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第7話

 アスティンの血縁者で一番近い存在は、父親であるエイダンと、アスティンの母親──つまり、エイダンの側室、ジェーンだけだ。  ジェーンは他国から嫁いできた姫だ。彼女の残りの血縁者はこの国にはいない。だからこそ命拾いしたともいえる。この国にジェーンの家族がいれば、それこそエイダンは一族諸共命を奪っていただろう。モモの目の前で。  まさかここまでするとは、モモも思っていなかったのだろう。ガタガタと震えている。エイダンのモモへの想いの強さを、モモ自身が見破れなかったのがそもそもの原因だ。  モモのためなら、今のエイダンは鬼にも夜叉にも愚王にも──それこそ悪魔にもなれる。なれて、しまうのだ。  モモを逃がさぬためならどんな手でも使う。落ちていく先が地獄であっても、構わない。 『エイダン様……っ』  鈴のような高い声で、ジェーンはエイダンを呼んだ。 『なぜ、なぜそのような子どもごときに! エイダン様!』  美しい貌が涙で汚れ、化粧が崩れている。ジェーンは相変わらず煌びやかな格好をしていた。無類の宝石好きのこの側室は、モモに一度叱責を受けたことがあり、それ以降モモを目の敵にしていた。  小さな嫌がらせも行っていたという。だがそれはほんの小さな嫌がらせだ。慈愛を持つ女とは言い難い側室ではあったが、死を以て贖うべきものでもない。   けれどもジェーンは今からエイダンに殺される。 『わたくしは、貴方様に誠心誠意仕えてきました……貴方のために、子まで成した……貴方は、アスティンの誕生を喜んでくださいました! それなのに、なぜ!』  今回のことと、アスティンの母親は直接の関係はないだろうが、息子のアスティンがモモを逃がすという計画を練っていたことを知ってはいたようだ。  知りつつ、咎めなかった。  それがモモや息子を想ってのことなのか、それともモモに恋焦がれているエイダンの寵愛をもう一度受けるためなのかはわからない。そのどちらであっても関係がない。彼女の未来は変わらないのだから。  エイダンからモモを奪えばこうなるのだという、見せしめが必要だ。 『そんな子どもに、心奪われて……王よ!』 『母上……! 父上、おやめください!』  すらりと剣を翳して、ジェーンの前に立つ。ジェーンが目を見開き恐れ慄き、絶叫しながら逃げ出そうと暴れまわる。  そこに、深窓の姫であったというプライドも何もあったものではない。  ただの女性だ。姫という血筋に生まれてしまっただけの、死を怖がり嫉妬心を持ち綺麗なものに目がなく、家のためにエイダンの子を産み母となった一人の女。普通の、人間。  エイダンに嫁いでしまったばかりに──哀れだった。 『俺からモモを奪うなら、その血縁者を殺すと命じていただろう』 『エ……エイダン、やめて、エイダン、エイダン! やめて! ジェーンを殺さないでくれ!』 『父上おやめください! 母上は関係ない! 父上! いやだ……母上!』  モモとアスティンの身を切るような叫びに、一瞬だけエイダンの手が止まった。 『ジェーン』 『ひっ……』  確かに何度も交わった。子を成すために。政略結婚ではあったが、エイダンにしんなりと寄りかかり、愛を囁くジェーンに愛らしさを感じたこともある。  他国から招いた姫だ。側室の一人ではあったがエイダンなりに、大切に扱ってきた。欲しいと強請るものも与えて来た。そして、王としての素質を持つアスティンを産んでくれた。  側室という立場でありながら、王位継承も目ではない聡明な息子を産んだ。それがジェーンの、生きがいだった。  だがもう遅い。エイダンはジェーンが慕った昔のエイダンではない。  モモに狂った、エイダンなのだ。 『恨むならアスティンを恨め』  ジェーンが茫然と抵抗を止めた。エイダンの目に、本気を見たのだろう。 『見ろ、モモ』 『えい、だん……やめろ、エイダン……!』  こんな時でさえ、エイダンが意識を向けるのは今から命を奪おうとしている妻でもなく、母を助けようと身を捩るその息子でもなく、涙を流し続けるモモなのだから。 『──これがお前の罪だ』 『母上ッ……』 『エイダン様、そんな、エイダッ──ぎゃ』  苦しませるつもりはなかった。心の臓を一突き。 『あす……てぃ……』  口からこぷりと血を流し、床に倒れ伏したジェーンの最後の言葉は、愛しい息子の名だった。