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第八章 失ったもの
そこは森というほど深くはない、樹々の生い茂る一帯だった。村の外れにあたり、たまに村人が薪を拾いに入るくらいで、普段はあまり人気のない場所だ。起伏に富んだ地形で見通しがききにくく、昼間でも薄暗い。向こう側に抜ければ、隣町へ続く街道にぶつかる。
――身を潜めるには、絶好の場所だ。
グレアムは、足音を立てないよう用心しながら小道を進んだ。草をかき分け、小高い所を登って下り、藪が密生した場所を迂回して、かなり奥まで分け入った頃、物音が聞こえてきた。足を止めて耳を澄ませば、馬のいななきだ。グレアムは声を頼りに近寄って、茂みの陰から様子をうかがった。
馬は虫の居所が悪いらしく、不平を漏らすように鼻を鳴らす。こちらに背を向けた男が一人、それをなだめようと苦心していた。
「どうどう、」
馬の機嫌を取るのについつい夢中になり、男は背後が疎かになっていた。
「――ッ!」
空気が動いた。男は振り向く前に身を翻す! 瞬間、躍りかかった剣が空を斬った。
「ほう。なかなかいい勘をしてるな」
氷のような声が響く。男の目に映ったのは、悪鬼のような形相のグレアムだった。
「とっくに逃げたと思ったぜ」
「ちッ」
男が舌打ちして抜刀すると同時に、グレアムは踏み込んだ! 甲高い音が響き、次の瞬間、男の剣は弾き飛ばされていた。そのままグレアムは流れるような所作で、男の喉元に剣を突きつける。
「くッ!!」
二人はぴたりと動きを止めて睨み合った。
肌に感じる熱で、男は刃が喉をかすり、血が滲み出ていると悟る。
「利用するために、あの娘に近づいたのか」
重く低い声が尋ねた。
「勘弁してくれ! 俺はただ、金で雇われて――」
「質問に答えろ!!」
どこか常軌を逸した声音に、男は怯んだ。慌てて諸手を挙げる。
「……あの娘には、悪い事をしたと思ってる」
「貴様、よくもぬけぬけと!」
馬が怯えていななく。それが合図のように、男の喉元の刃にゆっくりと力が込められた。
「ヒッ!?」
男は悲鳴まじりの声を上げる。
「ま、待て! 抵抗する気はない!」
しかし相手は、手を緩めようとしない。
男は合点がいかずに戸惑った。相手は神子の護衛として雇われた人間だ。刺客を捕らえ、雇い主に引き渡すのが筋だ。しかしこの相手の瞳には今、殺意がみなぎっている。
「あんた何考えてんだ!? どうして……」
たとえ罪人相手でも、人を殺せば殺人罪になる。しかも神子暗殺計画の証人を、法の手に委ねず抹殺したとなれば、重い罪に問われるのは確実だ。
「そんな事して何になる!?」
「多少は、気が、晴れるさ……」
ぞっとするほど、静かで落ち着いた声音だった。じわじわと喉元へ迫り来る恐怖に、男はどうにか言い逃れようと、必死になって言葉を紡いだ。
「あ、あんた、捕まるぞ!?」
「捕まらねえさ。忘れられるからな」
「は……?」
「何をしようが、俺は自由なのさ――」
口元からのぞく白い歯。男は、自分が獣に食われる寸前のウサギのようだと思った。
「よくも――、俺の妹に!!」
グレアムは身を乗り出した。指の腹が白くなるほど強く、剣の柄を握りしめる。
「ひぃ……っ!!」
「よせ! グレアム!」
小さな太陽が、グレアムの視界を横切った。
「グレアム! だめだ!」
竜が身を翻して宙を舞い、男の頭にふわりと下りた。小さな両腕を、通せんぼをするように広げ、つぶらな瞳でグレアムを睨みつける。
「だめだ、グレアム。そんな風になっちまったら――、だめだ!!」
「…………」
グレアムは、幽霊にでも会ったような顔で立ちつくした。身体が激しく震え始める。
男はこの機会を逃さなかった。素早く身体を引いて刃から逃れ、こけつまろびつ駆け出す。馬に飛び乗って樹々の間に消える姿を、グレアムはただ見送った。追う気にはなれなかった。どのみち、足が震えて走れそうにない。
「……俺は」
「グレアム」
竜はグレアムの肩に乗った。
「隊長に報告して、後は任せよう」
「……ああ」
いつものように撫でてはくれないグレアムに、竜はそっと頬ずりした。
報告を受けたザキは、すぐに地方保安部隊へ通達し、街道筋に網を張るよう手配した。
「捕らえていれば、何か聞き出せたかもしれない。俺の失態だ」
グレアムはザキに頭を下げた。
