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第3話

 龍の大社から少し離れた場所。人間からも龍からも孤立した場所に俺の隠れ家はあった。「少し離れた」と言っても人間からするとかなり距離はあるらしい。銀龍の間と比べると圧倒的に簡素であるが、それでも一応赤龍が住む場所なのだからそれなりの見た目はしている。深海と十年共に生きてきた場所。深海が幼い頃は何度も社の中で迷子になっていた。「隠れ家って割に全然隠れてない」と笑われたのはいつの話だったろうか。深海はこの人間の来れない高さから見る夜空が好きだと話していた。俺はいくら聞いても空を見て何が面白いのかよく分からなかったが。  今日の月は満月とは程遠い形をしている。あの日と違って、窓から射し込む月明かりもほぼ明かりとしての意味をなしていなかった。こうやって夜に空を見上げる習慣が出来たのも、深海と出会ってからだった。 「……どうして、おれを」  暗闇の中で声がした。先ほどから目を覚ましている気配はあったが動く様子がないからそのままにしていたが、やはり考え込んでいたらしい。寝転がったまま呟かれたその言葉に、自分の言葉を返す。 「そんなの、お前を失いたくないからに決まってんだろ」 「……お前はそれでいいのか」 「さっきも言ったろ」  深海は今どんな顔をしているのだろう。声色から察するに、暗い顔をしているのだろうが。何と言われようと、俺がした決意は変わらない。深海からすると身勝手なことなのだろうが、俺は深海に頷いてもらいたかった。それまで布団の上で丸まっていた体が起き上がる。 「……嘘だ」  その低い声には、怒りと悲しみと、様々な感情が含まれている。怒るのは分かるが、何が悲しいのだろうか。振り返った深海の瞳が真っ直ぐこちらを捉える。少し瞼の下がった、その瞳から感情が窺えない。 「嘘じゃない」 「……おれは嫌だ」  俯きがちに視線が落ちる。俺は黙って立ち上がり、深海の前まで言って腰を下ろす。手の届く位置まで行くと深海はそっと服の裾を掴んで引き寄せた。幼い日に、一度だけ深海が家族に会いたいと泣き出した日のことを思い出す。必死に嗚咽を堪えながら不器用に泣いていた子どもは、こうやって俺に縋り付きながら「ごめんなさい」「捨てないで」と繰り返していた。それまでは、深海がこれくらいの年になったら人間のもとへ帰すつもりだった。賢く聡い子だったから、一人でも器用に生きていくだろうと思っていた。でも、あの時、もう深海は人間の元には帰れないと気づかされた。 「何が嫌なんだ?」 「……記憶を失えば、そこにいるのはお前と一緒に生きてきたおれじゃなくなるだろ。それでおれはそこにいるって言えるのかよ」  なるほど。記憶や経験は性格を形作る素材だ。それを失ってしまえば、同じ人物がそこに言えるとは確かに言えないのかもしれない。笑い方も歩き方も、何もかも違っていたらそれは姿形が同じだけの別人だとも言えるかもしれない。それでも、俺は。 「お前が忘れても、俺が覚えてる。分かってる、全て忘れて龍になったお前が今までとおんなじように笑ったり怒ったりする確証はない。でも全てを得ることは出来ない。何か一つを得るために他を捨てなければならない。俺はお前の言葉や表情や思い出、体温、全てを捨ててもただその存在があればいいと思ってる」 「……」 「体温、はちょっと無理かも知らんが、思い出はいくらでも作れる。全部忘れてもお前はお前だろ」  裾を握る深海の力が少しずつ強くなる。それこそ身勝手な話だ。記憶を失うのは深海の方だ。だから龍になってしまえば、今ここで怯えていた深海はいなくなることと同じ。その後自分がどうなったかも、ここにいる深海は知ることが出来ない。 「約束する。お前が全て忘れても俺はずっと隣にいる」 「……違う、おれはっ」  深海が顔をあげた瞬間、領域内が強く揺れる気配を感じ取って咄嗟に立ち上がる。誰かがここに入ってきた。声をあげようとした深海を手のひらで制して、意識を周囲に集中させる。