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第六章 人の営み

 翌朝も早くから、兵士たちはそれぞれの分担に従って調査に出かけた。グレアムとサーシャも、村の大きな通りに向かう。  通りはいつにない人出で賑わっていた。春の訪れを祝う祭りが近いので、準備が行われているのだ。露店を作る村人たち。顔をつきあわせて相談する人々。品物を運ぶ馬や牛。その間を縫って子供たちが駆け回る。 「おお、これは賑やかだな」  サーシャはさっそく辺りを見回し始めた。 「おや、修道士さま」 「修道士さま! おはようございます」  村人が笑顔で声をかける。胸の前で三本指を掲げる者もいた。サーシャも修道士らしい挨拶を返すが、その後は気さくな調子で、あれは何だこれは何だと村人に尋ねる。終いには、屋台の設営を手伝い始めてしまった。 「やれやれ。おもりだな、こりゃ」  グレアムは頭をかいた。 「まあ、やりながら話を聞ければいいんじゃねえの。あれはあれで結構役に立つだろ」  肩の上の竜が呟いた。確かに、宿の母娘以外の村人は兵士たちによそよそしいが、修道士さまには別だった。何か情報を聞き出せるかもしれないと、グレアムはサーシャをそのままにして、自分は屋台の一つに向かった。 「失礼。ちょっと話を聞きたいんだが」  グレアムが声をかけると、品物を確認して帳簿に書きつけていた商人が顔を上げた。  数日前の深夜、その商人は酒場からの帰り道で例の男を見たという。男は大通りと交差する脇道から駆け出てきた。千鳥足で歩いていた商人は、ぶつかられて転んでしまったが、男は詫びの一言もなく舌打ちして走り去った。 ――脇道の方から……。  グレアムは眉をひそめた。脇道は宿と教会へ通じ、そこで行き止まりだ。子供たちは教会の裏で男を見たと言うし、男は教会の下調べをしているのかもしれない。村に到着した神子が、教会に逗留するのは予想できる事だ。 「その男を以前にも見た事はないか? よく思い出してみてほしいんだが」 「うーん。あるような、ないような……?」  商人は太った腹をさすりながら首を傾げた。 「すみませんねえ、私はどうも、もの覚えが悪くて」 「いや、いいんだ。ありがとう」  グレアムは内心の失望を隠して礼を言った。商人は会釈して、帳簿つけの作業に戻る。台の上には小さな包みが山と積まれていた。 「この屋台では、何を売るんだ?」 「女子供が好きそうなやつですよ」  商人が包みを開くと、中から可愛らしい耳飾りや腕輪などが出てきた。 「きれいな石だ! きれいな石ついてる!」  ミニ竜が、グレアムの肩から台の上に勢いよく飛び降りた。商人は目を丸くする。グレアムは慌てて竜の身体を押さえた。 「おい、触るなよ。売り物なんだからな」 「見てるだけだって!」 「はあ……、魔物もこういう物が好きなんですかねえ……」  商人はあからさまに警戒している。 「魔物じゃねえよ! 魔族だ!」  竜は尻尾でぴしゃりと台を叩いた。 「ひえっ」 「こら!」  グレアムは竜をたしなめたが、竜は頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。 「脅かせて悪かった。じゃあ、俺はこれで。何か思い出したら、知らせてくれ」 「分かりました」 「ほら、行くぞ、竜」  グレアムは腕を伸ばしたが、竜はふてくされて動こうとしない。 「俺はここできれいな石見てるから、勝手に行けば?」 「おい……」 「ふん」  グレアムはため息をついた。 「分かったよ! 買ってやるから機嫌直せ」  その言葉で、途端に竜は瞳を輝かせた。 「一つだけだぞ。高いのはだめだからな!」 「うん!」 「すまないが、商品を見せてもらえるか。いや、石だけでいいんだ」  グレアムが言うと、商人は台の下から箱を取り出した。