「気にするな。どうせこれまで捕らえた者たちと同じで、何も知らないだろう。レスコフ派も、名が出ないようにしているはずだ」
「しかし、俺が取り逃がしたのは事実だ。いったん教会に戻って、応援を呼ぶべきだった。その……、契約を解除されても、仕方がないと思っている……」
項垂れるグレアムに、ザキは目を見張った。
「あんたはサーシャの勢いに押されて、仕方なく仕事を引き受けたと思っていたが。今の言い方だと、この仕事にずいぶん積極的なように聞こえるな」
「――! そ、それは、」
グレアムは動揺した。ザキの言う通りだった。どうせ一月の間だけ。単なる仕事。そう己に言い聞かせながらもグレアムは、いつの間にか、あのサーシャが聖都の聖霊神殿に入り、就任式で聖霊のティアラを頭上に戴く姿をこの目で見届けたいと――、そう願い始めていた。
「契約解除は考えていないから、安心しろ」
ザキは言った。
「今あんたを解雇したら、兵の士気が下がる」
「え?」
グレアムは戸惑った。
「二班の連中はお喋り揃いだからな。あんたの活躍は、あいつらが触れ回っているぞ。とっつきにくい奴と思っていたようだが、昨夜は自分たちに助けを求めてくれたと、連中は喜んでいた」
「あ……」
誰と親しくなった所で、どうせ一月が過ぎれば忘れ去られてしまう。なるべく人と関わらずにいる事は、いつしかグレアムの習慣となっていた。しかし仲間の輪に入ろうとしないグレアムを、兵たちは気にかけていたのだった。
人に助けを求めたのなど、何年ぶりの事だろう。グレアムの渇いた心に、清浄な水が一滴、したたり落ちた。
「この先の道中も、聖都までよろしく頼む」
ザキの言葉に、グレアムは頷いた。
「グレアムさん!」
扉を開け放した部屋の前を通りかかると、中から宿のおかみがグレアムに声をかけた。
「お昼ができたので、探してたんですよ」
そこは教会の小さな食堂で、何人かの兵士が遅い昼食をとっていた。
「お腹空いたでしょう。さあ、どうぞ」
おかみは席を用意し、湯気の立つスープを給仕してくれた。温かいスープが胃に落ちて初めて、グレアムは空腹だった事に気づく。
「あの……、おかみさん」
グレアムは、気まずく話を切り出した。
「なあに?」
「昨日はすみません。その、動転していたもので、おかしな事を口走ってしまって……」
訝しく思われたはずだ。どうにかごまかさなければいけない。
「まあ」
おかみさんは少しの間考えている風だったが、ふと、労るような声でグレアムに尋ねた。
「貴方は……、お母さんを亡くしているのかしら?」
「え? ええ、まあ……。その……」
「そうだったのね。お気の毒に」
注がれる優しい眼差しに、グレアムは唇を噛みしめた。
おかみはくるくるとよく働く。その様子を眺めつつ、グレアムはスープを口に運んだ。優しい味のスープを一皿食べ終えると、満腹感と、身体の力が抜けるような安心感に満たされる。やがてグレアムは決心したように息をつき、おかみに尋ねた。
「おかみさん、アリアはどうしてますか? その、ちょっと話が……」
おかみの表情に、影が落ちる。
「……まだ休んでますけど、ええ、元気ですよ。そうだ。グレアムさん、よければお茶を運んでやってくれますか?」
「ああ。俺が持って行こう」
グレアムはトレイに茶の一式を載せて菓子を添え、アリアが休んでいる部屋に向かった。
辛い事を、伝えねばならない。
夫の行方に気を揉んでいるだろう。黙っていても、それはそれで辛い想いをする。グレアムは深呼吸して、扉をノックした。
「どうぞ」
部屋に入ると、ベッドに半身を起こして赤ん坊と戯れていたアリアは、その表情のままでグレアムを見た。
「アリア。お茶にしないか」
「まあ、ありがとうございます」
ベッドの側にテーブルを寄せて座り、温かい紅茶を飲みながら菓子をつまむ。グレアムは時々赤子の顔を盗み見ては、赤子に見つめ返されると慌てて目を逸らした。しかし気づけばまた眺めている。アリアは笑った。
「グレアムさんは、赤ちゃんが好きなのね」
「え、いや……、まあ、その」
グレアムは頬を染め、紅茶を口に運ぶ。アリアがふと、真剣な顔をした。
「グレアムさん。昨夜は本当にありがとうございました」
「いや。元はと言えば、俺たちが逗留したのが原因だ。――話を聞いたか?」
「ええ」
アリアは眉を寄せた。
「尊い神子さまを、暗殺しようだなんて。恐ろしいことを」
「それで、だな。その……、実は……!」
言ってしまわなければ。グレアムは身を乗り出した。しかし、
