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第4話

「と、こんなところかな。後は追々学んでいくといいよ」 「ん、三割方しか理解できなかったけどなんとかなるだろ」 「うーん、ほとんど分かってないね」  銀龍の間。相変わらず透き通った雰囲気のあるそこに、これまた透明感のある一匹の龍がいた。生まれたばかりでまだ龍としての力のほとんどが目覚めていないその龍は、真っ白で無垢な存在だった。生まれたてだと言うのに、目の前の銀龍に全く物怖じしないというのがアイツらしい。まだ龍として目覚めていないから分からないが、銀龍の間であれだけ平然としていられるのだから深海は恐らくこちらの思惑通り、海龍として生まれ変わったのだろう。  深海が目を覚ますまでにかかった時間は、人間の時間に換算すると一年だった。龍の俺たちからすると、あっという間のちょっとの時間。そのはずなのに、俺にとってはその一年が、深海と過ごした十年よりも長く感じられて、結局片時も離れることが出来なかった。このまま目覚めなかったらとか、目覚めたとしても望む姿の龍ではなかったらとか、嫌な考えが先走った。  霜天に龍としてのあれこれを説明されているが、ほとんど分かっていない顔をしている。それも仕方がないだろう。深海は、記憶を失った。名前も経験も思い出も、全て。それは龍として生まれ変わるためには当然のことで、俺も覚悟していたことだった。覚悟したはずのことだった。それでも、やはりこちらを見つめる目に含まれる感情が何もないというのは、少し痛かった。 「おーい?」 「……なんだよ」  失ったもののことばかり頭の中でくるくると回る。と、いつの間に霜天と話し終わったのか、傍らに来ていた深海と同じ姿をした龍がこちらを覗き込んできた。深海と同じ色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。こちらを探るような、観察するような視線は初めて会った日と同じだった。  全てが最初から。この視線を、もう一度俺だけのものに出来る日なんて来るのだろうか。 「ん? 赤いのが面倒みてくれるって言われたけど……お前だよな?」 「……あぁ、そうだったな」  そういえば、そんな約束もしていたか。先ほど霜天がいたはずの位置を横目に見るが、すでにそこには誰もいない。後は自分でやれということだろう。もともとそのつもりだったのだ。それはそれで構わない。  腰かけていた塀から立ち上がり、やはり俺よりも少し高い位置にある顔を見る。目が合えば、深海は真っ直ぐに笑ってみせる。 「よろしくな、えぇーっと……」 「…………炎騰、だよ」  瞳の奥にある俺に対して持っている感情は全く違うのに、見せる笑顔は一つも変わらない。それが、ただ痛かった。 「社、案内してやるから。ついてこいよ」  それだけ告げて先を歩き出すと、少ししてから後ろについてきた。大社の中は、初めて深海を連れてきた日と違ってシンと静まり返り、周囲に龍の姿は見えなかった。高位の龍が新たに誕生したのだ。その祝言の準備や何やらに追われているのだろう。あの一件以来、悪龍たちは一匹残らず大社を追放された。そのため、大社にいる龍の数はとても減った。だから現在ここにいる龍たちは皆手伝いに駆り出されているのだろう。広い空間に二人きり。響くのは俺と深海の足音だけで、その空気が何より懐かしかった。深海が人間だった頃は、いつも二人きりで俺の隠れ家にいたから。  今この時が、深海と俺だけになれる最後の時なのだろうか。後ろを歩く深海には何も伝わらないように、ただ前だけを見て歩く。そっちが金龍の間、あっちが白龍の間、この辺からは高位の龍の敷地だとか言うことを一つ一つ教える。深海は静かに後ろからついてきていた。俺が言葉をかけると、いちいち返事をしてくる。分かっているのか分かっていないのか、よく分からないような脊椎反射で返ってくる空返事に色々と言いたくなるが、深海も考えていることがあるのだろう。俺も必要最低限の言葉しか発さずにいた。  こうしていると、あの日、初めて深海を大社に連れてきた日を思い出すようだった。 「……あの、さ」 「……なんだよ」  大社の半分ほどを案内し終えた時、ふと深海が後ろから声をかけてきた。その声に振り返ることはせずに、ただ立ち止まる。歯切れが悪く言い出しづらそうなのが分かる。俺に萎縮しているのだろう。それほど高圧的な態度を取っているつもりはないが、向こうはそう取っているということか。 「いや、俺、一人でも大丈夫、だぞ?」 「……なんでだよ」  そのたった一言が酷く胸をついて、言葉を失いそうになる。静かに強く拳を握って、やっと短く言葉を返す。振り向くことは出来なかった。 「……目、一回も目が合わないから、さ。そりゃ、誰だって出会ったばっかりのやつを信用したり出来ないだろうけど……お前が嫌なら、俺は別に一人でも……」 「黙れ」  低く一言放つと、深海は続けなかった。少しだけ距離の開いた背後から、深海の気配だけが伝わる。深海が今どんな顔をしているか。それすら見ることができない。確かに、深海の言葉は図星だ。現に今も深海の方すら見ていない。  本当は違うと言ってやりたかった。信用していないからお前を見られないんじゃない。お前のことが嫌だから見られないんじゃない。違う。本当は。 「黙ってついてこい」  口から溢れるのはそんなぶっきらぼうな言葉ばかりで、何も伝えられない。止めていた足をまた進めると、深海は言われた通り、黙ってそのままついてきた。