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第五章 旅路
「ついた着いたぁ~」
道が丘の頂上に至り、小さな村の全景が視界に飛び込んだ。竜がグレアムの肩から飛び上がり、気持ちよさげに身体を伸ばした。
道はなだらかに丘を下り、村の入り口へと続いている。素朴な木製のゲートに白いペンキで、村の名が記されていた。両脇には花壇が設えられ、早咲きの花々が彩りを添えている。村の中心を流れる小川に沿って民家や牧場、畑が広がり、小川と垂直に交わる通りには、ごく僅かの商店らしき建物や酒場などが並んでいた。村の外れには教会も見える。
どこにでもある、田舎の村の風景だ。
「馬で来たから、思ったより早く着いたな」
竜が小声でグレアムに耳打ちした。
「……別に、急いでたわけじゃない」
グレアムは無愛想に答え、外套のポケットに手を突っ込んだ。
「おお。これは風光明媚なところだ」
馬上のサーシャが物珍しそうに辺りを見回している。ヴェールに隠されて表情は分からないが、その声はどことなく弾んでいた。
「さ、修道士さま」
隊長の、ミラン中尉が促した。サーシャは馬を進め、隊員たちが続く。殿を務める数騎を最後に、小さな隊列は丘を下って村のゲートをくぐった。
通りを進むと、村人たちが好奇の眼差しで一行を見る。やがて近くの建物から、頭の禿げた男が小走りに出てきた。
「これは、兵士さま。私共の村にようこそおいで下さいました。私がこの村の村長です」
人の良さそうな村長が隊列の前に歩み出ると、ミラン中尉は馬から下りた。
「私が指揮官だ。この村で隊を休ませたいのだが」
「は、はい。それはもちろん」
「そう、かしこまらずとも良い」
中尉は態度を柔らかにし、緊張しているらしい、このいかにも素朴な村長に微笑んだ。
「は、はい。――あの、」
村長は手にした帽子を手持ち無沙汰に弄んでいたが、思いきったように顔を上げた。
「例の件で調査にいらしたのでしょうか?」
「例の件?」
ミラン中尉は、村長の言葉に眉を寄せた。
「えっ。そ、その……、ここ最近村人たちが、辺りをうろつく怪しい男を見かけておりまして。地方保安部隊の方に先日報告したのですが、その件でいらしたのでは?」
「いいや。――詳しく聞かせてもらおうか」
村長の話では、怪しい男が初めて目撃されたのは、十日ほど前。丘の上から双眼鏡で村の様子をうかがっているのを、牛の放牧に出ていた村人が見かけた。男は村人に気づくと、林の中へ姿を隠してしまったという。村人は、旅の者かとさして気にも止めなかったが、翌日、男はまた現れた。今度は教会の近くでうろついているのを、近所の子供たちが見ていた。男はそれ以降も何度か目撃されており、近づいて声をかけた村人もいたが、男は何も答えず逃げるように去ってしまったという。
怪しい男は、神子の暗殺計画に関わりがあるかもしれない。そう判断したミラン中尉は、後続部隊が追いつくまでこの村に逗留し、調査を行うと決めた。
兵たちは教会の隣にある小さな宿に腰を落ち着け、中年のおかみとその娘に愛想良く迎えられた。
あてがわれた宿の部屋で、グレアムは手早く荷をほどいた。母娘の二人だけで切り盛りする宿だったが、気配りが行き届き、こぢんまりした清潔な部屋は居心地が良い。
グレアムは外套のポケットから、小さな木箱を取り出した。そっと掌に載せて蓋を開けると、中には女性ものの銀の指輪が入っている。
指輪は少し古くて細工は素朴だが、職人の丁寧な仕事がうかがえる良い品だ。ささやかなガーネットがはめ込まれ、その周りに細かな花模様があしらわれている。
「いつ見ても、きれいな石だな!」
竜はその石に負けないほど、瞳を輝かせた。
「……そうだな」
グレアムは、指先でそっと指輪に触れた。
『女の子が生まれたらね、二十歳のお祝いに、これを渡すつもりだったのよ』
今から二十数年前の、母の言葉が胸に甦る。
『私も亡くなった母さんから、二十歳の誕生日に貰ったの。これはそうやって代々、母から娘へ受け継がれてきた指輪なのよ』
近衛師団への入団が決まり、聖都へ旅立つ日の朝。母はグレアムにこの指輪を渡した。