「グレアムさん」
アリアが強い口調でグレアムを遮った。
「いいんです、仰らなくても。なんとなく、分かっていました」
「あ、アリア……?」
アリアは瞳にうっすらと涙を浮かべたが、幼い少女のような手つきで、それをぐいと拭った。そうして無理に笑ってみせる。
「グレアムさんたちのおかげで、母は無事でした。村の人が助けてくれて、赤ちゃんも元気に産まれてきました。それで充分です。家族三人で、幸せに暮らしていけるわ」
「アリア……」
「あの修道士さまが、赤ちゃんが生まれるまでずっと、お祈りを捧げて下さったと聞きました。私、嬉しくて。色々あったけど、聖霊さまがこの子の誕生を祝福して下さった、と思えるんです。だから、私は大丈夫です」
アリアは頭を上げ、真っ直ぐに前を見つめる。グレアムはそんなアリアに目を細めた。
夜を過ごすテントの中で、グレアムは何度目かの寝返りを打った。隣では竜がぐっすりと眠っている。兵士たちの微かな寝息や鼾が聞こえる。見張りの交代に行く誰かの足音が、テントの側を通り過ぎていった。グレアムは闇の中で目を開けて、虚空を見つめていた。
竜がむにゃむにゃと寝言を言った。グレアムは微笑を浮かべて寝床から抜け出すと、包帯だらけの身体にシャツを引っかけ外へ出た。地に落ちる自分の影に、ふと夜空を見上げれば、半分よりやや欠けた月がそこに浮かんでいる。
グレアムは教会の前庭へと向かった。礼拝堂の入り口に立ち、躊躇いつつ、古ぼけた両開きの扉を押す。扉は迷い人を受け入れるかのように、ゆっくりと開いた。
ひんやりした堂内の空気は、懐かしい、古い木の匂いがした。その香りを胸に吸い込んで足を踏み出したグレアムは、刹那、驚いて歩みを止めた。
――聖霊がいる!
礼拝堂の中は、祭壇の脇に燭台が一つだけ灯されていた。薄明かりの中、こちらに背を向けて跪く姿があった。その背には聖伝にある聖霊の絵と同じ、半透明の翼が、窓からの月光を受けて金色に輝いている。
グレアムは思わず息を止めた。人に見られていると気づけば、聖霊はその翼を広げ、飛び去ってしまうに違いない。
金色の翼がさらりと動く。こちらを振り向いた聖霊は――、サーシャだった。翼と思ったのは、背に流れる豊かな金髪だ。
「どうした、グレアム。こんな夜更けに」
深夜の静かな礼拝堂で、サーシャのよく通る声が、入口にいるグレアムの耳まで届いた。
「あ、あんたこそ……、何してるんだ」
「うん。アリアたちに聖霊の加護があるよう、祈りを捧げていた」
それがサーシャと分かってもなお、グレアムの心からは、何か神々しく、尊く、美しいものを見たという感覚が消えなかった。
「眠れないなら、ここで一緒に祈ると良い」
祭壇前のサーシャは身体を少しずらして、自分の隣にグレアムの場所を作った。
しかしグレアムは、顔を背けた。
「俺は、祈らない」
「なぜだ?」
「俺は聖神も聖霊も信じない。聖霊が、俺に何をしてくれるっていうんだ」
吐き捨てられたグレアムの言葉に、サーシャはすっくと立ち上がった。
「聖霊は、お前を見守っていてくれる」
「ハッ」
グレアムは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「嘘だ。もし本当に聖神や聖霊がいるなら――、奇跡でも起こしてみせろってんだ」
「聖霊は奇跡など起こさない」
サーシャはきっぱりと言った。
「な……っ」
「聖霊は願いを叶えてくれる魔法使いではないのだ。奇跡を起こすのは、人だ」
「どんな奇跡を起こせって言うんだ、俺に!? そんな事ができるなら――!」
グレアムは頭を振った。まるで、見えない何かから逃れようとするように。
「お前が何を成し、どのように奇跡を起こすのか。聖霊は、それを見守っている」
「俺は……、信じない」
「それならどうしてここへ来た?」
「――!!」
返す言葉がなく、グレアムは息をのんだ。
来るつもりなどなかった。しかしグレアムの足は、自然に礼拝堂へと向かっていた。幼い頃、母と一緒に通った礼拝堂へ。なんでもない日常の中にあった場所。グレアムはそこへ、懺悔をしに来たのだった。
「俺、は……」
グレアムは罪人のように肩を落とした。
「ここへ来い、グレアム」
祭壇に掲げられた聖霊像の前で、サーシャが白い手を差し伸べてグレアムを招く。
「さあ」
