5 / 19

第五章 旅路

「ついた着いたぁ~」 道が丘の頂上に至り、小さな村の全景が視界に飛び込んだ。竜がグレアムの肩から飛び上がり、気持ちよさげに身体を伸ばした。  道はなだらかに丘を下り、村の入り口へと続いている。素朴な木製のゲートに白いペンキで、村の名が記されていた。両脇には花壇が設えられ、早咲きの花々が彩りを添えている。村の中心を流れる小川に沿って民家や牧場、畑が広がり、小川と垂直に交わる通りには、ごく僅かの商店らしき建物や酒場などが並んでいた。村の外れには教会も見える。  どこにでもある、田舎の村の風景だ。 「馬で来たから、思ったより早く着いたな」  竜が小声でグレアムに耳打ちした。 「……別に、急いでたわけじゃない」  グレアムは無愛想に答え、外套のポケットに手を突っ込んだ。 「おお。これは風光明媚なところだ」  馬上のサーシャが物珍しそうに辺りを見回している。ヴェールに隠されて表情は分からないが、その声はどことなく弾んでいた。 「さ、修道士さま」  隊長の、ミラン中尉が促した。サーシャは馬を進め、隊員たちが続く。殿を務める数騎を最後に、小さな隊列は丘を下って村のゲートをくぐった。  通りを進むと、村人たちが好奇の眼差しで一行を見る。やがて近くの建物から、頭の禿げた男が小走りに出てきた。 「これは、兵士さま。私共の村にようこそおいで下さいました。私がこの村の村長です」  人の良さそうな村長が隊列の前に歩み出ると、ミラン中尉は馬から下りた。 「私が指揮官だ。この村で隊を休ませたいのだが」 「は、はい。それはもちろん」 「そう、かしこまらずとも良い」  中尉は態度を柔らかにし、緊張しているらしい、このいかにも素朴な村長に微笑んだ。 「は、はい。――あの、」  村長は手にした帽子を手持ち無沙汰に弄んでいたが、思いきったように顔を上げた。 「例の件で調査にいらしたのでしょうか?」 「例の件?」  ミラン中尉は、村長の言葉に眉を寄せた。 「えっ。そ、その……、ここ最近村人たちが、辺りをうろつく怪しい男を見かけておりまして。地方保安部隊の方に先日報告したのですが、その件でいらしたのでは?」 「いいや。――詳しく聞かせてもらおうか」  村長の話では、怪しい男が初めて目撃されたのは、十日ほど前。丘の上から双眼鏡で村の様子をうかがっているのを、牛の放牧に出ていた村人が見かけた。男は村人に気づくと、林の中へ姿を隠してしまったという。村人は、旅の者かとさして気にも止めなかったが、翌日、男はまた現れた。今度は教会の近くでうろついているのを、近所の子供たちが見ていた。男はそれ以降も何度か目撃されており、近づいて声をかけた村人もいたが、男は何も答えず逃げるように去ってしまったという。  怪しい男は、神子の暗殺計画に関わりがあるかもしれない。そう判断したミラン中尉は、後続部隊が追いつくまでこの村に逗留し、調査を行うと決めた。  兵たちは教会の隣にある小さな宿に腰を落ち着け、中年のおかみとその娘に愛想良く迎えられた。    あてがわれた宿の部屋で、グレアムは手早く荷をほどいた。母娘の二人だけで切り盛りする宿だったが、気配りが行き届き、こぢんまりした清潔な部屋は居心地が良い。  グレアムは外套のポケットから、小さな木箱を取り出した。そっと掌に載せて蓋を開けると、中には女性ものの銀の指輪が入っている。  指輪は少し古くて細工は素朴だが、職人の丁寧な仕事がうかがえる良い品だ。ささやかなガーネットがはめ込まれ、その周りに細かな花模様があしらわれている。 「いつ見ても、きれいな石だな!」  竜はその石に負けないほど、瞳を輝かせた。 「……そうだな」  グレアムは、指先でそっと指輪に触れた。 『女の子が生まれたらね、二十歳のお祝いに、これを渡すつもりだったのよ』  今から二十数年前の、母の言葉が胸に甦る。 『私も亡くなった母さんから、二十歳の誕生日に貰ったの。これはそうやって代々、母から娘へ受け継がれてきた指輪なのよ』  近衛師団への入団が決まり、聖都へ旅立つ日の朝。母はグレアムにこの指輪を渡した。 『私には、貴方しか子供がいないから。