『私には、貴方しか子供がいないから。この指輪は貴方が、お嫁さんに渡してちょうだい』
苦笑いしつつそれを受け取り、父母に手を振って別れたグレアムは、その後に待ち受ける自分の運命を知る由もなかった。
グレアムが聖都での新たな生活に慣れ始めた頃、母は思いがけず遅い子供を授かった。女の子だと知らせを受けたグレアムは、次に帰郷した時に指輪を返そうと思っていた。しかしその機会もなく、歳の離れた妹の顔を一度も見ぬまま、グレアムは忘れ去られて流離い人となってしまった。
ノックの音が部屋に響く。
グレアムは慌てて小箱をしまい込みながら返事をした。サーシャがドアを開ける。
「支度はできたか?」
「ああ、今……」
振り向いたグレアムは目を見張った。サーシャが、いつものヴェールを着けていない。代わりに、絹糸のような金髪を頭頂部の少し横で分け、額の片側から垂らしている。翠の瞳はその下にうまく隠れていた。
「おい、そりゃ……」
「ふふ。ヴェールを着けなくても良いように工夫してみたのだ。どうだ?」
サーシャは得意げに胸を反らせた。
「まあ確かに、あのヴェールは仰々しくて悪目立ちするな。しかしまた、どうして」
「その……、ええと、村の人々と話をするのに、顔を隠したままでは無礼な気がしてな」
サーシャは少々言い訳がましく言った。
先発隊は二人一組で、村人に聞き取り調査を行う事になっていた。サーシャは兵士ではないし、参加せずとも良いのだが、当のサーシャがどうしてもと言い張り、グレアムが組む事になったのだった。
「少々煩わしいが、仕方ないな」
サーシャは顔にかかる髪を手で梳いた。
グレアムは苦笑いした。どうやらサーシャは、この旅を楽しんでいるらしい。いかにも聖職者様ですと言わんばかりのヴェールを外したのも、開放感の現れなのだろう。
「すぐ行くから、階下で待っていてくれ」
サーシャは頷いて出ていった。踊るような軽い足音が、階段を下りていく。
グレアムが身支度を調えて外に出ると、何か聞こえてきた。耳を澄ませば、誰かが歌っているらしい。建物の横手から聞こえる歌声に誘われて、グレアムはそちらへ回った。
建物の角を曲がった瞬間、グレアムはぴたりと足を止めた。庭の隅でサーシャがベンチにかけ、童謡を歌っている。周りには子供たちが集まっていた。その光景はまるで宗教画のように、清浄な空気を辺りに漂わせている。
「あいつ、歌うまいな!」
竜はサーシャの歌に合わせ、尻尾を振ってハミングし始めた。グレアムもサーシャの声にしばし聴き入る。サーシャの声は少し高めの、透明で柔らかい、気持ちの良い声だった。
「サーシャ、そろそろ行くぞ」
一曲が終わるのを待ってからグレアムが声をかけると、サーシャはベンチから立ち上がって子供たちに手を振った。
「歌、うまいな」
二人が並んで歩き始めると、竜はグレアムの肩の上からサーシャに言った。
「歌うのも、神子の仕事の一つだからな」
「ふーん。他にはどんな仕事するんだ?」
「祈る」
「あとは?」
「うん。具体的な仕事は、そのくらいだな」
「えっ。それだけ?」
「それだけだ。聖霊の神子の役割は、『繋ぐ』事なのだ」
「繋ぐ? 何を?」
「人々と、聖霊を、だ」
「人と聖霊を、つなぐのか?」
「そうだ。聖歌を歌うのも、聖霊に祈るのも、全ては聖霊と人々の間に絆を結ぶためだ」
「ふうん。俺、もっとこう、色々やるのかと思ってた」
「聖教会の様々なお役目は、他の聖職者たちが担う。神子は本来の役割に心身を捧げ、他の行いをすべきではないとされているのだ」
「え、ちょっと待てよ。じゃああんたまだ二十歳そこそこで、この先の人生ずっと、聖歌を歌って祈り続けるだけなのか!?」
「そうだ」
グレアムはちらりとサーシャを見やった。生まれた時から、自分の意思と関係なく運命を定められ、務めに一生を捧げる。そこに葛藤はないのだろうかと、ふと思う。だがそれ以上は話をする間もなく、目的地に着いた。最初に怪しい男を目撃したという、村人の家だ。
日没前の清々しい風を通すためか、玄関の戸が開け放されている。グレアムは戸口から中をのぞいてみたが、人の姿は見当たらない。
「裏に回ってみるか」
「裏?」