中には、装飾品に取りつける前の石が山ほど入っている。大小様々色とりどりの石の中から、竜は翠色の小さな石を選んだ。 「これがいい!」  グレアムは代金を払い、上機嫌の竜と屋台を後にした。サーシャはどこかと見回せば、先ほどとは別の屋台で大工仕事に参加している。釘を打つ手つきが危なっかしい。 「修道士さま! ゆっくりやらないと、指を打っちまいますって!」  職人が笑っていた。 「しかしそなたは先ほど、もっと早く金槌を動かしていたではないか?」 「そりゃあ、俺は十五年も大工やってるんですから。素人が真似しちゃ、怪我しますよ」 「そうか」  サーシャは真剣な顔で金槌を握り直し、ゆっくり釘を打ち始めた。 「うまい、うまい。その調子」  周りに村人が集まって様子を眺めている。 「サーシャ。そろそろ行くぞ」  グレアムが声をかけるとサーシャは人々に暇を告げ、二人は連れ立って歩き出した。 「楽しかったか?」 「ああ。皆、良い人たちだな」  サーシャは無邪気に笑った。 「ん? 竜どのは何を持っているのだ?」 「きれいな石、買ってもらった!」  竜は石を太陽にかざしてみせた。石は光を吸い込むように、透明な翠の輝きを放つ。 「あんたの目みたいだな」  竜は言った。 「しまっとかないと……」  竜は肩から提げている小さな革袋を開けた。中には旅の道中で集めたきれいな石が、たくさん入っているのだ。 「おお、これは見事な収集品だ」  サーシャは袋をのぞき込む。 「だろ!」  竜は翠の石を加えて、慎重に袋を閉じた。 「それでサーシャ、何か情報はあったか?」  二人は村人から聞いた話を互いに照らし合わせた。するとやはり、男は教会を中心に目撃されているようだった。 「一度宿に戻って、隊長に報告しよう」  二人は来た道を戻り始めた。 「おや、あれは」  サーシャがふと足を止めた。少し先に、宿の娘の姿が見える。買い物かごを下げ、村人たちを遠巻きにし、どこかこそこそと歩いていく。そして雑貨屋へ入っていった。 「あれは宿の娘だな。アリアといったか」  サーシャの言葉に、グレアムは驚いた。 「名前なんていつ聞いたんだ?」 「今朝は早く起き出してしまってな。あのアリアが、茶の相手をしてくれたのだ」 「あんたは本当に、誰とでも話し込むな……」  なんとなく立ち止まったまま雑貨屋の入り口を見守っていると、出てきたアリアはサーシャに気づき、笑顔で近寄ってきた。 「アリア、買い物か」 「はい。お二人は調査を?」 「うん。これから報告に戻るところだ。買い物が終わったなら、一緒に帰ろう」  その時グレアムが無造作に、アリアの買い物かごへ手を伸ばした。 「グレアムさん?」 「……重い物を持つんじゃない」  グレアムは買い物かごを片手に提げ、仏頂面のまま言った。 「え? あの……、ありがとうございます」  アリアは戸惑いつつも、嬉しげな顔をした。 「他には何を買うんだ?」 「ええと、後はそこの店で裁縫道具を……」 「ここで待っているから、行ってくるといい。急がなくていいぞ」 「は、はい」  急がなくていいと言ったのに、アリアは慌てたように店に向かう。グレアムはその背中に向かって叫んだ。 「おい! 走るなって!」 「は、はいっ」  アリアが戻るのを待つ間、サーシャはふと、村人たちが通りすがりに目線をよこすのが気になった。少し離れた場所で祭りの準備をする人々も、遠巻きに二人を眺めているようだ。 「何か、皆に見られている気がするな」  サーシャはきょろきょろと辺りを見回した。 「……まあ、想像はつくな」  グレアムの声は沈んでいる。 「どういう事だ?」  その時、やんちゃ盛りの男の子を連れた母親が通りかかった。サーシャとは既に顔見知りらしく、軽く会釈する。そしてアリアが入っていった店の方をうかがうと、母親はグレアムに小声で囁いた。 