この指輪は貴方が、お嫁さんに渡してちょうだい』  苦笑いしつつそれを受け取り、父母に手を振って別れたグレアムは、その後に待ち受ける自分の運命を知る由もなかった。  グレアムが聖都での新たな生活に慣れ始めた頃、母は思いがけず遅い子供を授かった。女の子だと知らせを受けたグレアムは、次に帰郷した時に指輪を返そうと思っていた。しかしその機会もなく、歳の離れた妹の顔を一度も見ぬまま、グレアムは忘れ去られて流離い人となってしまった。    ノックの音が部屋に響く。  グレアムは慌てて小箱をしまい込みながら返事をした。サーシャがドアを開ける。 「支度はできたか?」 「ああ、今……」  振り向いたグレアムは目を見張った。サーシャが、いつものヴェールを着けていない。代わりに、絹糸のような金髪を頭頂部の少し横で分け、額の片側から垂らしている。翠の瞳はその下にうまく隠れていた。 「おい、そりゃ……」 「ふふ。ヴェールを着けなくても良いように工夫してみたのだ。どうだ?」  サーシャは得意げに胸を反らせた。 「まあ確かに、あのヴェールは仰々しくて悪目立ちするな。しかしまた、どうして」 「その……、ええと、村の人々と話をするのに、顔を隠したままでは無礼な気がしてな」  サーシャは少々言い訳がましく言った。  先発隊は二人一組で、村人に聞き取り調査を行う事になっていた。サーシャは兵士ではないし、参加せずとも良いのだが、当のサーシャがどうしてもと言い張り、グレアムが組む事になったのだった。 「少々煩わしいが、仕方ないな」  サーシャは顔にかかる髪を手で梳いた。  グレアムは苦笑いした。どうやらサーシャは、この旅を楽しんでいるらしい。いかにも聖職者様ですと言わんばかりのヴェールを外したのも、開放感の現れなのだろう。 「すぐ行くから、階下で待っていてくれ」  サーシャは頷いて出ていった。踊るような軽い足音が、階段を下りていく。  グレアムが身支度を調えて外に出ると、何か聞こえてきた。耳を澄ませば、誰かが歌っているらしい。建物の横手から聞こえる歌声に誘われて、グレアムはそちらへ回った。  建物の角を曲がった瞬間、グレアムはぴたりと足を止めた。庭の隅でサーシャがベンチにかけ、童謡を歌っている。周りには子供たちが集まっていた。その光景はまるで宗教画のように、清浄な空気を辺りに漂わせている。 「あいつ、歌うまいな!」  竜はサーシャの歌に合わせ、尻尾を振ってハミングし始めた。グレアムもサーシャの声にしばし聴き入る。サーシャの声は少し高めの、透明で柔らかい、気持ちの良い声だった。 「サーシャ、そろそろ行くぞ」  一曲が終わるのを待ってからグレアムが声をかけると、サーシャはベンチから立ち上がって子供たちに手を振った。 「歌、うまいな」  二人が並んで歩き始めると、竜はグレアムの肩の上からサーシャに言った。 「歌うのも、神子の仕事の一つだからな」 「ふーん。他にはどんな仕事するんだ?」 「祈る」 「あとは?」 「うん。具体的な仕事は、そのくらいだな」 「えっ。それだけ?」 「それだけだ。聖霊の神子の役割は、『繋ぐ』事なのだ」 「繋ぐ? 何を?」  「人々と、聖霊を、だ」 「人と聖霊を、つなぐのか?」 「そうだ。聖歌を歌うのも、聖霊に祈るのも、全ては聖霊と人々の間に絆を結ぶためだ」 「ふうん。俺、もっとこう、色々やるのかと思ってた」 「聖教会の様々なお役目は、他の聖職者たちが担う。神子は本来の役割に心身を捧げ、他の行いをすべきではないとされているのだ」 「え、ちょっと待てよ。じゃああんたまだ二十歳そこそこで、この先の人生ずっと、聖歌を歌って祈り続けるだけなのか!?」 「そうだ」  グレアムはちらりとサーシャを見やった。生まれた時から、自分の意思と関係なく運命を定められ、務めに一生を捧げる。そこに葛藤はないのだろうかと、ふと思う。だがそれ以上は話をする間もなく、目的地に着いた。最初に怪しい男を目撃したという、村人の家だ。  日没前の清々しい風を通すためか、玄関の戸が開け放されている。グレアムは戸口から中をのぞいてみたが、人の姿は見当たらない。 「裏に回ってみるか」 「裏?」  