サーシャは首を傾げつつ、家の脇に回るグレアムに小走りでついていった。
「そろそろ鶏を小屋に入れて、牛の乳を搾る時間だからな」
グレアムは傾き始めた陽を顎で差した。
「詳しいのだな」
「……こういう農村の暮らしは、どこでも似たようなものだからな」
「お前の故郷でも牛を飼っているか? 鶏も?」
サーシャは無邪気な顔でグレアムに尋ねた。
「……さあな」
グレアムは素っ気なく答えて視線を逸らす。
家の裏手に出ると、グレアムの言う通り鶏小屋があった。雌鶏たちは藁の上に落ち着き、主人が戸を閉めてくれるのを待っている。忍び笑いのような鳴き声で互いに囁き合い、まるで井戸端会議に花を咲かせているようだ。
鶏小屋の向こうに牛を囲っておく柵があり、そこで一人の老婦人が牛の乳を搾っていた。グレアムが躊躇いがちに咳払いをすると、老婦人は顔を上げた。白くなった豊かな金髪を後ろで一つにまとめ、落ち着いた茶色の瞳を持つ老婦人は、その瞳で訝しげにグレアムを見た。
「失礼。村に逗留している部隊の者だが、目撃されている怪しい男の件で話を聞きたい」
「は、はい」
老婦人は慌てたように立ち上がった。
「どんな男だったか、特徴を教えてほしいんだが」
「ええと、歳は二十代後半くらいかしら。すっきりした顔立ちで、髭もきちんと剃っていて、ガラの悪い人には見えませんでしたよ」
老婦人は見知らぬグレアムに警戒心を解かず、用心しいしいという風に答えた。
「で、その男は丘から村を見ていたと?」
「そうです。ただ景色を眺めていたというより、まるで見張ってるみたいでしたわ」
老婦人の言葉に、グレアムは眉をひそめた。
「他にも何か、気づいた事は?」
老婦人はしばらく考え、特にないと答えた。
「……もういいでしょうか?」
「ああ。時間を取らせて申しわけなかった」
グレアムは軽く会釈した。
老婦人は仕事に戻ろうとして、サーシャに気づいた。サーシャはいつの間にか牛の側にいて、草を食む様子を熱心に眺めている。
「あの……。その衣装は修道士さまでは?」
「いかにも」
サーシャは老婦人に微笑んだ。
「まあ……、まあ!」
急に、老婦人の表情が柔らかくなった。
「なんてありがたいんでしょう。修道士さま、どうか祝福を下さいませんか?」
「いいとも」
サーシャは腰をかがめた老婦人の肩に手をかけ、祈りを唱えた。三本指を自分の胸に当てて祝福を述べ、その指で彼女の額に触れる。
「ああ……。ありがとうございます」
老婦人は目尻に皺を寄せた。
「仕事の邪魔をしてすまなかったな。さあ、牛の世話に戻ると良いぞ」
「は、はい」
老婦人は再び牛の側に腰かけたが、サーシャは歩き去ろうともせず、にこにこしながら牛と老婦人を交互に見比べている。
「修道士さま、あの……」
老婦人は戸惑って首を傾げた。
「牛が、お珍しいのですか……?」
「こんな近くで見るのは、初めてなもので」
サーシャは期待を込めた眼差しで言った。
「ああ、どうか気にしないでほしい。乳が出るところを見たいのだ」
そうは言っても、修道士さまにこうもじっと見つめられていては、仕事にならないだろう。グレアムはサーシャを連れて行こうとしたが、一声早く老婦人が言った。
「よろしければ、おやりになりますか?」
サーシャの顔が輝いた。
「良いのか!?」
「ええ、ええ。お教えしますよ」
子供のようなサーシャに、老婦人も恭しい態度を崩して微笑んだ。
サーシャはローブの袖をまくり上げ、牛の乳搾りに挑んだ。老婦人も楽しげに教える。
「こうして指を添えて、力を入れすぎないで――、そうそう。お上手ですよ」
「やれやれ。まだ他も、回る予定なんだがな」
グレアムは苦笑いしつつ、様子を見守った。牛がのんきにモウと鳴く。
「偉い修道士さまが、こんな田舎の村においで下さるなんて。長生きはするもんですねえ」
「喜んでもらえて何よりだ」
「近頃は教会へ行かない人も多くなって。軍の偉い人は聖伝の教えを守らずに、戦争をしようとしてるって言うし。とんでもない事ですよ。聖霊の神子さまが長らくお生まれにならなかったもので、皆、聖神さまを信じる心を忘れているんでしょうね」
「そうか……」
