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第四章 半分の神子

 教会の小さな応接室では、テーブルの上にマフィンやクッキーの軽食が並べられている。食欲をそそる匂いに誘われて、グレアムの陰に隠れていたミニ竜はそっと顔を出した。 「……食っていい?」 「おおっ。人語を解するのだな! どうぞ遠慮なく」  竜は並んだご馳走と微笑むサーシャの口元を交互に見比べながら、そろそろとテーブルの上に降りた。小さな手でビスケットをつまんで食べ始めると、しかめ面のザキに、牙がよく見えるようニッと笑ってみせた。  サーシャはグレアムにも微笑みかけた。 「さあ、貴殿もどうぞ。先ほどは、危ないところを助けていただき――」 「たまたま目についただけだ」  グレアムはぶっきらぼうに答える。 「旅の者か?」 「まあな」  そうして茶の席が進む間、以前と同じような会話がまた繰り返された。神子の上洛、暗殺者の存在――。  この二十年間、グレアムはそんな事を幾度も経験してきた。初対面ではないのに初対面の人々。同じ内容の会話。そのたびにグレアムは、適当に調子を合わせる。 「腕利きと見込んで、頼みがあるのだが」 「サーシャ! どうして、身元も分からない人間に――」  二度目のサーシャの申し出に、ザキは以前と同じ反応をした。 「なぜか、初めて会った気がしなくてな」  サーシャは小首を傾げてグレアムを見る。しばし間があった後、グレアムは小さく息をついた。 「……一つ、聞きたい事がある」 「何なりと」 「あの男は、初めからあんたを狙っていた。だが今の話では、暗殺者の目的は神子のはずだろう。これは一体どういうわけだ?」  グレアムはサーシャのヴェールごしに、射貫くような視線を投げかけた。 「……今さら隠しても、仕方がないな」  ザキがため息まじりに言った。 「実は――、」 「こういうわけなのだ」  サーシャが、顔を覆うヴェールを上げた。  グレアムは息を呑む。  あどけなさを多分に残すサクランボのような唇の上に、すっきりとした小さな鼻が現れた。それはまるで、雪を戴く冬の山頂のように白い。しかし山の裾野に広がる頬には、春の花の色がうっすらと浮かんでいた。  そして――。その春の野に現れた、きらきら輝く双眸。陽の光を湛える金の睫毛に縁取られた瞳は、片方が夏の空の色、そしてもう片方が、針葉樹の森のように深い翠(みどり)色だった。 「あ、あんた……、その瞳は……」 グレアムの声が震えた。 「あんたが、『聖霊の神子』なのか!?」 「へ?」  竜がビスケットの欠片を口元からこぼした。 「神子? こいつが? なんで?」 「翠の瞳は……、神子の御印なんだ」 「ええ!?」  目を丸くした竜に、二色の瞳が半月を描く。 「そう。とは言っても、ご覧の通り半分だけだが。――我が、『半分の神子』だ」  グレアムは椅子にぐったりと身体を沈めた。 「そうか。あんたが……」 ――このサーシャが、あの方の御子。  改めて顔全体を見ても、確かにサーシャはかの人の面影を色濃く宿していた。この唇に心惹かれたのも、道理だったのだ。  グレアムは目頭に熱を感じ、瞳を閉じた。 「影武者を立てていたのだが、前回襲撃されたおりに、その者が大立ち回りを演じてな。それで敵に気づかれてしまったのだろう」 「…………」 「用心棒を雇ったのが裏目に出たようだが、貴殿は信用できる。護衛の仕事を引き受けてもらえないだろうか?」 「……分かったよ」  グレアムは、静かに答えた。懐かしい人に生き写しの口元と、神秘的なその瞳はもう、グレアムの心を捕らえて放さなかった。 「本当か! それはありがたい」 「ただし、次の満月が来るまでの間だ」 「次の――、満月? 一ヶ月間だけの契約、という事か?」 「ああ。こちらも色々と都合があるんでな」  そう。どうせ一月の間だけ。その間だけの、単なる仕事の契約だ。グレアムは心中で呟いた。一月後にはグレアム・エルデンという人間は、サーシャの記憶から消え去るのだから。  それでも――。  グレアムは少しぶしつけなほどまっすぐに、サーシャを見つめた。  あの魔物に奪われたものを、一月の間だけ、取り戻せる。二十年ぶりに、守るべきものを持つ事ができる。次の満月が空に浮かぶまで、ささやかな夢の世界に住まう事ができるのだ。 「その頃には聖都に着く予定だし、それで問題ない。よろしく頼む」  サーシャは金髪を揺らして頭を下げた。 「給料はずんでくれよな!」  