正面から気配を隠すことなく堂々と侵入してきているのは悪龍の一匹。だからあまり深海を大社に連れていきたくなかったんだ。つけられていたのか、探し出されたのかは分からない。だが深海に会わせる訳にはいかない。この気配、あの悪龍は人を食う。ここにきた狙いは深海だ。 「炎騰?」 「ここから出るな」  深海の瞳を真っ直ぐに見て、そう一言だけ告げる。深海もただならぬ状況を察してはいるのだろう。黙って頷くと社の奥、俺の力がより満ちている赤龍の間へと向かった。  今日はお客の相手をしている時間などない。部屋を出て社の表へ出る。入り口辺りでキョロキョロと辺りを見渡しているのは、大社の周囲で見かけた龍だった。 「帰れ」  特に感情もなく、それだけ告げる。しかしまるでその言葉が聞こえていないとでも言うかのように、その龍はフラフラと辺りを歩き回る。 「お前にやるもんはねぇよ」 「そんなこと言われずとも、私は赤龍様からお裾分けして貰おうなんて思ってませんよ」  クスクス笑いながら放たれる声が耳障りだった。じゃあお前は何しに来たというんだ。見物しにきたつもりではないだろう。だから悪龍は嫌いなんだ。 「なら帰れよ」 「うーん……私は特に用事はないんですけどね? 腹を空かせた仲間の用事がまだのようなので」  思わず眉間に皺を寄せる。意味を考える前に咄嗟に意識を集中させる。直後、社内の空気が大きく揺れる。隠しもしないコイツの気配に釣られて、限界まで押し殺したもう一つの気配を見落としていた。  ぞくりと心臓が跳ねる。この気配は奥から放たれたもの。目の前にいるやつとは比べ物にならない悪龍として染まった重苦しい気配が境内を包んでいく。  深海。  頭を過ったのはその名前で。咄嗟に走り出そうとした体を取り押さえられる。 「てっめ、」  腕を掴んでこの場から動かすまいとしたのは囮の龍。人間の深海が龍に襲われてどうにかなる訳がない。ただでさえ今日の一件で体調が悪いのに。捕まれた腕を振り払おうとするが、向こうも躍起になって取り押さえようとしてくる。 「――炎騰ッ!」  腹の底から張り上げられたような声が、俺を呼んだ。コイツに構っている暇は一秒もない。一瞬の判断で爪先を龍の形に戻し、相手の腕を強く握り締め、深くめり込ませる。 「いってぇ!」  突然の痛みに堪らず手が離れる。その瞬間に身体を引き剥がし、ぐるりと身体を回して思いきり蹴りを入れてやればその体は勢いよくすっ飛んでいく。それがどこかにぶつかるのも見届けず、声のした方へ。全身を龍の姿に戻している時間はない。手足だけを龍のものに変えて、強く地面を蹴り壁や扉を片っ端から突き破って、赤龍の間へと直進する。  そこに辿り着くまでに十秒もかからなかった。しかし、赤龍の間にはすでに完全な悪龍の姿があった。ピリピリとした嫌な気配が肌を撫でていく。その龍の視線のある方向。そこには、悪龍の右足があった。 「そいつに触れるなッ!」  爪の下から覗いていたのは探していた深海の姿で。腹の底から張った声と共に領域の力を強めて悪龍の姿を人間のものへと落とそうとするが、気が高まり、興奮している様子のそれには届かない。  暴れた深海がそこから這い出そうとしているのが見える。間に合え、間に合わせろと。そう自分に言い聞かせていた目に映ったのは、爪を着物に引っ掛け、その足を振り上げる龍の姿。龍と比べて、小さな人間の体は軽々と宙を舞う。  やめろ。  それは声にはならなくて。ただそれを目で追うしか出来なくて。  空を舞ったその身体に、深く龍の角が突き刺さる光景を見ても、しばらく体は動かなかった。見開いた瞳が震える。赤い滴が、悪龍を伝って落ちてくる。 「みうみ?」  ようやく出たのはそんな小さな声で。悪龍は十分に血を纏うと、頭部を強く振るい、深海の身体をまた振り上げた。その光景が目に入ったとき、体はようやく動いた。真っ逆さまに落ちてくる身体を、出会ったあの日のように受け止める。しかし、その体はあの日と違って真っ赤に染まり、紺碧の瞳がこちらを見上げることはない。浅い呼吸が、必死に命を繋いでいる。