サーシャは首を傾げつつ、家の脇に回るグレアムに小走りでついていった。 「そろそろ鶏を小屋に入れて、牛の乳を搾る時間だからな」  グレアムは傾き始めた陽を顎で差した。 「詳しいのだな」 「……こういう農村の暮らしは、どこでも似たようなものだからな」 「お前の故郷でも牛を飼っているか? 鶏も?」  サーシャは無邪気な顔でグレアムに尋ねた。 「……さあな」  グレアムは素っ気なく答えて視線を逸らす。  家の裏手に出ると、グレアムの言う通り鶏小屋があった。雌鶏たちは藁の上に落ち着き、主人が戸を閉めてくれるのを待っている。忍び笑いのような鳴き声で互いに囁き合い、まるで井戸端会議に花を咲かせているようだ。  鶏小屋の向こうに牛を囲っておく柵があり、そこで一人の老婦人が牛の乳を搾っていた。グレアムが躊躇いがちに咳払いをすると、老婦人は顔を上げた。白くなった豊かな金髪を後ろで一つにまとめ、落ち着いた茶色の瞳を持つ老婦人は、その瞳で訝しげにグレアムを見た。 「失礼。村に逗留している部隊の者だが、目撃されている怪しい男の件で話を聞きたい」 「は、はい」  老婦人は慌てたように立ち上がった。 「どんな男だったか、特徴を教えてほしいんだが」 「ええと、歳は二十代後半くらいかしら。すっきりした顔立ちで、髭もきちんと剃っていて、ガラの悪い人には見えませんでしたよ」  老婦人は見知らぬグレアムに警戒心を解かず、用心しいしいという風に答えた。 「で、その男は丘から村を見ていたと?」 「そうです。ただ景色を眺めていたというより、まるで見張ってるみたいでしたわ」  老婦人の言葉に、グレアムは眉をひそめた。 「他にも何か、気づいた事は?」  老婦人はしばらく考え、特にないと答えた。 「……もういいでしょうか?」 「ああ。時間を取らせて申しわけなかった」  グレアムは軽く会釈した。  老婦人は仕事に戻ろうとして、サーシャに気づいた。サーシャはいつの間にか牛の側にいて、草を食む様子を熱心に眺めている。 「あの……。その衣装は修道士さまでは?」 「いかにも」 サーシャは老婦人に微笑んだ。 「まあ……、まあ!」  急に、老婦人の表情が柔らかくなった。 「なんてありがたいんでしょう。修道士さま、どうか祝福を下さいませんか?」 「いいとも」  サーシャは腰をかがめた老婦人の肩に手をかけ、祈りを唱えた。三本指を自分の胸に当てて祝福を述べ、その指で彼女の額に触れる。 「ああ……。ありがとうございます」  老婦人は目尻に皺を寄せた。 「仕事の邪魔をしてすまなかったな。さあ、牛の世話に戻ると良いぞ」 「は、はい」  老婦人は再び牛の側に腰かけたが、サーシャは歩き去ろうともせず、にこにこしながら牛と老婦人を交互に見比べている。 「修道士さま、あの……」  老婦人は戸惑って首を傾げた。 「牛が、お珍しいのですか……?」 「こんな近くで見るのは、初めてなもので」  サーシャは期待を込めた眼差しで言った。 「ああ、どうか気にしないでほしい。乳が出るところを見たいのだ」  そうは言っても、修道士さまにこうもじっと見つめられていては、仕事にならないだろう。グレアムはサーシャを連れて行こうとしたが、一声早く老婦人が言った。  「よろしければ、おやりになりますか?」  サーシャの顔が輝いた。 「良いのか!?」 「ええ、ええ。お教えしますよ」  子供のようなサーシャに、老婦人も恭しい態度を崩して微笑んだ。  サーシャはローブの袖をまくり上げ、牛の乳搾りに挑んだ。老婦人も楽しげに教える。 「こうして指を添えて、力を入れすぎないで――、そうそう。お上手ですよ」 「やれやれ。まだ他も、回る予定なんだがな」  グレアムは苦笑いしつつ、様子を見守った。牛がのんきにモウと鳴く。 「偉い修道士さまが、こんな田舎の村においで下さるなんて。長生きはするもんですねえ」 「喜んでもらえて何よりだ」 「近頃は教会へ行かない人も多くなって。軍の偉い人は聖伝の教えを守らずに、戦争をしようとしてるって言うし。とんでもない事ですよ。聖霊の神子さまが長らくお生まれにならなかったもので、皆、聖神さまを信じる心を忘れているんでしょうね」 「そうか……」 「でも聖霊の神子さまもご成長あそばされて、近々、聖霊神殿へお入りになるそうですし。