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第2話

 久しぶりに訪れたその場所を見上げて、そっと息を吐き出す。十年前に深海と出会って以来だろうか。それまではここで過ごしていたというのに、少し開けていたからか、踏みいることにさえ少し緊張していた。あの日から結局、一ヶ月ほど経った。明日行こうなんてあの日は考えていたが、なかなか踏ん切りが付かず今日までズルズルと持ち越しい、昨日ついに深海に「最近上の空だ」と言われてしまった。  俺の決意は間違ってなんていない。この瞳と共に生きるための手段。何も恐れる必要はない。見上げた先にある大社は変わらずそこにある。ここは龍神たちが住む場所。俺と深海が住んでいる社もそれなりに広く、たった二人では持て余しているが、それとは規模が全く違い、遠くにひと際大きな社がある他にも周囲に複数の社がある。人の足の届かない空高くにあるその場所は神的な気配で満ちていた。建物の大きさが龍に合わせられているため、柱も階段も何もかも規格外の大きさである。人間の足では、境内を一周するだけで丸一日費やすことになるだろう。隣にいる深海はその大きさに圧倒されているのか、黙ってそこを見上げていた。  深海にはここに来た目的は話していない。ただ、里帰りするから着いてこい、と。そう告げただけ。深海はいつものように何も言わずに着いてきた。 「……ここ、おれ来て良いところ?」 「まぁ普通に駄目だな」  俺だって本当はあまり連れてきたくはなかった。人間がここに来ることが一度もないとは言わないが、生きて帰った人間は一人もいない。大社から人ならざるものの気配を感じるのか深海はいつもより近くに立っていた。その手を掴んで、さらに引き寄せる。 「食われたくなかったら離れるなよ」 「食べられる可能性あるのか……」  素直に引かれるままにくっついて来るのを横目に確認して、社へ一歩踏み出す。龍しか住んでいないここは元々気温が低いため、床も冷たい。俺も龍であるため体温と同じくらいだからそれほど冷たさも感じないが、人間である深海にはここは少し冷えるだろうし、床も冷たいだろう。雲がかかるほどの標高の高さということもあり、体感温度も低いはずだ。もう一枚羽織を持たせてやるべきだったかとも思うが、深海の方は気温より大社の雰囲気に気を取られているようだし、大丈夫だろう。  社のあちこちには様々なものを司る龍たちがいた。龍の姿をしているものも居れば、人間の姿に化けているものも居る。深海には人間の姿をした龍とは何度か会わせているが、龍の姿は俺以外のものを見たことがない。そのため耐性がないのか、龍の姿を見つけるといちいち目を奪われている様子だった。どう考えても俺の方がかっこいいのに。俺は赤龍で、その辺の龍とは違い龍神という立場である。その辺でフヨフヨしている龍とは神格が違う。鱗も鬚も角も絶対俺の方がかっこいいし、綺麗だ。人間の姿の方だって、深紅の鱗を思わせる炎のような赤い髪。人間にはない神的な立ち姿。俺のことを見ている方が楽しいだろう。まぁ、一番美しい人間は隣を歩くこの男だと知っているから、人間の姿の方で張り合うつもりはないが。 「……えんとう」 「……」 「……えんとぉ」 「なんだよ、そんな気になるなら勝手に……、? どうした」 「……っ、さむ、い」  どうせその辺の龍が気になるのだろうと適当に流そうとしたが、手を握る深海の力が妙なことに気付いて立ち止まり振り返る。その表情は嫌に蒼白く、冷や汗も出ている。それは物理的に寒いという状態ではない。小さく舌打ちをして顔をあげる。 「おい、誰のものに手ぇ出してんだ?」  その場で低く呟く。すると柱の後ろからいくつかの影が逃げていった。大方珍しい人間の姿に釣られた龍が深海に干渉していたのだろう。深海は幼い頃から俺の姿が見えるほどに神的な力があったし、それからずっと俺と過ごしているために普通の人間より圧倒的に力がある。その身体を「美味しそう」と見る種族の龍は数多いる。だから深海をここに連れてくるのは嫌だったのだが、今回は仕方ない。  