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第七章 絆

「サーシャ! よく無事で――!」  サーシャが宿の前庭へ駆け込んだ時、建物はすっかり炎に包まれていた。ザキはサーシャに駆け寄ると、痛いほど強く手を握った。  兵士たちがバケツリレーで消火にあたり、異変に気づいてやって来た村人たちが、一人、また一人と加わっていく。修道士たちは怪我をした者に応急処置を施している。地面にへたり込んでいるアリアを、一人の修道士が抱きかかえるように支えていた。 「ザキ、これは一体!? 全員いるのか!?」  サーシャは辺りを見回した。だが――、先に駆け出していったグレアムの姿がない。 「グレアムは!?」 「宿のおかみさんがいないんだ。今、グレアムが行った……」 「この中に!?」  サーシャは燃えさかる建物を呆然と見つめた。思わず一歩踏み出したサーシャの腕を、ザキが恐ろしいほどの力で掴む。 「母を、お願いします! どうか……!」  半身を起こし、アリアがどこへともなく手を伸ばす。すがる指先を、寄り添っていた修道士が掌で包んだ。  ザキは一歩前に出た。 「二班、突入! 一、二組は一階、三組は二階へ! 必ず二人一組で行動しろ!」  井戸からバケツで水をくみ上げていた兵のうち、先発分隊の第二班六名は素早く頭から水をかぶった。二人一組になると、炎に包まれた建物の中へ勇ましく飛び込んでゆく。 「――ああ! 母さん!」  アリアは引き絞るような絶叫を上げる。サーシャはアリアに駆け寄った。 「落ち着いて。お腹の子に障る」 「ああ、聖霊さま!」 「大丈夫。皆、屈強の兵だ。きっと……」  その時サーシャは気づいた。慌てて辺りを見回すが、いるべき人の姿が見えない。 「ご主人は? まさかご主人もまだ中に⁉」 「いえ。火事の少し前に、外へ出ていくのを見た者がいます」  アリアの身体を支えている修道士が答えた。 「そうか、出かけているのか。よかった」  しかし、既に深夜だ。村の酒場もとっくに店じまいをしている。一体どこへ出かけたというのか。サーシャが首を傾げた、その時だ。 「――――――――っ‼」  アリアが獣のような悲鳴を上げ、修道士とサーシャは仰天した。 「ど、どうした! アリア⁉」  しかしアリアには声が届かない様子だ。ひどく錯乱し、苦しげに呻いている。 「こ、これは! もしかして……」  二人は顔を見合わせた。 「お産が始まるのでは⁉」 「ど、どうすればよいのだ⁉」 「わ、分かりません! お産の事なんて……」 サーシャと、その若い修道士士は慌てふためいた。    燃えさかる炎をくぐり抜け、グレアムは二階へ上がっていった。一階の食堂や台所はおろか、母娘の私室にも、おかみの姿は見当たらなかった。ならば二階の客室に違いない。 「おかみさん!」  ごうごうと渦を巻き始めた炎に負けないよう、グレアムはできる限り大声で叫んだ。そうして聞き耳を立てては、また歩みを進める。 「おかみさん! 返事をしてくれ!」  グレアムはぴたりと足を止めた。 「おかみさん! いるんですか!?」  木のはぜるパチパチという音に混じり、近くの扉から微かな人声が聞こえる。グレアムは扉に駆け寄った。 「ここか!?」  それは客室の並ぶ廊下から枝分かれした細い廊下の、どんづまりにある扉だった。アリアが客に出す酒や食料を、ここから運び出しているのを見た覚えがある。食料貯蔵室になっているのだろう。グレアムは扉に飛びついて取っ手を回した。熱した真鍮の取っ手に掌が痛む。しかし熱で木材が歪んでいるのか、扉は僅かに開いたところで動かなくなってしまった。 「おかみさん!」  手首が通るだけの隙間から、グレアムは室内に向かって呼びかけた。  「た、助け、て……」  弱々しい声が答えた。 「扉が……、開かなくて……」 「今、開ける! 離れていてくれ!」  グレアムは言うが早いか、肩から扉へ激突した。