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第32話

 あれは、源が宇野家の隣に越してきてから二年目の夏だった。その日は朝から雨が降っていた。いつ降り止むかわからない雨のせいで、部屋の中はぼんやりと暗かった。篤郎はリビングのソファの上でお気に入りのミニカーで遊びながら、時折窓の外に目をやった。隣の家の前の私道を塞ぐように、昨夜からずっと大きな車が止まっているのだ。それが、ときどき隣の家を訪ねてくる客の車であることを篤郎は知っていた。実際に何度か会って、言葉を交わしたことがあるからだ。 「あの車、ずっと源の家の前に止まってるよ? 何をしてるのかな?」 「何をしてるって、お仕事でしょう?」 「でも、きのうからだよ? そんなに長い時間のお仕事なんて変じゃない?」  母は家の片づけの手を止めると、「おかしなことなんてないわよ。それよりもお隣のことを呼び捨てにするのは止めなさい。あんたの友だちとは違うのよ」と篤郎を叱った。篤郎はおとなしくミニカー遊びを再開した。けれどすぐに飽きたように、ソファの上に放り出す。 「ぼく家の前で遊んでくる」  篤郎は黄色い長靴に足を入れると、雨傘を手に外へ出た。庭の紫陽花は母の自慢だ。雨に濡れた紫色の花びらは艶々としていて、まるで宝石のようにきれいだった。篤郎は傘を手にしゃがんだまま、ちらっと隣の家を仰ぎ見た。そうして待っていたら、源が気づいて外に出てきてくれる気がした。 「せっかくきれいなのに……」  絵を描くからか、源は花や植物が好きだ。本人は認めないかもしれないが、面倒くさいとぼやきながら、案外マメに庭の水やりを行っている。  緑色の葉の上を、親指くらいの大きさのカタツムリが這っている。篤郎の小さな身体を覆い隠す傘が斜めに傾くたびに、地面にバラバラと雨粒のかたまりが落ちた。篤郎は「そうだ!」と叫ぶと、いったん家の中に戻ってハサミを取ってきた。中でも一番きれいに咲いている紫陽花を一本だけ切ると、濡れた刃を洋服の前でごしと拭いた。隣家の前に止まっている車は、相変わらずその場にあった。ただじっと雨に打たれている。 「……こんにちはー。誰かいますかー?」  篤郎は隣の家の前から、そっと中に呼びかけた。源がチャイムの音を切っていることは知っている。自分の身体ほどもある傘をうんしょと肩で支え、篤郎は庭へと回り込んだ。手には源にあげようと一本だけ切った紫陽花の花が握られている。 「……源?」

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