「兵隊さん、余計なおせっかいかもしれないけどね、あの娘には気をつけた方がいいよ。ああいう娘だから」 「…………」 「ああいう、とは?」  サーシャが目をぱちくりさせて聞き返した。 「ええと、その、つまり……。ああいう、ふしだらな娘って事ですよ」  母親はそう答えたが、サーシャはふしだら、という言葉を知らなかった。尋ねようとした時、アリアが戻ってきた。 「お待たせしました。――あ、」 「まあ、アリア。お元気そうね!」  母親は慌てたように形ばかりの挨拶をし、子供の手を引いてそそくさと立ち去った。 「買い物はこれで全部か?」  グレアムが何事もなかったように声をかける。 「は、はい」 「じゃあ行こうか」 「グレアム。『ふしだら』とは何だ?」  サーシャが尋ねた。 「お、おい! サーシャ!」 「…………」  アリアは俯いてしまった。 「アリア、その……、」  慌てて取り繕おうとしたグレアムに、アリアは悲しげな微笑みを向けた。 「いいんです、グレアムさん。村の人にそう言われてるのは、分かっていますから」 「おいサーシャ、謝れって」 「我は何か悪い事を言ったのだろうか?」 「ああ、もう」  グレアムは天を仰ぐ。 「どうぞお気になさらず、修道士さま」 「??」  グレアムは、困り顔のサーシャとアリアの肩を叩いた。 「とにかく、行こうか……」 「……聖都から来た兵隊さんだったんです」  宿へ戻る道すがら、アリアは二人に語った。 「地域の視察調査に来て、うちにしばらく逗留したんです。……それで」  アリアは頬を染めた。 「結婚の約束をしたんです。彼は、一度聖都に戻って両親に報告すると言って……」 「…………」 「ですが、それきり何の便りもなくて……」 「それは気がかりであろうな。よし! その兵士の名前を教えてくれ。聖都に着き次第、調べて連絡しよう」 サーシャは熱心に、アリアの顔をのぞき込む。グレアムは、肩を掴んで止めた。ちょうど宿の勝手口に着いたので、荷物を置き、サーシャを半ば引きずるようにしてその場を離れる。 「あの娘は騙されたんだよ」  二人になると、グレアムはすっかり混乱しているサーシャに説明してやった。ふしだら、という言葉の意味も。 「なぜそう決めつけるのだ。何か事情があって、手紙を出せないのかもしれない」 「まあ、万に一つはそういう事もあるがな。しかし常識で考えれば、男はあの娘を弄んで逃げちまった、ってとこだろう」 「……世間には、そういう事をする男が、大勢いるものなのか?」 「まあな。ありふれた話だ」 「だがそうだとしても、なぜ村の者はあの娘を悪く言うのだ。悪いのは男の方だろう」 「理屈ではそうだがな。こういう閉鎖的な田舎の村じゃ、人と違う事をして目立つと反感を買う。よそ者と関わった挙げ句に妊娠して捨てられたあの娘は、ふしだらだからそういう事になったんだ、ってこじつけさ」 「しかし……、皆がそうではないだろう。人の考え方というものは様々だ。あの娘を気の毒に思う者もいるはずだ」 「確かにな。だが小さな村の社会じゃ、周りに同調する事は何より大切だ。農作業、家畜の世話、果樹園の手入れ、灌水作業――、皆で協力し合わなきゃならない。仲間外れにされたら、生活できねえんだ」 「…………」 「理解できたか?」  黙りこくってしまったサーシャに、グレアムは、余計な事を教えたかと心配になった。 「……感謝する」  サーシャがぽつりと呟いた。 「え?」 「世間知らずの我にも分かるよう、説明してくれた……」 「え、いや……」 「人々は皆、そのように大変な思いをして、日々の糧を得ているのだな」 「…………」 「人の営みというものには……、様々な面があるのだな。我は、みな良い人たちだ、などと単純に考えていたが。