しかし頑丈な扉は大きな音を立てるだけで、びくともしない。グレアムは何度か体当たりを繰り返した。 「くそっ……」  舌打ちして見回せば、火の手が迫っているのは明らかだった。炎は一階から登ってくるらしい。このままでは逃げ場がなくなる。  グレアムは戸口から剣を差し込み、テコの要領で僅かな隙間を広げようと試みた。 「く……っ、」  扉は全く動かない。 「もう――、もう、いいわ! 貴方が逃げられなくなる!」  おかみは扉の隙間から顔をのぞかせ、悲痛な声で叫んだ。 「もう、行ってちょうだい!」 「いや、だ……」  グレアムの声が震えた。 「嫌だあぁ! 母さんっ!!」  剣を引き抜き、再び体当たりを始める。 「絶対に助ける!! 母さん――!!」     サーシャはすっくと立ち上がった。 「サーシャさま⁉ どこへ――」  修道士が言い終わるより早く、サーシャは駆け出していた。そして遠巻きに火事の様子を見守る、村の女性たちの一団に向かう。 「皆さん! 手を貸してほしい。アリアのお産が始まるようなのだ」 「えっ」 「予定は来月だったはずよ」 「火事のショックで早産しかけてるんだわ」  村の女性たちは、ざわめいた。 「頼む。我々だけではお産の事など何も分からない。どうか力を貸してほしい」  皆、黙り込んだ。互いに顔色を探り合う。 「皆さん――」  サーシャはいま一歩進み出た。そして三本の指を胸に当て、もう片方の手でローブの裾をつまみ、深々とお辞儀をした。 「どうか助けて下さい。我は、あの方と赤子を守りたい」  それは聖職者として正式の礼だった。優雅な仕草に、村の女性たちは思わず息を呑む。 「ど、どうして修道士さまがそこまで、アリアのために?」 「我は聖神と聖霊にお仕えする身。アリアも産まれてくる赤子も、そしてここにいる貴女方も皆、大切な聖神の民だからだ」  サーシャは頭を垂れたままで答えた。 「仕方ないねぇ」  女性たちの一人、元気なおかみさんが声を上げた。見れば、村の通りでグレアムに声をかけた、あの母親だ。 「産まれてくる赤子には、何の罪もないよ。――アリアはどこだい!」  サーシャの案内でアリアの元へ駆けつけると、おかみさんは手際良く指示を出し始めた。 「まずはお産のできる場所に運んで。そうね、あそこの納屋でいいわ」 「は、はいっ」  呼ばれてきた若い兵士が慌ててアリアを抱き上げ、近くの納屋へ向かう。 「転ぶんじゃないよ!」 「は、はい!」 「クレア、あんたは産婆さんを呼んどいで」 「はいっ」  クレアと呼ばれた女性が駆け出していった。 「エリザ、司祭さんがその辺にいらっしゃるだろうから、探してちょうだい。教会へ行って、どんどん湯を沸かして運んで。それからきれいな布をたくさん。大きい木桶もね」 「分かったわ!」  何人かが一緒に走っていく。サーシャは目を丸くして、おかみさんを見つめた。 「すごい統率力だ」 「六人も産みましたからね、慣れですよ」  おかみさんは片目をつぶってみせた。  「もう無理よ! どうか――!」  宿のおかみは悲痛な声で訴えた。しかしグレアムは、構わず体当たりを続けている。  微動だにしない扉がまた、大きな音を立てた。 「ああ、どうか……、どうか! 聖霊よ!」  もはやグレアム一人の力では、どうにもならなかった。グレアムは胸の前で震える三本の指を掲げ、それを抱きしめるようにして、祈った。聖神でも聖霊でも誰でもいい、母を助けてくれ、と祈った。  その時だ。 「もう二階まで火が回ってるぜ!」 「無理だぞ、これは!」  階下からの声に、グレアムは顔を上げた。 「ここだ……、ここに……、助け……」  叫ぼうとしたが、声が震えてかすれる。煙を吸い、咳き込んだ。しかしグレアムは、あらん限りの力を振り絞った。 「ここにいる! 手を貸してくれ!」 「グレアム!?」  階下で誰かが答えた。しかし階段はすっかり煙に巻かれ、勇猛果敢な近衛師団といえども、尻ごみするほどの様相だ。 「何か扉を破れる物を! お願いだ、助けてくれ! 