竜が尻尾を大きく振りながら言った。 「もちろんだ」  サーシャは笑って、紅茶を口に運んだ。マフィンに手を伸ばす竜に、一つ渡してやる。 「でもさあ……」  マフィンにかぶりつこうとした竜はふと手を止め、サーシャを見て首を傾げた。 「その、あんたを暗殺しようとしてる奴って、誰だか分かってるんだろ。それならさっさと捕まえちゃえば?」 「うん。実は少々、相手が悪いのだ」 「相手が悪い? そんな大層な奴なのか?」  グレアムはオリーブを一つ口に放り込み、眉を寄せた。 「レスコフ派と呼ばれる、若い聖教徒たちを中心とした一派でな。首領のレスコフは、アルバロフ公爵家の人間なのだ」 「なんだと!? まさか、そんな――」 「アルバロフ公爵家?」  竜が首を傾げる。 「王宮には、国王に次ぐ権力を持つ人間が二人いてな――」  グレアムは竜の食べこぼしを拾ってやる。 「その一人がアルバロフ公爵だ。アルバロフ家の祖先は、我が国に聖教信仰を広めた聖人でな。それ以来アルバロフ家は代々に渡り、聖教会の後ろ盾になってきた。公爵自身は聖職者じゃないが、聖教会の実際の運営は、アルバロフ公爵家が担っている」 「ふーん。聖教会を守ってる家のやつが、神子を殺そうとしてるのかあ。へんなの」 「レスコフは信心深いあまりに思想が過激で、一族からも縁を切られているんだ」  ザキが言った。 「でもさあ、それってつまり、レスコフってやつはいいとこの坊ちゃんだから捕まえられないってことか? ズルイじゃん!」 竜は頬を膨らませたが、ザキは厳しい顔つきで反論した。 「そんな事はない! 名門貴族の出身だろうと、罪を犯せば裁かれる。ただ問題はアルバロフ公爵家と、治安維持に携わる我がグラングール将軍家が、対立関係にある事なんだ」 「グラングール家って、それあんたの家?」 「そうだ。今の話に出た二人の権力者のうち、もう一人が俺とサーシャの祖父で、軍の総司令官であるグラングール将軍だ。我がグラングール家も、代々軍の要職についてきた、アルバロフ公爵家に劣らない名門の家柄だ」 「ふーん」 「しかしアルバロフ公爵家から逮捕者が出れば、公爵家の権威は失墜し、将軍は権力を独占する事になる。はたからすれば、将軍に都合良く事が運んだと見えるだろう。下手したら、これは政敵を陥れる将軍の計略ではないか、などと疑われかねない」 「へー」 「要は、よほどしっかり証拠固めをしてからでないと、逮捕に踏み切れないって事だ」  グレアムは竜に目配せし、杯を口に運んだ。 「そうだ。今まで襲ってきた連中を何人か捕らえたが、山賊だの街のごろつきだの、金さえ貰えば何でもやる連中で、雇い主の事は何も知らなかった」 「そっかー」  竜は次のマフィンに手を伸ばす。 「お前、まだ食うのか!?」 「うん」 「しょうがねえな……」  グレアムがマフィンにジャムを塗る間、竜は目をきらきらさせて待っている。 「で、その将軍家と公爵家は、なんで仲が悪いんだ?」 「かたや宗教家の一族、かたや軍人一家だ。折り合いが良いはずもないんだが……、まあ一言で言えば、考え方の違いだな。将軍はいわゆる革新派ってやつで、公爵の方はガチガチの保守派、とかく正反対なんだ」 「そう。軍国主義で近代化を進める我が将軍家と、平和主義で伝統重視の公爵家。実力主義で、身分によらない人材の登用を行う将軍家と、封建的血統主義の公爵家。魔族や人外の種族との交流に積極的な将軍家と、閉鎖的な国家主義の公爵家。挙げていけばきりがない。だが一番の争点は――、聖伝だ」  ザキは苦々しい顔で、竜に説明してくれた。 「現在のところ、我が国の法の基準になるのは聖伝だ。しかしお祖父さま――将軍は、聖伝によらない、新しい政治体制作りを標榜しておられる。時代と国家の置かれた状況を考慮した改革が必要だ、とのお考えなのだ。対して公爵は、聖神への信仰と聖伝の教えこそ我が国の伝統で、民の心の拠り所だと主張している。目先の利に走らず、あくまでも聖伝に基づく政治を続けるべきとの考えなんだ」 「俺は将軍のがいいな!」  竜は元気よく言った。 「俺たち魔族とも仲良くしてくれるんだろ? そしたら、俺に意地悪する奴いなくなるし」  グレアムは、ジャムでベタベタになった竜の口元をナプキンで拭ってやる。 「だがな。平和的な聖伝の教えによらない政治となると、他国への侵攻なんて事も考えられる。将軍は戦争をしようとしている、と反発する国民も多い」 「そっかあ。戦争は俺もやだなあ」 「しかし、保守的に過ぎる聖教政治体制のおかげで、我が国は近隣諸国と比べて近代化に後れを取っている。