我は本当に、何も知らないのだな……」  かける言葉が見つからず、グレアムはただ、柔らかな金髪を無造作に撫でてやった。    ところが万に一つの事が起きた。  報告を受けたミラン中尉は、怪しい男の件を急ぎ本隊に連絡する事にした。使者に立つ兵に宿の前で指示を出していると、大きな鞄を抱えた長身の男が歩いてきた。歳は二十代後半くらい、整った顔立ちをしている。村の若者とは違う、小綺麗な身なりをしていた。 「――!」  ミラン中尉、そして側にいたグレアムとサーシャも目を見張った。目撃されている、怪しい男の特徴そのままだ。 「おい、あんた――」  しかしグレアムの呼びかけより一声早く、男は宿の入り口から大声で叫んだ。 「アリア!!」  アリアが顔を出す。途端、アリアは大輪の花が咲いたような笑顔で、男に走り寄った。 「アリア!」  男は人目も構わず、アリアを抱きしめて口づけた。 「おおっ!」  目の前で展開されたロマンチックな光景に、サーシャはしげしげと見入る。グレアムは慌てて腕を引いた。  男はアリアに言った。 「事情があって、帰りが遅れたんだ。手紙も出せず……、ごめんよ」 「いいえ。いいのよ。こうして帰ってきてくれたんですもの。赤ちゃんも、じきに生まれるわ」  アリアは瞳に涙を滲ませ、男に微笑んだ。 「あちらの御仁が、アリアのご主人だな」  サーシャはにこにこしながら、内緒話をするようにグレアムの耳元に口を寄せた。 「……そうらしい、な」  「よかったよかった」  目のやり場に困っている堅物のミラン中尉をよそに、グレアムは男に声をかけた。 「取り込み中すまないが、少々尋ねたい。近頃この村で、怪しい男がたびたび目撃されていた。もしかして、あんただったのか?」 「……あ。その、実は、」  男は口ごもった。 「彼女が怒っていると思って。近くまで来たものの、中々会いに来れなかったんです」  男は気まずそうに、アリアをちらと見た。 「まあ。そんな心配しなくて良かったのに」  グレアムとミラン中尉は、顔を見合わせて肩をすくめた。男は教会を偵察していたのではなく、隣にあるこの宿が目的だったのだ。 「やれやれ。だがともかく、おめでとう」 「はあ、その、ありがとうございます」  その時、騒ぎを聞きつけた宿のおかみが出てきた。 「まあ! 何の騒ぎかと思えば……」 「ご心配おかけしてすみませんでした」  男はおかみに頭を下げた。 「いいのよ、無事で良かったわ。さあ、お茶をいれるからこちらにおいでなさいな」  母娘と娘婿は、食堂に向かっていった。 「まったく、人騒がせな男だ」  グレアムは肩をすくめる。 「良いではないか。暗殺者でなくて何よりだ。アリアもこれで安心して暮らせるだろう」 「……まあ、な」  グレアムはどこか浮かない顔で答えた。ミラン中尉は、一足遅ければ出発していたであろう使者に予定変更を伝え、その兵士は厩に馬を戻しにいった。    翌日、ザキの率いる本隊が村に到着した。 「まあ、暗殺者でなくて幸いだった」  サーシャに一連の出来事を聞かされたザキは、安堵のため息をついて杯を口に運んだ。宿の食堂で、二人は数日ぶりに顔を合わせ、午後のお茶を楽しんでいる。  そこへアリアがやってきた。頬を桃色に染め、明るいナッツ色の瞳も、今日は一際輝いている。幸福な花嫁そのもののアリアに、ザキまでが口元をほころばせた。 「修道士さま。あの、実は」  アリアは恥じらいながら、話を切り出した。 「今夜、お祝いの席を設けたいと思っておりますの。よろしければ皆さんご一緒に、私たち家族と同席して下さいませんか?」 「おお、パーティというわけだな! もちろんだ。我はパーティが大好きだぞ」 「ふふ。ささやかなものですが……」  アリアははにかんだ。  陽気に騒ぐ事にかけては、兵士の右に出る者はない。その晩人々は大いに食べ、飲み、騒ぎ、小さな家族は幸福感に包まれた。