手を貸してくれ! 頼むから――」  階下の二班は顔を見合わせた。一人が食堂の暖炉へ手斧を取りにゆく。他の五人もそれぞれ適当な道具を探した。 「――!!」 再び体当たりを始めていたグレアムの肩を、誰かが背後から掴んで止めた。炎をくぐって現れたのは、六人の兵士たちだ。  けたたましい音を立て、斧や鉈が扉に振り下ろされる。 「――――!」  納屋の中から聞こえる叫びは、人声とは思えなかった。男は外に出ていろと追い出されたものの、サーシャは恐ろしさに身動きもできず、納屋の前で立ちつくし震えていた。  またしても、火事場の喧噪に混じって叫び声が響く。ついにサーシャは、へたへたと座りこんでしまった。 「サーシャ‼」  呼び声に振り返れば、こちらへ駆けてくるのはグレアムだ。 「ああ! グレアム! グレアム!」  サーシャは伸ばされた腕に縋った。 「どうした! 大丈夫か⁉」 「アリアが……、」 「今聞いた。お産が始まってるんだろう?」  その時、湯の入った木桶を抱えた年配の女性が、納屋から出てきた。 「様子はどうだ?」  グレアムが尋ねると、額に汗を浮かべたその女性は、湯をあけながらにやりと笑った。 「なあに、平気ですよ。あの娘は若くて健康ですからね。もうじきです」 「そうか……、ありがとう。あの娘の母親は無事だ。伝えてやってくれ」  女性は納屋に戻っていった。アリアに呼びかける声が外まで聞こえる。グレアムは、しがみついて震えているサーシャの背を撫でた。 「聞いただろ。大丈夫だから落ち着けよ」 「だ、だが! あんなに叫んで……」  まさにそう言いかけた時、叫び声が響いた。 「あんなに叫んでいるではないか! アリアが、アリアが死んでしまう‼」  サーシャは必死にグレアムの腕を引いた。溢れる涙が、頬を伝って零れ落ちる。 「サーシャ。お産ってのはこういうもんだ。皆こうやって産まれてくるのさ」  涙に濡れる瞳が、炎の光で輝いた。グレアムは指先で、その涙を拭ってやった。 「そう、なのか……?」 「ああ。だからしっかりしろ、あんたは神子だろう?」  その言葉を聞いた瞬間、まるで子供のように怯えていたサーシャの瞳に、力が宿った。 「そうだ。我は、我にできる事をしなければ……」  サーシャはグレアムの腕を離れ、姿勢を正した。地に跪いたまま胸の前で指を掲げ、抱きしめるようにもう片方の手を添える。 「天にありて地におわす我らの聖霊よ。我、汝らを讃えん。海を越え天駆ける聖霊よ、いと高き聖神に、我の祈りを届けたもう――」  聖伝に記された、祈りの言葉を口ずさむ。グレアムは後ろに引き、その様子を見守った。  そしてどれほど時間が経ったのか。炎で明るい夜空の下、赤子の泣き声が響き渡った。 「修道士さま」  納屋の戸を開けて、女性が一人出てきた。 「ぶ、無事か⁉」  サーシャは勢いよく顔を上げる。 「もちろんですとも。さあ、中に入って、祝福を与えてやって下さいな」  女性は微笑んだ。グレアムは、腰が抜けたようなサーシャの手を引き、立ち上がらせた。  恐るおそる納屋に入ったサーシャは、あちこちに放り出された血まみれの布を見て仰天した。藁の上にシーツを敷いた即席の寝床で、アリアが半身を起こしている。アリアは布でぐるぐる巻きにされた赤子を、宝物のように胸に抱いていた。そこに注がれる眼差しは、まるで聖霊のような慈愛に満ちている。 「修道士さま」  アリアが顔を上げた。 「あ、アリア……」  こういう場合に何と声をかけたものか。サーシャは言葉につまってしまった。 「ええと、その……。ごきげんよう!」  ぴょこんとお辞儀をしたサーシャに、皆一斉に吹き出した。 「修道士さまったら!」 「そうそう、修道士さまったらすっかり慌ててしまって」 「ずっと納屋の外で震えていらっしゃるし」  皆にからかわれ、サーシャは赤面した。 「面目ない」 「さあ、修道士さま。赤ん坊に祝福を」  促され、サーシャはアリアの側へ寄った。 