床に横たえ傷口を見てみるが、それが致命傷であることは一目瞭然だった。 「深海……みう、み、」  こんなことでお前を失うのか。  お前を失いたくなかったから起こした俺の行動のせいで、お前はいなくなるのか。  頭の中ではぐるぐると後悔ばかりが巡っている。何度名前を呼んでも、深海がいつものように返事をすることはない。強い力を持つ深海の血を被ったことで神気を得た悪龍の咆哮が、背後から聞こえる。でもそんなことどうでも良かった。血だけでは飽き足らず、ついで全身を食らおうとした悪龍の追撃が、こちらに向かってくる。  しかし、その悪龍の攻撃は、俺たちの元へ届かなかった。 「龍族の恥さらしが、二度と月は見られないと思え」  代わりに耳に届いたのは、ゾッとするほど低く、怒りを含んだ声。そっと振り返った先には金龍と、仲間の龍神たちの姿があった。それをぼんやりと見上げていると、後ろから強く頭を叩かれる。 「いって!」 「何ボーッとしてるんだよ! 早くしないと本当に死んじゃうよ!」  正面にいたのは光月で、焦った顔で俺を見下ろしている。光月の言葉にハッとして腕の中の深海を覗き込む。まだ息はある。背後の悪龍は他の龍神たちが相手をしてくれている。その隙に深海の体を抱え上げ、光月の誘導する方へと走り出した。深海の赤い手のひらが、弱々しくしがみついてくる。深海はまだ耐えてくれている。  光月が導いてくれた先には、霜天たちがいた。悪龍たちの神気が届かないように銀龍の領域が張られたそこは、少し暖かかった。領域の中に、そっと深海を下ろす。最初に近づいて来たのは白龍だった。 「っ、やっぱり……ダメだ」  両手を伸ばして深海に向かってみるが、すぐに首を左右に振った。白龍と呼ばれる龍神は、清める力や癒す力が強い種族であるが、強い神的な力が加わった悪龍から受けた傷を治すことは不可能だった。 「白龍でも傷が治せない……なら……」 「助ける方法はただ一つ」  光月の言葉に、霜天が続ける。霜天は言葉をそこで区切ると、真っ直ぐに俺を見た。つまり、そういうことなのだろう。  救うためには、この傷を捨ててしまえばいい。人間の状態で受けた傷を、捨ててしまう。龍になること。  結局、深海から答えは聞けていないが、それしかない。  霜天と目を合わせて、黙って頷く。霜天は何も言わずに近くにいた光月たちを離した。 「龍にするには、龍が直接人間としての死を与える必要がある。……炎騰が出来ないなら僕がやるけど?」 「馬鹿にするな。それくらいの覚悟は、出来てる」  そっと深海の体を仰向けにする。吐き出される息はさっきよりも浅いものになっていた。その心臓に手を当てると、いつもよりも大分遅く、弱々しい鼓動を感じ取った。 「……ぅ、……えん、と……ぅ」  一つ大きな息を吐き出した瞬間、小さくか細い声を聞き取った。心臓に当てた右手に、濡れた左手が重ねられる。右手は俺を探しているのか、地をさ迷っていた。もう、見えていないのだろう。その手を、空いた左手で捕まえる。存在を伝えるように、強く強く握り締めると、深海の頬に滴が伝った。きっと、察しているのだろう。深海はあの頃から聡くて賢い子どもだった。 「えん……と、おね、が……」 「……なんだよ」  心臓に当てた右手が震える。こんなに苦しめるつもりなんてなかった。これだけ傷が深ければ、痛みなど最初の一瞬だけだっただろうが。それでも。こんな最期を与えるつもりはなかった。 「っ……は、……れ、の……こと……っう、き……い、に……」 「なんだよ、何を」 「炎騰、早くしないと……」 「は、ぅ……げほっげほっ、ぅ……え、っは」  突然酷く噎せた深海が血痰を吐き出す。もう呼吸することすら苦しいだろう。言葉は、もう紡げない。  強く唇を噛む。深海の瞳がゆっくり閉じられる。深海も、もう覚悟している。このまま俺が手をこまねいても、深海の苦しみが長引くだけだ。  ……ごめんな、こんなに苦しめて。  閉じられた瞼にそっと口づけて、右手に力を籠めた。

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