「でも聖霊の神子さまもご成長あそばされて、近々、聖霊神殿へお入りになるそうですし。きっと、よい世の中になるでしょう」
「我もそう祈っている」
世間話をしながら、サーシャはどうにか乳搾りを終えた。得意げな顔で、一杯になったバケツを老婦人に差し出す。
「まあ、まあ。お手伝いありがとうございます、修道士さま」
老婦人はおどけて笑い、すっかり赤紫色に染まった空を見上げた。
「じゃあ、そろそろ牛を小屋に入れないと」
「では、我々はこれで。もしまた怪しい男を見かけたら、知らせてほしい」
グレアムは言った。
「分かりました。……ああ、そういえば」
老婦人はふと首を傾げた。
「今思い出したんですが。その人を見た時に、見覚えがある気がしたんです」
「見覚えが? ではこの村出身の者なのか」
「いいえ。それならすぐに分かったでしょう。でも、村に来た事がある人かもしれません」
「なるほど。有益な情報だ、感謝する」
グレアムは軽く会釈し、二人は老婦人の裏庭を後にした。
「見覚えのある男、か」
サーシャと二人して暮れかけた道を歩きながら、グレアムは呟いた。
「ふむ。村に来たというと、行商人や旅回りの劇団などだろうか? 他には……」
真剣な顔で思案するサーシャを、グレアムはまじまじと見た。
「なんだ? グレアム」
「あ、いや……。遊び半分でついて来ただけなのかと……」
「真面目に任務をしているぞ」
憤慨するサーシャに、グレアムは苦笑した。
「すまない。……だが、助かった。あんたのおかげで、あの人から話を聞き出せたんだ」
「我は牛の乳を搾っただけだぞ?」
「この村――、こういう田舎の村の人間は、信心深くて軍への反感が強い。俺が聞いても大した事は言わない。修道士のあんたが、ああして自然に会話をしたから良かったんだ」
「我を見直したか!?」
「ちょっと褒めたらこれだ。調子にのんな」
グレアムは笑って、サーシャを小突いた。
夜になると、非番の兵士たちが宿の食堂に集まって酒を飲み始めた。サーシャも仲間に入れてもらい、ワインをちびちびとすすりながら、あまり上品とは言えない彼らの冗談に首を傾げたりしている。
近衛師団では、身分に関わらず実力で人材を登用する将軍の方針により、様々な階級の者が共に任務につく。特に先発隊のメンバーには、パン屋の倅だの漁師の息子だの、庶民の出身者が多かった。陽気で気さくな隊員たちは、世間知らずの修道士さまをからかい半分、可愛がり半分に接している。グレアムと分隊長のミラン中尉以外は、サーシャを単なる修道士見習いと思っているので気楽なものだ。
グレアムは少し離れた席にかけ、楽しげな彼らの様子を眺めつつ、グラスを傾けていた。テーブルの上ではミニ竜が、欲張って山ほどのナッツを抱え込んでいる。
「まあ、賑やかですわね」
盆を抱えた宿の娘が、食堂に入ってきた。
産み月が近いようで、大きな腹をゆったりした服で包んでいる。母となるには少々早すぎるような、まだあどけなさの残る、桃色の頬が可愛らしい娘だった。しかしてきぱきとした仕事ぶりからは、しっかり者の性格がうかがえる。
「失礼。騒がしくてご迷惑でしたら――、」
「ちっとも構いませんわ。お客さんは皆さん方だけですし。……オリーブはいかが?」
娘は盆から皿を取り、グレアムの前に置いた。ハーブとオイルで漬け込んだオリーブだ。
「ありがたい。頂こう」
グレアムはオリーブを一つつまんだ。程良い塩分と爽やかなハーブの風味が、口いっぱいに広がる。グレアムは一瞬、瞳を閉じた。
「……旨い」
「うちの自慢の一品ですの。代々伝わる秘伝のスパイスを使ってるんですよ」
娘は微笑んだ。
「おーい、色男ばっかり構ってないで、こっちにも頼むよ~」
ほろ酔いの兵士が、陽気な声で娘を呼んだ。
「はいはい」
娘は愛想よく答えて皿を運ぶ。
その後ろ姿を見ながら、グレアムはオリーブをもう一つ口に入れた。
兵士たちの間で、陽気な笑い声が湧き上がる。皆、上機嫌らしい。誰かが流行歌を歌い始めた。最初は遠慮がちに小さく、次第に他の兵士も参加して大きくなる。サーシャもすぐに覚えて一緒に歌い始めた。
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