「予定より早いけど、元気な赤ん坊です。こりゃ、丈夫に育ちますよ」  最初に助けを申し出てくれたおかみさんが言った。差し出された赤ん坊を、サーシャはその腕に抱いた。赤ん坊は元気に手足を動かしている。アリアによく似たナッツ色の瞳を、サーシャはしばらく見つめていたが、やがて赤ん坊の額に三本の指を添えて瞼を閉じた。 「天にありて地におわす我らの聖霊よ。汝、我らを祝福し給え。海を越え天駆ける聖霊よ、いと高き聖神に、我らの営みを伝え給え。尊き御名の元に、彼の者を見守り給え。慈愛とその御技をもって、彼を教え導き給え……」  額に口づけると、赤子は身を捩った。サーシャはもう一度、赤子をしかと胸に抱きしめてから、アリアの腕に返そうと差し出した。  その時、グレアムが声をかけた。 「待ってくれ。その……、俺も、抱いてみていいか」  アリアは微笑んで、どうぞ、と言った。グレアムは慣れない手つきで、サーシャの腕から赤子を受け取る。大きな身体で小さな赤子を抱くその様が、どこか不釣り合いで微笑ましく、女性たちは明るく笑った。 「まあ、兵士さんは子供好きなの」 「いい父親になれそうねえ」  陽気な女性たちは口々にそんな事を言いながら、後片付けを始めた。  サーシャは、赤子の頬にそっと触れたグレアムの指先が、微かに震えているのを見た。普段は鋭い光を放つナッツ色の瞳に涙が滲み、骨張った大きな手が、それを拭ったのを見た。  一夜が明けて翌朝は、昨晩の喧噪が嘘のように、静かで穏やかな初春の陽気となった。青く晴れ渡る空の下、すっかり焼け落ちた宿の建物が、すすけた残骸を晒している。それがまた、もの悲しさを誘った。 「始めるぞ、グレアム。お前は右側から回れ。俺は左から行く」  グレアムとザキは火事の原因を調査するために、焼け跡へ来ていた。 「これが神子を狙ったものだとはっきりすれば、俺が将軍に報告し、あの親子が何らかの援助を得られるよう尽力する」 「……ああ」  グレアムの生返事に、ザキは思わず振り向いた。だがグレアムはその視線にも気づかない様子で、ただぼんやりと焼け跡を眺めている。いつもどこか不敵な態度のグレアムが、今日は別人のように力なく肩を落としていた。 「おい!」  ザキは両手を腰に当てて胸を張り、軍人たるものこうあるべしと信じる、威厳に満ちた上官の態度を取った。 「グレアム! 昨夜はお手柄だった。サーシャには怪我一つなかったし、死者が出なかったのもお前のおかげだ」 「俺は……、何ひとつできなかった……」  俯いたまま、グレアムは呟いた。ザキはグレアムに近寄り、そっと肩を叩く。 「グレアム。やはり今日は休んでいろ。怪我だってしてるんだ」  ザキは気遣わしげな眼差しで、シャツからのぞく包帯を見やった。その目線に、グレアムはハッと我に返る。 「大丈夫だ。ここは、俺の手で調べたい」  その断固とした物言いに、ザキは首を傾げたが、黙って頷いた。二人はまだくすぶる瓦礫の中に、用心して踏み込んでいった。  二手に分かれ、ザキは正面左手から作業を始めた。昨日までは庭に面したテラスがあり、たくさんの花の鉢が、小綺麗に並べられていた場所だ。今は見る影もない。  もはや部屋とは呼べなくなった、黒焦げの仕切りで区切られた空間が並ぶ。その一つひとつを、ザキは丹念に調べていった。  まずは食堂。昨夜の陽気な集まりが思い出され、胸が痛む。転がっているひしゃげたワインボトルが、炎の激しさを実感させた。  そして食堂に続く台所。火の元として一番可能性がありそうな場所だ。しかしこの部屋はしっかりと柱が残り、他と比べても被害が少なかった。調理台もほとんど原形を留めたまま燃え残り、そこから火が出た形跡はない。 「調理の火が燃え移ったのではなさそうだ」  ザキは独り言ちた。  柔らかな春風が、半分むき出しの建物を優しく撫でるように吹き抜ける。ふと、きつい香りがザキの鼻をついた。  ザキは廊下に出て匂いの元をたどった。廊下から一段奥まった場所に、物置のような小部屋がある。