ずるりと剣を抜き取り、溢れる血の中で息絶えたジェーンを放置し、母親の亡骸を見つめながらくたりと力を失ったままのアスティンの傍へ向かう。  誰も何も言わなかった。近衛兵ですら、顔を背けていた。  いつまでも叫び続けているのはモモだけだ。 『ははうえ……』  唯一の母親を父親に殺されてアスティンは抵抗を一切やめていた。虚ろな瞳で、母親の血に濡れた剣をただ見つめていた。 『アスティン、次はお前だ』 『エイダン! お願いっ……もう逃げない、逃げないから! エイダンのものになるから! 頼むから……!』 『モモ、よく見ておけ。お前のせいで、アスティンは死ぬ』 『や……めて、ねが……やめろ! なんでもする、なんでもするから……お願いアスティンを殺さないで!』 『お前の愛した男がな』 『エイダン!!やめて、やめ──ッ』  アスティンが視線だけをモモに向けた。笑ったのか、それとも違う瞳をモモに向けたのか。髪に隠れていて顔は見えなかった。  ただモモはアスティンと見つめ合い、一瞬だけ声を失った。  エイダンの中で膨れ上がったのは、激しい嫉妬心だった。 『いやだぁああああ……!!!』  モモの叫びは届かなかった。  アスティンの前髪を強引に上げさせ、迷うことなく一息に首を掻っ切る。溢れた鮮血がエイダンの服に飛び散り、アスティンが力なく崩れ落ちた。  どくどくと溢れる血に、アスティンの目がきょろりと動いた。血が噴き出る口元が僅かに震える。最後にアスティンが呼んだのは、エイダンか、母親か、それともモモか。  びくびくと痙攣していた身体が、動かなくなった。  エイダンは空を見上げ数秒目を瞑った。  アスティンは二人目の子だった。生まれたばかりのアスティンを抱き上げたあの日。無邪気なアスティンを膝に乗せ執務をこなしたあの日。剣を振るうアスティンの勇士に、目を見張ったあの日。  父上のようになります、とアスティンが誇り高く誓ったあの日。そのどれもが瞼の裏に焼き付き──直ぐにモモの微笑みへと変わった。 『……モモ』  俺は狂っていたのだと、息子を手に掛けたこの瞬間、エイダンは深く自覚した。初めて触れた己の心の深淵に歎き笑った。  子を産ませた妻も、愛を持って慈しんだこともある息子も、モモの笑顔には敵いやしない。  恐ろしいほどの愛、恐ろしいほどの恋。  こんな小さな少年に、エイダンの心は全て奪われていた。今なら母を閉じ込め、エイダンにほとんど会わせてくれなかった父の凶行も心の底から理解できる。  エイダンと同じように父も、自分の子どもにすら嫉妬していたのだと。 『モモ、愛しいモモ。見ろ、お前が逃げ出そうとしたせいで二人死んだ』  ろくな言葉も紡げず、唇を震わし洪水のような涙を零し、倒れ込んだ二人を眺めるモモの隣に跪く。  するりと愛らしい頬を撫ぜ、ちゅ、とその頬に口づけを送る。エイダンの手に付いた血が、モモの頬を濡らした。  この場にいる者たちは何も言わない。否、何も言えないのだろう。モモを抑え込む数人の近衛兵の手が、ガタガタと震えている。明日は我が身だと、思っているに違いない。  近衛兵にモモを離せと命じ、そっとモモを抱き込む。手足を縛られているため、モモはなんなくエイダンの腕の中に納まった。  その甘い髪に顔を埋め、エイダンは囁いた。 『二度と逃げられぬよう、お前の足を切る』   血に濡れた剣を一度布でふき取り、後ろからモモの両足首に剣を添える。モモはエイダンの耳元で何か囁いた。どうしてと、モモは呟いたのかもしれない。 『もう、逃げるなよ……』  愛おし気にモモを抱きしめ、白い足首の裏に添えた剣を横に切り裂いた。びくりと跳ねたモモの体を抑え込み、強くえぐる。ぐ、とモモの喉が苦痛に唸り、引き攣った。  真っ直ぐに腱を切り終わってから剣を床に投げ捨て、激痛に唇を噛みしめたモモの唇に唇を重ねた。モモは腕をだらりと下げた状態で身動ぎ一つもしなかった。唇を噛み切っていたのだろう、血の味がした。 『……医者を呼べ、止血する』  動けぬ周囲に命ずる。 『早くしろ。二人の遺体も片付けろ』  二度目の命令で周囲が動いた。打ち捨てられた二つの遺体を丁寧に包み、抱え上げ運び出す。医者が着くまで、エイダンはモモを強く抱き締めていた。

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