しかし赤龍の俺が傍らに居れば恐れて手を出してくのもいないだろうと考えていたが、そんなこと以上に深海は興味深い存在だったのだろう。他にコソコソ隠れて深海に干渉している龍がいないことを確認すると、もう一度その表情を見る。 「マシになったか?」 「あぁ、大分」  顔色が良いとまでは言えないが、少しは人間らしい赤みが戻ってきたように思う。いつまでもここで立ち止まっているわけにもいかない。またいつ怖いもの知らずの龍が手を出してくるとも分からない。離していた手をもう一度握る。 「行くぞ」  手を引くと、深海はちゃんと着いてきた。さっさと目的地まで行った方がいいだろうことは深海も分かっている。境内を早足で進んでいく。今度はまた干渉されないように周囲を警戒しながら。俺が早足で歩いても、歩幅は深海の方が広いのだから速度としては問題ないらしい。しかし深海の方はもうあちこち見ながら歩いている余裕はないらしく、俺の進む先に真っ直ぐ着いてくる。  ひとまず、比較的地位の高い龍しか入ることの出来ない場所まで移動して一度手を離す。 「その辺座って少し休んでろ」 「ん、あぁ分かった」  ここまでくれば、勝手に深海に干渉しようとしてくるような龍もいないだろう。適当な縁側に座って外を眺めだした深海から別の龍の気配は感じない。 「……あれ、炎騰? と、深海くん?」 「光月(こうげつ)」  耳に慣れた懐かしい声がしてそちらを振り返る。そこには確かに光月の姿があった。俺が深海に会わせたことのある数少ない龍仲間の一人である。光月はしばらくその場で固まった後、突然俺を引き寄せた。 「ちょっ、ちょっと炎騰! 何で深海くんここに連れてきてるんだよ! どう考えても危ないだろ!」 「あーはいはい、お前に言われなくてもそれくらい分かってるよ」  勢いよく詰め寄る光月を押さえながら宥める。光月は深海のことをよく知っている分、ここに来たら深海が龍に狙われることも察しがついているのだろう。光月も俺と同じく人間を食らう種族ではないから光月は大丈夫だが、どちらかというと人間を食う龍の方が母数が多いというのは事実である。  光月はまだ何か言いたげだったが、俺の表情から目的を悟ったのか開いた口を一度閉ざす。 「……銀龍様のところに?」 「そのつもり」  光月の目が真っ直ぐに俺を見る。それを黙って見返すと諦めたように目を逸らした。止めるつもりはないのだろう。だけど応援するにも言葉が出ない。複雑そうな顔をした光月がそっと視線をあげて、首を傾げた。 「あれ、深海さんは?」 「その辺で休んでるだろ?」  光月の言葉に俺も視線をあげる。先ほど深海が座っていた縁側の辺りを見てみるが、姿が見えない。 「あぁ、あ、え、炎騰!」  光月が慌てて声を張り上げて指を指す。その先には深海の姿があったが、傍らには別の龍の姿があった。その龍は太陽の光が当たる縁側の上で呑気に眠っている。深海はその龍を覗き込んでいた。咄嗟にその背中に向かって走り出す。 「うぅ~ん……ふふ、おいしそうな匂い~……」 「……コイツも龍、なんだよな」  遠くの話し声が、人間より性能の良い耳に届く。そうだよ龍だよ頼むから離れろ。そう声をあげたいが、その声で龍を起こしてしまうかもしれない。起きるな起きるなと願いながらただ直進する。 「……お……く、」 「ん?」 「おにく……ぼたん……」 「……んん?」 「ぼたんなべ!」 「え、ぅわッ!」  深海の身体が後ろに倒れる。その肩を押したのはうっすらと瞼を開けた龍で。深海が固まっているその一瞬の隙に姿が人間のものから龍へと変わろうとするのを、背中に突進してすんでのところで止める。追い付いた光月が深海を引き起こしているのを確認して、傍らに転がる龍を叩き起こす。 「……ったく、おい、寝ぼけてんじゃねーぞ」 「ん~……猪肉……あれ、人間?」 「いのしし……」  覚醒した龍はその目にようやく深海の姿をしっかり捉えたようで、すすっと首を傾げた。寝起きは良い方で良かった。深くため息をついて、光月に引き起こされた深海の前にしゃがみこむ。 