扉は完全に焼け落ちて、鼻をつく匂いはそこから漏れ出ていた。 「グレアム! こっちだ、来てくれ!」  ザキは大声でグレアムを呼んだ。 グレアムは、ある一室の焼け跡に立っていた。そこは母娘の居間と並んだ客用寝室で、昨日、アリアの夫のために用意された部屋だ。  風上にあたっていたのか、部屋は比較的ましな状態で燃え残っていた。焼け跡を見ただけで、くつろいだ様子がないと分かるほどに。  クローゼットには服の一着もかかっていないし、寝台も寝た様子がなく整っている。客のために用意された時のまま、部屋は炎に晒されたようだった。そして男が持ってきたはずの大きな鞄は、影も形もなかった。  昨夜以降、男は戻っていない。もしや外出したというのは見間違いで、逃げ遅れたのではないかとも思っていたが、遺体は焼け跡のどこにも見当たらなかった。 「…………」  ザキの呼び声に、グレアムは顔を上げた。足元の瓦礫に注意しつつ、建物の反対側へ回る。 「ザキ。何か見つけたか」  小部屋の入り口から声をかけると、背を向けて膝をついていたザキは振り返った。 「見てくれ」 ザキは脇に避けてグレアムを通した。  そこは客用のシーツなど、リネンを一通り収納しておく部屋だった。しかし火元がここなのは一目瞭然という、ひどい焼け方をしている。煤まみれで転がる瓶には、松油が入っていたのだろう、部屋に匂いが充満している。油分を多く含んで燃えやすい松ぼっくりや、松の木片が散らばっていた。そして見覚えのある真鍮製の鞄の取っ手が、僅かに燃え残った革の切れ端をぶら下げたまま、片隅に落ちていた。 「誰かがこの部屋でパイプでも……?」  瓶を拾い上げながらザキが言った。 「匂いのきつい松の燃料を、リネンと一緒にしまったりしない。誰かがこの部屋に持ち込んで、リネンにかけて火をつけたんだ」  グレアムは、鞄の残骸をゆっくりと踏みつけた。その形相に、ザキは思わず唾を呑む。 「許さねえ……」  グレアムの声は震えていた。 「落ち着け、グレアム。あの家族には、できるだけの事をするから――」 「それでも、思い出は戻ってこない!! この家には家族の歴史がつまっていたんだぞ!」  グレアムは声を荒げた。 「グレアム、一体どうした。少し変だぞ」 「…………」 「やはりもう休め。疲れているんだ。調査はこれで充分だから、先に戻っていろ」 「……ああ」  グレアムは充血した目を伏せ、重たい足取りでその場を後にした。ザキはその背中を見送ると、ペンを取り出して、報告書作成のためにメモを取り始めた。 「兵隊さん。昨夜は大変だったわね」  パン屋のおかみが、すれ違いざまグレアムに声をかけた。しかしグレアムは、ろくに返事もせず歩き去る。おかみさんは首を傾げた。 教会に入ると、兵たちが忙しく立ち働いていた。中隊は裏庭を借りて、夜営させてもらう事になっているのだ。宿の母娘も、しばらくはここで世話になる。  グレアムは裏庭へ回った。夜営用のテントを張る兵たちを尻目に、人気のない場所を探す。裏庭の一番奥まで来ると、朽ちかけた木のベンチが一つ、ぽつんと置いてあった。 「グレアム……」  ベンチに座り込むグレアムに、竜が肩の上から不安げに呼びかけた。 「……大丈夫だ。心配するな」  グレアムは手を伸ばし、竜の背を撫でた。 「追うのか? あの男」 「とっくに逃げちまっただろうさ」  竜は肩から下り、グレアムと並んでベンチに座った。革袋から石を一つ取り出すと、グレアムに差し出す。 「……きれいな石、見るか?」  グレアムはそれを見て、力なく微笑んだ。  しばらくの間、竜はじっとそこに座っていたが、急にハッとした様子で顔を上げた。 「なあ、グレアム、あれ!」  見れば竜は、裏庭から続く林の入り口を指差している。小道の乾いた赤土に、いくつかの足跡が残っていたが、その中に、比較的新しいものがあった。

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