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甘いコーヒー
「星影のコーヒーまじでうまいよな」
コーヒー党のこの人の為に、オレがどれだけ勉強したか言うつもりはなかった。
ドリップのコーヒーから始まって、フレンチプレスのコーヒーまで。
技術のいるドリップのコーヒーもかなり上手に煎れれるようになった。だけど、いい豆を買わないといけないかわりに、濃厚な味の出るフレンチプレスの方が先輩の好みとわかって、それに落ち着いた。
「そうですか?」
先輩は朝メシを食べないし、寝ていたい方だから、部屋でオレがコーヒーを淹れるのが習慣だった。
つまみたくなった時の為に、温めたバターロールを置く。
食べるかと聞くと必ずいらないと言う。だから、聞かないで置く。見せられると食べてもいいと思うみたいで、今日も手を伸ばした。
「嫁にしてもいいかなってレベル」
ちぎったパンを口に入れながら、ぼんやりした口調で先輩が言う。
オレは軽く微笑んだ。
「飽きないように、ブレンドとか変えてくれてるだろ?」
「自分が飽きるから変えてるだけです」
「じゃあなんで、『どうします?』って聞くんだ?
いつものって言うとオレの一番好きなコーヒーが出て来て、お任せって言うとちょっと変わったのが出てくるだろ?」
「オレより先輩のがコーヒー好きだから、喜んで貰えるじゃないですか」
「喜んで…か」
先輩がじっとオレを見る。
空気が薄くなった気がした。
胃の底が冷たくなって、心臓が狂ったように警告を打ち出す。
この間、先輩とミネラルショーに行ってから、オレは少し変だ。
それに加えて、先輩はあれからよくオレに話をする様になって、距離の取り方が難しくなった。
「じゃあ、やめます。オレ、明日から食堂行きますから」
赤くなった顔を背けて、立ち上がってカバンを持つ。
ドアまで歩くと立ち上がった先輩に腕をつかまれて振り向かされる。
「なあ、怒ってる?
俺は嬉しいと思ってるんだけど」
落ち着け。オレは自分に言い聞かせた。
今のは失敗だ。なぜ笑って済ませなかったのか。
オレは本心を隠す為に、慎重にため息をついた。
「怒ってなんかいませんよ。甘やかしすぎかなあと思って」
にっこり笑ってみせる。
口元だけの笑みは目には登らないだろう。ぐいっと腕を引っ張って手を離して欲しいと伝えた。
「食堂に行くとしても、コーヒーは淹れてから行きますよ」
偽物の笑顔を向ける。
いつもの先輩なら、苦笑いを浮かべてわかったって言う。
今回だってそうに違いない。
腕をつかむ手の力は緩まない。
嫌な予感がした。
心臓が狂ったように動く。先輩の整った顔がめちゃくちゃ近くにある。
先輩は低い声で言った。
「ダメだ」
下がろうとして、ドアに背中がぶつかる。
「つ、月村先輩?」
「俺は、今のままがいい」
助かった。心の中で大きく息をつく。
「我儘ですね……だけど、わかりました」
本当の微笑みを浮かべて、先輩を見上げる。
もう離して貰えるはずだと完全に油断していた。
「先輩?」
緩まない手に怪訝そうに尋ねる。
え?と思った時にはもう遅かった。
先輩の唇がしっかりと自分の唇に重なっている。
下がろうとしても後ろはドアだ。
するりと肩に手が回って引き寄せられた。
動揺して開いた唇から舌が入って来てオレの舌に触れる。
『噛まないで……』
記憶の底からもう一つのやわらかな声が囁く。
オレは噛まなかった。抵抗もしなかった。
「星影……」
『星影……』
二つの声が重なる。
その名前。大嫌いな自分の名前。
オレはめちゃくちゃにもがいた。
心が潰れるような記憶が、涙になって頬を伝う。
「ごめん……」
「ふざけるな!」
叫んだオレに、はっとした様に先輩がオレを見る。頬に流れた涙を見て目を見ひらいた。
腕の力が緩んで、渾身の力で抜けだす。
カバンを拾ってドアノブに触れた。月村先輩がドアに寄りかかってそれを防いでいる。
「どけ」
涙を頬に伝わせたまま、オレは静かに言った。
失敗した。失敗した。失敗した。心の声が責めたてる。息が苦しくなってみっともなくしゃくりあげる。
月は軌道を外れた。もし、それが地球 に落ちて来るなら、オレはもう月に焦がれることは出来ない。絶対に触れることは出来ないから。
ああ、でも、もう触れてしまったじゃないか。
敗北感に涙がとめどなく頬を伝う。
「どけよ」
手が伸びてきて、びくっとする。両手が身体に回されて、抱き寄せられた。
「からかいすぎた」
穏やかな声がオレをなだめる。
月に焦がれるオレは、目を閉じて、その言葉を受け入れた。
先輩は今もオレに触れているのに、頭をなでられる犬だと自分を誤魔化した。
「ふざけすぎですよ」
オレは震える声で囁くと、涙をぬぐった。
「ごめん」
「オレ、行きます」
回された腕が名残惜しげに離れたと思うのは、追いかけてくる視線が焼くようだと思うのは、オレの妄想だと言い聞かせる。
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