ここで深海がついてこなかったら、一人でどこかへ行ってしまったら。それが不安で仕方ない癖に。  ……あれだけかかってやっと出来た覚悟は、所詮この程度だったのだろうか。そんなことは思いたくない。あの日の深海の姿が頭に浮かぶ。聞き届けられなかった最期の願い。それが何なのかを知ることなんてもう不可能だが。それでも記憶が消えた後のことを不安に思っていた深海が、今の俺のこの態度を見たらどう思うか。  黙って立ち止まると、後ろからついてきていた足音も止まった。そのまま一度深くため息をついてから、振り返る。不思議そうにキョトンとしている深く澄んだ青が変わらずそこにあった。その瞳は、やっぱり深海のものだ。 「……平気、か?」 「……? 平気」 「そうか」  やっと出てきた言葉はそんな何でもない言葉で。やはり自分はあの日の深海を忘れられていないのだなと自覚する。深海はあの日の人間だった深海とは違う。だから、龍の社を寒いとは感じていないだろうし、龍の力の重みも感じてはいないだろう。 「……なぁ」  それきり俺が黙ってしまうと、今度は深海の方が声をかけてきた。先ほど黙ってろと言われた矢先、少し探るような声だったが、しっかり俺に向かって放たれた言葉だった。深海は変わらず真っ直ぐに俺を見ている。俺が黙って続きを待っていると分かったのか、少し息をついて言葉を出す。 「なんか、まだちゃんと視力とか聴力を制御しきれてないみたいでさ、……さっき、他の龍の話し声が聞こえたんだ」  言い方からすると、俺が聞こえていなかったことに気付いているのだろう。俺は深海が目覚めてから今まで、他のことは上の空だったし、確かに深海が気にするような言葉は耳に届いていない。何か気に障るようなことでも言われたのかと黙って続きを待つ。 「『あの人間さん、無事に目覚めて良かった』」  その一言に、合わせていた視線をつい逸らしてしまう。どうせいつか知ることだから隠すつもりはなかったが、まだそれを知るには、それを伝えるには早すぎる。 「……俺、人間だったんだろ?」 「……」 「それと、さ、『炎騰は大丈夫なのかな』って、『少しくらい何か思い出せないのかな』って、そんな声もしたんだ」 「……それで?」 「炎騰……俺は、何を忘れた?」  全て分かっているのか。だから深海は黙って俺についてきてくれたのだろう。でも、この様子からすると深海はやはり何も覚えていない。恐らく、ここまでの道中で深海なりに色々考えてみたのだろう。それで出た答えがこれだ。  深海は今何も覚えていない。思い出せない。しかし、俺はその忘れた過去を知っている。結局、あの頃と変わらず深海は俺しか頼ることが出来ずにいるのか。  逸らしていた視線を合わせて、そっと笑う。 「知りたいのかよ」 「知りたい」 「後悔しないか?」 「しない」 「言ったな」  開いていた距離を少しずつ縮め、深海の正面に立つ。そして唐突にその体を突き飛ばして後ろに倒れさせる。深海は驚いて抵抗しようとするが、まだ龍の力に目覚めていないその体で赤龍の力に勝つことは不可能だ。床に落ちるその体を追うように自分の体も倒して、そっと後頭部に手を添え、髪を引き顔を上にあげさせる。深海の体が床に落ちるのを支えた姿勢のまま、唇を塞いでやる。体に触れさせた手に、あの頃より少し冷たくなった体温が乗る。それでもまだ俺より暖かいのは気のせいだろうか。数秒間唇を重ねた後、ゆっくりと離れる。深海は驚いた顔で、目を白黒とさせていた。  それは、消えた彼に初めて口付けた時と同じ反応だった。心臓が跳ねるのを感じる。一瞬で大量の感情が頭の中を駆け巡る。初めて触れた日の感情、口づけにくらいは慣れきって悪戯っぽく笑っていた日の感情、やっぱり全て消えてしまったのかと突きつけられた今の自分の感情。手が、小さく震える。 「……悪い、冗談だ」  見ていられなくて、こんな自分を見られたくなくて、やっと蚊の泣くような細い声を出して、深海から手を離す。そのまま立ち上がろうとした時に聞こえた声に、また思考が止まる。 「臆病な神様だな」  その言葉は。俺が深海を龍にしようと決めたあの日に深海に告げられた言葉。それと全く同じで。思わず、深海を見つめる。 「……は?」 「……ん? あれ? あ、いや、ちが、口が勝手に動いて」  思い出されるのは、その言葉を聞いたあの日。一度離れようとしていた体にもう一度体重を込める。支えていた手を離して、完全に床に押し倒す体制になり上から見下ろす。頬から顎にかけてを人差し指でなぞっていく。深海の表情が焦りに変わっているのが面白い。 「へぇ……」 「ちが、違うって!」 「お前が誘ったんだぞ」 「そう、かもしれないけど」  分かりやすく視線を逸らされる。何をされようとしているのかは理解しているようで、頬が赤くなっている。純粋な深海は、俺が教えた通りのことをそのまま受け取っているらしい。 「……そういう関係……?」 「そういう関係」  纏っていた真っ白な着物の隙間から手を入れて肌に触れてみると、俺を突き飛ばそうと深海の手が伸ばされる。首を伸ばしてその手に唇を触れさせ、舌を這わす。 「……っ、ちょっ、と、」 「知りたいって言ったのはお前だろ?」  言うと苦い顔をして、首を背ける。図星であることには間違いない。体こそは深海と同じなのだから、受け入れることは知っているはずだ。一年触れていなかったから少しは痛いかもしれないが。その分こっちも一年我慢しているのだ。この深海はそんなこと知ったことではないだろうが。

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