修道士たちは揃って新婚夫婦に祝福を与え、兵士たちも数えきれぬほどの乾杯を二人に捧げた。 「皆さんがいらっしゃらなければ、家族だけの寂しい席だったでしょうに」  宿のおかみはしみじみと、グレアムに言った。 「時間が経てば、村の者も少しずつ打ち解けてくれますよ。きっと」  グレアムはおかみの杯にワインを注いだ。  深夜を回る頃。酔って寝てしまった者や、騒ぎ疲れて部屋へ戻る者もいて、食堂の喧噪は収まりかけていた。まだ飲み足りない者が幾人か、陽気なお喋りに花を咲かせている。  グレアムはふと、食堂を出ていくサーシャに目を留めた。グラスを置き後をつけると、サーシャは裏口から外へ忍び出た。 ――どこへ行くんだ?  サーシャは庭に出ると、両腕を上げて大きく伸びをした。別にどこへ行くというあてもないようで、辺りを見回しのんびり歩き始める。やがて木戸を出て隣の教会へ向かい、入り口の聖霊像に一礼して脇をすり抜けた。そして、教会の横手にある低い丘を登っていった。  よく晴れた晩で、空には半円の月が輝いている。ちかちかと瞬く星々が眩しい。サーシャは時々足を止めては天を仰いだ。丘の頂まで登ると、手近の岩に膝を抱えて座り込み、空想に耽る子供のように夜空を眺めた。 ――やはりあの方の御子だ。どこか似ている。  大樹の陰に身を隠してサーシャを見守りながら、グレアムはふと笑みをこぼした。  グレアムが仕えたかつての主君、皇太子殿下は実のところ、才気煥発の皇子とは言えなかった。今でこそ賢王として知られるものの、二十年前には、この皇子が未来の王では国が危うい、などと陰口を叩かれていたものだ。  生まれながらの気品と優しい心を持つ皇子ではあったが、内気な上に身体が弱く、どこか理想主義的で夢見がちなところがあった。恐れられると同時に敬われる強い王であった先代に比べ、あまりに王らしくなかったのだ。  しかしグレアムは、近衛師団の入団式で初めてそのお姿を見た時、全身が震えた。このお方こそ、生涯仕えるべき己の主君だと直感したのだ。その日グレアムは、己の命を捧げて、この未来の王の治世を守ると胸に誓った。  だが、しかし。あの魔物が、グレアムの夢を奪ってしまった。  守るべき人を。家族や友を。温かい、人との繋がりを――。  もの想いに耽っていたグレアムは、小さなくしゃみが聞こえてハッとした。 「風邪ひくぞ。まだ夜は冷える」  グレアムはサーシャに歩み寄り、羽織っていた外套を脱いで肩にかけてやった。 「グレアム! どうしたのだ」 「どうしたじゃない。俺はあんたの護衛なんだぞ」  グレアムは笑って、サーシャの隣に腰かけた。 「あんたこそ、何してるんだ?」 「うん。なんとなく、ぼんやりしたくてな。寒いだろう、戻っていて良いのだぞ」 「邪魔か?」 「そんな事はない」 「じゃあここにいるさ」  グレアムは岩の上で、大きく背を伸ばした。 「今夜はずいぶんと騒いだな。あんたの事だから、存分に楽しんだだろう」 「ああ、とても楽しかった。だが……」  サーシャの言葉がふつりと切れた。誰もいないので、サーシャは額にかかる髪をかき上げた。満天の星に負けじと輝く瞳が現れる。 「こんな時、我はふと不安になるのだ」 「え?」 「こうして人の営みを間近に見ると、我がその外側にいる事を、つくづく思い知らされる」 「人の……、営み?」 「そうだ。働いて日々の糧を得る。伴侶を見つけて子を持ち、家庭を作る。自分の周りのささやかな世界を守り、年老いてゆく。そういうごく当たり前の、人の営みだ。しかし我は生涯、そういう暮らしをする事はない」 「それが……、不安だと?」 「そうだ。聖神の教えは、そういう、ごく普通の人々のためにあるものだ。聖職者や特別な人間のためではない。聖霊は当たり前の人の営みをこそ愛し、寄り添って下さる。