「俺最初に食われるから離れるなって言ったよな」 「あー……さすがに冗談かと」 「まぁ、俺は人間食わないからな……。あーあー、せっかく休憩しようとしたのに、さっきより顔色悪くなってるじゃんかよ」 「気のせいだろ」 「……あのな、龍は龍でも、言ってしまえば神と人間なんだ。俺はお前と長く一緒にいたからそれほど影響はないが、本来は普通に触れられるだけでも人間側には強い負担がかかるんだよ」 「……うん、悪い」  今までに見たことがないほどに蒼白い顔を見るとさすがに不安になる。繕ってはいるが、押し倒された時点で寝ぼけた龍といえど強い負荷がかかったはずだ。本人が気付いているのかいないのか、小刻みに震えながらそっと伸ばされる指先にはそういう意味があるのだろう。今回ばかりは目を離した俺と、黙って龍に近づいた深海とでおあいこだ。 「ごめんね。突然起こしちゃって、炎騰のお連れの人間さんなんだけど……」 「人間……炎騰さんの連れ……? って、子連れ赤龍の噂は本当だったんですか! 炎騰さん、あんなに人間に興味なかったからてっきりガセだとばっかり……」 「子連れ赤龍……」  不思議そうに目を白黒させていた龍に光月が声をかけている。光月に言われてさらに興味を示した龍が俺の傍らにしゃがみこむ。そうして深海と視線の高さを合わせてまじまじと観察し始めた。 「そう俺の連れ。食いもんじゃないぞ」 「食べませんよ」 「ついさっき食べようとしてただろ」 「子連れ赤龍……子……おれまだ子どもか……?」 「深海はどこで傷ついてんだよ」  興味深々で深海を見つめる龍を引き剥がす。こうは言っているがコイツは何でも食べる種族の龍である。別に特に好んで人間を食べるという訳ではないが、年がら年中腹を空かせている龍に最高級の肉を見せているのには変わりない。幸い話が分かる温厚な龍で良かった。相手が悪ければ、事情が分かっていようと問答で丸呑みにされていたかもしれない。 「だって美味しそうな匂いがするんですもん」  ほら、これだ。コイツも高位の龍であるから分別は弁えているだろうが、それを惑わすほどのものを深海は持っているのだから仕方ない。黙って深海の手を引き立ち上がらせる。 「行くぞ」  やはりどこにいても立ち止まるのはあまり良くない。深海の顔色も悪いし、さっさと用事を済ませてここから離れたい。この龍への説明は光月に任せて、目的地である銀龍の間へと足を進める。深海の足が摺り足になりつつあるのが足音で分かる。大分消耗しているのだろう。それでも何も言わずに着いてくるから、俺は前を見たままただ手を引いた。  太陽の光が射し込まないのに、それでも柱や壁が氷のように銀色にキラキラと光る場所。そこが銀龍の間だった。龍の中でも頂点に立つほどの高位の龍。神秘的な風景に見惚れる深海を連れて、龍が三頭分はある大きな扉の前に立つ。 「霜天(そうてん)、用がある」  特に声を張ることもなく、いつも通りの声を出す。数秒後に扉は音一つ立てずにゆっくりと開いた。その扉を追うようにして銀龍の間へ足を踏み入れると、引いていた手が突然落ちた。どうした、と声をかけようと隣を見た視界に前に傾く体が映る。声を出すより先に体が動いた。倒れる体が地に落ちる前に左腕を体の下に滑り込ませ、その体重を抱える。体重を預けるや否や小さく唸るのを見て、視線を室内に移す。誰がやったかなんて、一人しかいないのだから分かりきっている。 「あ、ごめんね、重かった?」 「おい霜天」 「ごめんごめん、ちょっと試させてもらっただけだよ」  しがみついてくる手を握り返しながら、ふわふわと降りてくる霜天を睨む。霜天はそれに物怖じすることもなく、俺たちの正面に立ち、深海を見つめる。ゆっくりと息を整えようとしている深海を見て、霜天はそっと目を細めた。深海は一度大きく息を吐き出すと、自分で身体を起こし霜天を見上げる。 「……意識はあるんだ。確かに、龍になるだけの素質はあるかもね」 「……?」  霜天のその言葉に深海は首を傾げて、俺を振り返る。その深海と視線を合わせないように、今度は俺が霜天を見上げる。 