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第35話

 ゴロゴロ……と空が鳴っている。どんよりと重たい雲から、やがてバケツをひっくり返したような土砂降りになるのと、篤郎が地下鉄の駅に着くのはほぼ同時だった。  源たちが姿を消した後、篤郎は当初の予定通り、個展をひとりで見て回った。少し前に門倉が話していたことも忘れていた。せっかく作品を見ているのに心には何も響いてはこず、ただ自分は傷ついていないのだという、誰に対してなのかわからない意地のようなものしかなかった。  源の絵の前で足を止めたとき、これまで麻痺していたように何も考えられなくなっていた篤郎の心が揺れた。  それは、雨に濡れた一輪の紫陽花だった。茎の部分を幼い子どもの手が一生懸命握っている。子どもの姿までは見えなかった。描かれているのは、手の一部に過ぎないからだ。それでも、対象物に対する描き手の穏やかな視線が観る者にまで伝わってくるような、やさしい絵だった。  源は、自分ではなく日下を選んだのだ。  染み透るように、その思いは篤郎胸の中に落ちてきた。冷静に考えれば、そういうことではないのは篤郎にだってわかる。日下の甥の事故は偶発的なアクシデントで、実際あのときの日下は普通の状態じゃなかった。明らかな動揺を覗かせる日下に、源が病院まで付き添っても何らおかしなことはない。それでもーー。

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