それも事実だ」  ザキが反論した。 「うーん。難しいな。どっちがいいんだろ」 「まあ、今に始まった事じゃない。グラングール将軍家とアルバロフ公爵家は、代々に渡って、事あるごとに正反対の主張をしてきたんだ」 「へえ~」 「実は我自身も、この対立とは深い関わりがある。一役買っている、と言ってもいい」  サーシャが皮肉めいた口調で呟いた。 「どういう意味だ?」 表情を曇らせたサーシャに代わり、ザキがグレアムに説明してくれた。 「今から約二十年前、現在の国王陛下が即位された折に、将軍と公爵はそれぞれ自分の息女を後宮に入らせた。間もなく将軍の息女が身ごもられ、サーシャが生まれた。本来なら世継ぎの皇子だが、サーシャには半分だけ神子の御印があった。神子ならば俗世を離れるから、王位継承権はない。神子でないなら、次代の王だ。将軍にしてみれば、孫のサーシャが王となれば将軍家の未来は安泰だ。サーシャはぜひとも神子ではなく、皇太子であってほしい。公爵としては、サーシャはあくまでも神子であるとして、将軍の権力を抑えたい。将軍と公爵だけでなく、大勢の人間の政治的思惑がからみ合って、大論争が巻き起こった。結局は国王陛下が、サーシャは神子であるとの声明を出し、争いは収まったが」 「しかし……」  サーシャが話を引き取る。 「お祖父さまにすれば、断腸の思いだったろう。公爵にしても、決して喜ばしい結果ではない。背に腹は代えられぬとはいえ、宿敵、グラングール家の血を引く神子を聖教会に迎えねばならないのだ。『半分の神子』の存在が、互いの反発をより深めた事は間違いない」 「でもさぁ、あんたはどーなんだ?」  竜がサーシャに尋ねた。 「ん?」 「あんたは、どっちになりたかったんだ?」  竜の言葉に、サーシャはハッとした顔をした。少し険しくなっていた表情がほころび、鮮やかな青と翠の双眸が優しく微笑む。 「我は、神子で幸福だ」  その双眸を横目で眺めつつ、グレアムは、なんとも皮肉な瞳だと思った。  青は将軍家と軍を象徴する色だ。将軍家の紋章は海のように深く鮮やかな青地に、金色の獅子と狼があしらわれている。将軍自身も青い色を好み、身の回りの調度なども青を基調とした品を選ぶという。近衛師団の青い制服も然り、将軍家の者は皆、ここにいるザキのように青い瞳を持っている。  対して翠は、聖教において神聖な色だ。聖霊は翠の瞳を持つとされている。聖伝は翠色に染めた革で装丁され、聖職者の装束も、清廉潔白を表す白に翠の装飾が施されている。  サーシャの二色の瞳は、「半分の神子」の印であると共に、この両派の対立を象徴しているかのようだった。 「……事情はだいたい分かった」  グレアムはザキに目線を移した。 「で、ここからの作戦は? 指揮官どの」 「将軍もレスコフに対しては、算段がおありのはずだ。今はとにかく守りに徹し、神子さまを聖都の聖霊神殿まで無事に送り届ける。我が隊が命じられているのはそれだけだ」  そう答えたザキに、グレアムは真剣な顔で身を乗り出した。 「あんたは大切な事を見落としている。敵は、神子が影武者だというのは知っていた。だがどうして、誰が本物か分かったんだ?」  ザキは青い瞳を瞬かせ、大きく息を呑んだ。 「確かに、それは分からなかったはずだな」  サーシャも首を傾げる。 「一体どうして知ったのだろうか」 「内通者がいるんだ。この一行の中に」  グレアムは、重々しい声で呟いた。 「えっ!?」  ザキとサーシャの声が、ぴたりとかぶる。次の瞬間、ザキは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、腰に差した剣に手をかけた。 「貴様、我ら近衛師団を愚弄する気か!!」  しかしグレアムは、ひらひらと手を振った。 「人の話は最後まで聞くもんだ。どうもあんたは気が短いな」  ザキは唇を噛んだが、椅子にかけ直した。 「近衛師団は、『王家を守る』事を信条とする。忠誠心に篤いのは、あんたの言う通りだ。しかし、『半分の神子』は我が国の――つまり王家のためにならない、と考える者がいたらどうだ。王家のために偽物の神子を誅滅するのだ、という理屈なら通る」 「…………」 「神子の正体を知っていたのは、この中隊の兵だけだろう?」 「……その通りだ」 「ならば、その中の誰かがレスコフ派と通じている、と考えるのが妥当だ」 「筋が通るな」  サーシャが呟いた。 「よし!」  ザキは、きりりと眉を上げた。 