「その後の面倒は俺が見る」 「そうだねぇ、どちらにしてもそこは僕だけの権限じゃないから金龍にも相談してからになるけど……この子なら金龍も良いって言うんじゃないかな」  言いながら霜天は膝を折って深海と視線を合わせる。深海は黙って目を白黒させて霜天を見ていた。その反応に首を傾げたのは霜天だ。 「……話してないの?」 「……」  話してはいない。と、正直に言うのも何か嫌で、黙って霜天を見ると、霜天は視線を落とす。 「本当に面倒見られるのかな」  言い返す言葉がない。話の流れに着いてこれていない深海は不思議そうに俺と霜天を見比べている。 「彼、炎騰は君を龍にするつもりでここに連れてきたらしいけど」 「……は?」  深海の視線がこちらに向けられているのを感じる。そちらの方は見ずに、むしろ真逆を向いてしまうと深海が俺を呼ぶ声がした。それに返事もせずに、背中を向けて霜天に続けるように促す。 「……龍、龍神は当然ながら人とは違う。寿命もないし、ちょっとやそっとのことじゃ死ぬこともない。僕はそういうことだと思っているけど」 「……あぁ」  続けられた言葉に深海が低く声を溢す。あの日のことを思い出しているのだろう。分かっている。そんなことをしなくても、繋ぎ止めることは出来ていると。それでも、いつか来るであろう最期を受け入れたくなかった。  龍にすることに、代償があっても。 「……ちなみに、炎騰の方はそれでもいいんだ」 「当然、その覚悟はしてきてる」  一ヶ月かかったが。いくつもある大切なことの中から、守り抜けるものは一つだけだった。その一つを守るために、他の全てを失っても。それでいいと思った。だから深海をここまで連れてきたのだから。  俯いたままの深海の頬に、霜天が触れる。それに気付いて視線をあげた深海の前には、少し悲しそうに笑う霜天がいた。  俺が出来なかった覚悟。それを伝えること。 「……龍になるためには、それまでの全てを捨てる必要がある。人間として、一度死んでもらう必要がある。つまり、君が人間として持っていたものを捨てることになる。だから、君の人間だった頃の記憶は消える。炎騰と過ごした記憶は失われることになる。そう言っても君は龍になる?」  例え、その気持ちが俺に向かわなくなったとしても、ただ共に生きていたいと。それが俺の答えだった。思い出を失い、俺の贄であるという立場を失った深海が俺を選んでくれる保障なんてない。深海は今まで俺しか頼れるものがなかったのだから、そもそも選んですらいない。選ばされただけ。  それでも。  俺だけにしか見せない表情を、俺にしか向かわない声を、深海だけの体温を、全て失ったとしても。俺の目に入る場所にいつまでもいてくれるという。その確証が欲しかった。 「聞いてない」 「……言ってないからな」  やっと呟かれた言葉に、小さく言葉を返す。どんな顔をしているのか知りたくなくて振り返ることが出来ない。そうやって振り返らずにいると、耳は小さな言葉を拾った。 「……ふざけるな」  聞いたこともない低い声につい視線がそちらに向く。すぐに納得するだろうとは思っていなかったが、そこまで気に障るとも思っていなかった。強く拳を握り締めていた深海は、唐突に俺に掴みかかろうと手を伸ばした。 「っ、ふざけ……ぅ、」  そうやって伸ばされた手は俺の腕に触れるだけで終わった。そのまますがり付くように身体を預けてくるのを両手で受け止める。そこに意識がないことを確認して、横目に霜天を見る。 「ここで騒がれると、ね。……とりあえず保留にしとくよ。僕は金龍に話をつけておく。それまでにその子とよく話してごらん」 「……あぁ」  閉ざされた瞼をそっと撫でる。俺でさえ覚悟するのに一ヶ月かかったこと。それを数秒で受け入れろというのも無理な話だ。ここに来る前に話をしておけば良かったのだろうが、ついに俺に話を切り出す勇気は湧かなかった。  深海を抱えあげ、霜天に見送られながら銀龍の間を出る。顔を埋めるようにしがみついて来るのが、今日は苦しかった。

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