きっと、よい世の中になるでしょう」 「我もそう祈っている」  世間話をしながら、サーシャはどうにか乳搾りを終えた。得意げな顔で、一杯になったバケツを老婦人に差し出す。 「まあ、まあ。お手伝いありがとうございます、修道士さま」  老婦人はおどけて笑い、すっかり赤紫色に染まった空を見上げた。 「じゃあ、そろそろ牛を小屋に入れないと」 「では、我々はこれで。もしまた怪しい男を見かけたら、知らせてほしい」  グレアムは言った。 「分かりました。……ああ、そういえば」  老婦人はふと首を傾げた。 「今思い出したんですが。その人を見た時に、見覚えがある気がしたんです」 「見覚えが? ではこの村出身の者なのか」 「いいえ。それならすぐに分かったでしょう。でも、村に来た事がある人かもしれません」 「なるほど。有益な情報だ、感謝する」  グレアムは軽く会釈し、二人は老婦人の裏庭を後にした。 「見覚えのある男、か」  サーシャと二人して暮れかけた道を歩きながら、グレアムは呟いた。 「ふむ。村に来たというと、行商人や旅回りの劇団などだろうか? 他には……」  真剣な顔で思案するサーシャを、グレアムはまじまじと見た。 「なんだ? グレアム」 「あ、いや……。遊び半分でついて来ただけなのかと……」 「真面目に任務をしているぞ」  憤慨するサーシャに、グレアムは苦笑した。 「すまない。……だが、助かった。あんたのおかげで、あの人から話を聞き出せたんだ」 「我は牛の乳を搾っただけだぞ?」 「この村――、こういう田舎の村の人間は、信心深くて軍への反感が強い。俺が聞いても大した事は言わない。修道士のあんたが、ああして自然に会話をしたから良かったんだ」 「我を見直したか!?」 「ちょっと褒めたらこれだ。調子にのんな」  グレアムは笑って、サーシャを小突いた。    夜になると、非番の兵士たちが宿の食堂に集まって酒を飲み始めた。サーシャも仲間に入れてもらい、ワインをちびちびとすすりながら、あまり上品とは言えない彼らの冗談に首を傾げたりしている。  近衛師団では、身分に関わらず実力で人材を登用する将軍の方針により、様々な階級の者が共に任務につく。特に先発隊のメンバーには、パン屋の倅だの漁師の息子だの、庶民の出身者が多かった。陽気で気さくな隊員たちは、世間知らずの修道士さまをからかい半分、可愛がり半分に接している。グレアムと分隊長のミラン中尉以外は、サーシャを単なる修道士見習いと思っているので気楽なものだ。  グレアムは少し離れた席にかけ、楽しげな彼らの様子を眺めつつ、グラスを傾けていた。テーブルの上ではミニ竜が、欲張って山ほどのナッツを抱え込んでいる。 「まあ、賑やかですわね」  盆を抱えた宿の娘が、食堂に入ってきた。  産み月が近いようで、大きな腹をゆったりした服で包んでいる。母となるには少々早すぎるような、まだあどけなさの残る、桃色の頬が可愛らしい娘だった。しかしてきぱきとした仕事ぶりからは、しっかり者の性格がうかがえる。 「失礼。騒がしくてご迷惑でしたら――、」 「ちっとも構いませんわ。お客さんは皆さん方だけですし。……オリーブはいかが?」  娘は盆から皿を取り、グレアムの前に置いた。ハーブとオイルで漬け込んだオリーブだ。 「ありがたい。頂こう」  グレアムはオリーブを一つつまんだ。程良い塩分と爽やかなハーブの風味が、口いっぱいに広がる。グレアムは一瞬、瞳を閉じた。 「……旨い」 「うちの自慢の一品ですの。代々伝わる秘伝のスパイスを使ってるんですよ」  娘は微笑んだ。 「おーい、色男ばっかり構ってないで、こっちにも頼むよ~」  ほろ酔いの兵士が、陽気な声で娘を呼んだ。 「はいはい」  娘は愛想よく答えて皿を運ぶ。  その後ろ姿を見ながら、グレアムはオリーブをもう一つ口に入れた。  兵士たちの間で、陽気な笑い声が湧き上がる。皆、上機嫌らしい。誰かが流行歌を歌い始めた。最初は遠慮がちに小さく、次第に他の兵士も参加して大きくなる。サーシャもすぐに覚えて一緒に歌い始めた。

ともだちにシェアしよう!