃりと顔を歪め、ぎゅっときつく目を瞑った。  今のモモがもう自分の力で乗れもしない乗馬を心の底から楽しめるはずもない。それでも、モモの望みとあらばエイダンはモモを抱き込んで、何時間でも駆けてやれる。  けれどもその前に、今モモが脳裏に描いた人物を突き止める必要がある。 「モモ。今誰のことを考えた……?」  急激に冷えたエイダン視線に、モモの体が目に見えて硬直した。かたかたと震えだす肩には、と渇いた笑いが漏れた。  あからさまな答えにどろどろとした感情が湧きあがり、エイダンの心が闇に支配されていく。  ****  モモは綺麗な笑顔を見せながら、エイダンの心をズタズタに切り裂いた。 『エイダン、俺、次の満月が来る前に還るよ』 『──還る、元の世界にか』 『うん、出来ることなら明日にでも』  それは、神託を占った巫女から説明を受けた直後のことだった。  次の満月の夜までに彼方の世界に戻ってしまえば、モモはもう二度とこの世界に帰って来られなくなる。けれども次の満月が過ぎた後に泉に入れば、こちらとあちらの世界を繋ぐ道は塞がれずに満月の夜に限り行き来できるようになる、と。  エイダンはてっきり、モモは次の満月が過ぎてから戻るものだと思っていた。それは他の人間も同様だった。そうしなければモモは二度とこの世界に来られなくなる。  それはつまり、エイダンとモモとの今生の別れを意味する。 『なぜ……次の満月を過ぎてからでも』 『俺、もうこの世界に戻って来る気ねえから』  モモの迷いのない声に、エイダンは自分の足元がバラバラと崩れていく音を聞いた。聞こえていないのは目の前のモモだけだ。 『約束したもんな、国が落ち着いたら還らせてくれるって』 『それは、そうだが……しかし』 『もーやることもないし、国は安泰だし。還るよ』  からりとしたモモの台詞も、エイダンの耳にはまともに入って来なくて。 『ごめんエイダン。俺、決めたから』  ただ、真っ直ぐにエイダンを見上げる黒い瞳を見つめることしか出来なかった。

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