いわば人の営みの中にこそ、聖霊の祝福があるのだ。しかし聖霊と人とを繋ぐ神子が、人の営みを知らずにいる。それで良いのだろうか」 「なるほど。矛盾ってわけか」 「我は人としてこの世に生を受けながら、人の営みを行わない。聖教会という籠の中で守られ、虚構の人生を送っているだけなのではないかと、時々ひどく不安になるのだ」  サーシャは呟いた。 「まるで夢の中にいるように、時の流れの外で一人立ち止まり、人の営みを行う者たちは皆、我の横を通り過ぎてゆく……」 「…………!」  グレアムが息を呑んだのに気づき、サーシャはハッとした。 「おお、すまない。このような話をされても、返答に困るであろう」 「い、や……。分かるさ、俺には……」  少しかすれた声で答えたグレアムを、サーシャはじっと見つめた。 「そうか。お前は他者の想いを想像する事のできる、心優しい男なのだな」 「そ、そんなんじゃねえよ」  サーシャは微笑んだ。しばしの間、二人の間に沈黙が流れる。 「……か?」  グレアムが、小さな声で尋ねた。 「ん、なんだ?」 「寂しい、か? あんたは……」 「そうだな。少しだけ寂しい」 「そう、か」 「だがそれも、神子として負うべきものの一つなのだろう」 「……そうか」 「でも、」  サーシャはふと目を伏せた。 「もし我が、『半分の神子』でなく、完全な神子であったなら。偽物などではないと胸を張って言えたなら、このような不安を感じる事もなかったかもしれないと、時々思う」 「おい。あんたがレスコフ派の主張を真に受けてどうするんだ」 「真に受けるのではないが、我の存在を苦々しく思っているのは、なにもレスコフ派だけではないからな。公爵も、お祖父さまもだ」 「だが国王陛下は、あんたを聖霊の神子だと認めただろう」 「父上に直接尋ねた事がある。どうして我が本物の神子と分かるのか、と」 「何と答えたんだ、国王陛下は」 「父上は――。我が神子で間違いない、と仰った。『いずれお前にも分かる』と」 「今ひとつ、説得力に欠ける答えだな」 「ああ。はぐらかされた気分だった」  グレアムは改めて、半分の神子という、サーシャの複雑な立場を理解した。様々な思惑の狭間で翻弄されるサーシャの側で、いつも手を差し伸べていられたら。そんな願いが、ほんの一瞬間、グレアムの胸を流れ星のように行き過ぎた。しかし冴え冴えとした半月は天からグレアムを見下ろし、冷たい笑みを浮かべていた。 「俺には、神子の事はよく分からないが、」  グレアムはぽつりと言った。 「人の営みの外にいる神子――、それも、『半分の神子』であるあんただからこそ、できる事もあるんじゃないか?」 「我だから、こそ?」 「そうだ。人には、役割ってもんがある」 「役割……」  サーシャはその言葉を噛みしめた。 「そういう事も、あるかもしれないな」  サーシャの表情が、少し明るくなった。 「自分の運命にうじうじと悩んでも仕方がないな。時間を大切にせねば」 「……時間、を?」 「そうだ。運命を呪ったり、憎んだり、そんな時間はもったいないではないか。今この時も、永遠ではないのだから。それより自らの役割を果たし、今日この日を良き日にするよう努めていれば、きっと思い出が残る」 グレアムは、目を細めてサーシャを見た。 「あんたは、日々を大切に生きているんだな」 「お前は違うのか?」 「俺は――、そうだな……」  口元に曖昧な笑みを浮かべたかと思うと、グレアムは、急に勢いよく立ち上がった。 「グレアム? どうし、」  グレアムは前方を見据えて微動だにしない。その目線を追ったサーシャは、言葉を失った。  教会の向こうから、黒煙が上がっている。その煙がはっきり見えるほど、空は明るい。

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