「一人ずつ素行調査をして、」 「待て待て」  グレアムは片手を上げて制した。 「もっといいやり方がある。情報が漏れたのを、逆手に取って利用するんだ」 「と、言うと?」 「もう一人影武者を用意する、ってのは?」  グレアムはにやりと笑った。 「もう一人?」 「まず少人数の別部隊を編制して、事前調査の名目で本隊に先行させる。サーシャは別人になりすまして、この先発隊に加わるんだ。本隊の方では、神子の影武者はそのままにして、新たに『サーシャの影武者』も用意する。兵士たちに気づかれないようにな」 「先発隊!? 我が?」  サーシャが瞳を見開いた。しかしザキは渋い顔だ。 「少人数の先発隊など、何かあったら……」 「だからこそだ。敵も、まさかそんな手薄な箇所に本物がいるとは思わないだろう」 「なるほど」  ザキは思案した。 「だが、その、」  サーシャがおずおずと身を乗り出した。 「それはつまり、兵たちを騙すという事か……? 警護をしてくれる者に隠し事をするのは、信頼を裏切る行為ではないだろうか?」 サーシャの言葉に、グレアムは目を細めた。 「……今は隠しておいた方がいい。誰がレスコフ派と通じているのか、分からない。神子さまが無事に聖都に到着すれば、皆、許してくれるだろう」  自分はあれほど腹を立てたくせに、と、グレアムは内心気恥ずかしく思う。かつて真心をもって仕えた主君の御子を守るのだ、という気負いに肩すかしを食らわされ、あの時は無性に腹が立った。だが結局、ザキの判断はほぼ正しかったのだ。  何者かが、敵に情報を流している。 「裏の裏をかくというわけか」  ザキは頭の中で慎重に、様々な可能性を検討しているらしい。初めはずいぶん疑り深い若者と思ったが、常に最悪の可能性を考慮する用心深さを身につけているのだと、グレアムにも少し理解できた。 「なかなか、良い案に思える」  ザキは心を決めたように表情を引き締めた。 「その作戦でいこう。グレアム、あんたはその先発隊に入ってくれ」 「は!?」 「何を驚いている。あんたの作戦だろう」 「いや、まあ、そうだが」 「よし! さっそく準備して出発だ!」  ザキは大股で部屋から出ていった。 「気は短いが、そのぶん大した行動力だな」  グレアムは呟いた。こちらを見てにこにこと微笑むサーシャから、慌てて目を逸らす。    机に向かい、ザキは手紙を書いていた。宛先はザキとサーシャの祖父、軍総司令官である、グラングール将軍だ。軍の命令系統において、国王陛下に次ぐ地位にある人物だ。  ザキが所属する近衛師団は、王家の守護という特殊任務を受け持つ性質から、軍の中でも他の部隊とは違う系統に属する、独立した部隊だ。現在は将軍の直接配下にあり、作戦遂行の際は将軍が直に指揮をとる。一軍人が私兵のような形で一個師団を配下に置くというのは、ある意味危険極まりない。もしその人物が反逆を企てるような事があれば、配下の師団は丸ごとその戦力になってしまう。にも拘わらずこのような組織編成がなされているのは、ひとえに将軍の実力と実績、そして国家に対する忠誠心と人柄が、国王陛下に高く評価されていればこそだった。  今回の神子の上洛にあたり、ザキを護衛部隊の指揮官に任命した将軍は、軍への報告書とは別に、個人的な手紙でも報告をしろと命じた。多忙な祖父にそこまで気にかけてもらえるのは、期待されている証拠だと、ザキは奮い立っていた。作戦行動について細かく記せと言われた通り、ザキは先日の経緯とグレアムを雇い入れた事、そして二重の影武者作戦について、詳しく手紙にしたためてゆく。  サーシャは昨日、一足先にこの街を出発した。要請していた追加の人員がちょうど到着したので、その中から十二名を選抜し、先発隊を結成した。サーシャは修道士見習いという触れ込みだ。正体を知っているのは、グレアムと先発隊の隊長、ミラン中尉だけだ。  本隊の方では、サーシャと背格好の似た団員を密かに呼び寄せて、影武者に仕立ててある。新たにやって来た兵はもちろん、これまで同行してきた兵も、ヴェールのおかげでサーシャの顔を知らない。入れ替わるのは造作なかった。  本隊である『神子の一行』は、二日遅れで明日この街を発つ。サーシャの護衛を先発隊だけに任せるのは不安だったが、指揮官であるザキが本隊を離れるわけにはいかなかった。 ――どうか、無事でいてくれ。サーシャ……。  ザキは祈るような目で、窓から晴れた空を見上げた。

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