誘われるがままにふらふらと、グレアムは幽霊のような足取りで歩いていった。両側に椅子が並ぶ通路の向こうで、サーシャが両手を広げ、グレアムを待っている。
「サーシャ……」
グレアムはサーシャの前に跪いた。
「俺は怖いんだ、サーシャ。俺は俺の良心すら、なくしかけている……」
グレアムは怯えていた。記憶を反芻するようにあの瞬間を思い出すと、震えが止まらなかった。任務や大義のためでなく、自らの心を満たすためだけに、喜々として人を殺めようとした自分が、恐ろしくてたまらなかった。
人の営みからはじき出され、時の流れに取り残され、孤独に流離ううちに少しずつ、人間らしさを失っているのだと、グレアムは感じずにはいられなかった。
「グレアム」
サーシャがグレアムの肩に手を置き、静かな声で語りかけた。
「人とは、混沌としたものだな、グレアム」
サーシャの特徴ある声が、不思議な音調で響く。
「これほど強いお前ですら、こうして苦しむ事もある。皆してアリアに辛くあたっていたかと思えば、ひとつきっかけがあれば手を差し伸べる。火をつけた男は、アリアと赤子が気がかりで、逃げずに留まっていたのかもしれない」
サーシャは優しくグレアムの髪を撫でた。グレアムの身体が震える。まるで、慈悲深い裁きの手が伸びたように思えたのだ。
しかし、サーシャは言った。
「人は、なんと美しいのだろうか」
「え……?」
グレアムは思わず顔を上げた。
「誰しも混沌とした心を抱え、精一杯、大切なものを守っている。ささやかな居場所。己の信念。愛する者――。皆、なんと逞しく、美しいのだろう」
「『美しい』……?」
「そうだとも。生きているものはただそれだけで、うつくしいではないか。例えその営みが、辛く苦しいものであろうとも」
「…………」
「我はこの旅の道中、ずっと考えている。神子の存在の、意味を。それが少しだけ、分かってきたように思う」
「神子の――、意味?」
「そうだ。人の世は、おとぎ話のような夢の国ではないと、我にも分かってきた。だが人はそんなこの世にあって、奇跡を起こす事もできるのだ。幸福に暮らす、という奇跡を」
「…………」
「お産の無事を聖霊に祈った事を、アリアはとても喜んでくれた。奇跡を起こすのはたやすい事ではない。しかし誰かが見守っていてくれれば、人はもっとずっと、強くなれるのではないだろうか?」
サーシャは救いを求めて彷徨うグレアムの手を、自らの両手でしかと握った。
「聖霊に届かぬ者がいれば、神子がその者と聖霊を繋ぐのだ。お前が聖神も聖霊も信じられないと言うのなら、我がいよう。我がお前を見守り、いずれは聖霊に届くよう導こう。……それとも、我の事も信じられないか?」
しばらくの間、グレアムは呆けたようにサーシャを見つめていた。
「あんたが……」
かすれた声で呟くと、白い手の甲に口づけを落とす。
「あんたが俺を、見守っていてくれるなら。俺はそれに恥じないよう、自分を律する事ができる」
グレアムは、もはや聖神も聖霊も信じない。しかし、聖霊の代わりにサーシャがいてくれる。それが馬鹿馬鹿しい嘘でも気休めでも、幻でも構わないとグレアムは思った。そんな夢を、信じていたいと願った。
サーシャが己の、なくした心になってくれるのだ。
「さっき礼拝堂に入った時、あんたの姿が聖霊に見えた。だが、あんたが本物の聖霊でなくて良かった」
グレアムは微笑んだ。
「なぜだ?」
「この、手が――、」
グレアムは白い手に頬を寄せる。
「ここに、温かい手がある。それはあんたが、人の子として生を受けたからだ。俺は聖霊より、こうして触れられるあんたの方がいい」
サーシャは身をかがめてグレアムの額に口づけた。その途端グレアムは腕を伸ばし、サーシャの身体を強くかき抱いた。
「――!!」
「サーシャ……」
グレアムはサーシャを横抱きに抱き上げた。
「グレアム?」
グレアムは祭壇前の、柔らかい敷物の上にサーシャを下ろした。供え物の花々に囲まれ、ステンドグラスを通して差し込む月光に照らされたサーシャは、聖霊よりも清らかで美しいとグレアムは思った。
「聖霊は、お怒りになるだろうか? 俺が神子に触れたりしたら」
グレアムの手がサーシャの頬を撫でる。
「そんな事はない。聖霊は、人の行う営みを祝福して下さる」
サーシャは言った。
「ならば今、俺にも、祝福が欲しい」
グレアムはサーシャに口づけた。
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