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第52話

 もうだめかと思った。もう無理なのだと思った。悲しくなんかないのに、涙が止まらない。自分の胸元を涙と鼻水でびっしょりと濡らされても、源は責めるでもなく篤郎の好きにさせてくれた。頬に伝う涙をべろりと舐められる。 「しょっぱい」  やけにうれしそうな顔で言われて、篤郎はむっとしたように源の胸を拳で叩いた。自分がこんな思いをしたのは、誰のせいだよと思う。 「……好きだよ」  耳元で囁かれ、くすぐったさに篤郎は肩を竦めた。視線が合って、どちらかともなく引き寄せられるようにキスをする。  源、源、源……。  あふれるような愛しさが篤郎の胸を満たす。 「あつ……」  源の手が服の裾から入り込んで篤郎の身体を撫でる。たちまち恥ずかしさと緊張で頭に血が上った。そのときだった。源の手が突然ぱっと篤郎の身体を引き剥がした。 「悪い、あつ! この続きはまた後で!」 「へ? ……はい?」  気がつけば源はどこからか用紙を取り出し、素早くペンを走らせている。集中力を取り戻した源の視界には、もはや目の前の用紙しか入っていないのだろう。篤郎の存在すら、認識しているかどうかも怪しい。  篤郎は瞬きした。乱れた服も、身体の奥に燻る熱も、中途半端のまま突然放り出されて、呆然となる。 「なんだよそれ……」  源。そりゃあいくらなんでも最低だろうよ……。  篤郎はぶはっと吹き出した。この場面で腹を立てても、誰も自分を責めるものなどいないだろうに、篤郎はうれしかった。源が再び絵に向き合っていることが、ただただうれしくて堪らなかった。 「この貸しは高くつくからな」  集中している源には関係ないだろうが、篤郎は足音を忍ばせそっと隣の家を後にした。

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