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第十二章 裏通り
「サーシャさま。今日は外へお出かけになっても構いませんよ」
風呂で「恋愛ごっこ」をした翌日。昼食の後で退屈している様子のサーシャに、ミラン中尉が声をかけた。
街に着いた当初はあんなにはしゃいでいたのに、その後塞ぎこんで出かけようともしなくなってしまった神子さまを、彼なりに心配していたのだった。
「あまり、外出する気分では……」
「広場でサーカスをやっているそうですよ」
三人の幼い息子を持つ父でもあるミラン中尉は、子供の気を引く要領で、サーカスのチラシをサーシャの目の前で振ってみせた。
「サーカス?」
曇っていたサーシャの表情が輝いた。チラシを手にしてみると、恐ろしげな猛獣や派手な衣装の人々など、心誘う絵が描かれている。
「大評判のようです。グレアムに護衛をさせるので、ご覧になってみては?」
ミラン中尉の言葉通り、サーカスは大盛況だった。珍しい動物が次から次へと登場し、可愛らしい芸を披露する。華やかな衣装をまとう芸人たちの、とても人間とは思えない妙技に観客が湧く。空中ブランコなど、サーシャは固唾を呑んで見守るばかりだった。道化師の玉乗りには感嘆すると同時に、滑稽な動きに大笑いした。
人間と獣が息を合わせる見事な曲芸と、織りなす夢幻のような雰囲気に、サーシャもいつしか我を忘れて大きな拍手を送っていた。
やがてテントの中がいったん暗くなった。どうやら花形の登場らしい。
静まり返るテントの中、観客は固唾を呑んで待った。突然、舞台脇の大きな燭台に火が灯されたかと思うと、その明かりに照らされて、豊かな金茶色の毛の獣が姿を現した。
「おおっ!」
サーシャは目を見張る。
それは見た事もない獣だった。北の森林地帯で見られる虎に似ていたが、首の周りがふさふさしたたてがみで覆われている。
サーシャは、隣に座るグレアムの横顔を盗み見た。獣の威風堂々たる様と、ダークブロンドの髪のようなたてがみが、グレアムを連想させたのだ。勇猛でありながらどこか優しげな瞳も、グレアムに似ている。
舞台袖から男が登場し、獣に声をかけた。すると獣は大きな体躯を観客に見せびらかすように、後ろ足で立ち上がった。ゆうにサーシャの身長の倍はある。前足には大きな爪が、そして口元からは恐ろしい牙がのぞき、明かりを受けて白く輝いている。
「あ、あれは……。大丈夫なのか、あの男は? 食われてしまうのでは?」
サーシャはおろおろとグレアムに尋ねた。
「大丈夫だ。調教師はあれが幼獣の頃から一緒に暮らして、訓練を積んでいるんだ」
「そう……なのか……?」
サーシャは不安を拭えず、身を乗り出して舞台に見入った。
獣は調教師の命令に従って観客にお辞儀をしてみせ、曲芸が始まった。燃えさかる火の輪をくぐってみせたり、縄跳びを跳んでみせたり、目を離す暇もない。調教師を背に乗せて走り回った時には、そのしなやかな身体の美しさに、サーシャは感嘆のため息をついた。そうかと思うと、獣はおどけた仕草で観客を笑わせたりもする。子猫のように腹を出して転がり、先ほどまでの猛々しさとはうって変わって、愛らしい姿を見せたりもした。
全ての演目が終わっても、サーシャは心ここにあらずといった風で、しばらく椅子から立ち上がる事ができなかった。
「楽しかったか?」
グレアムの問いかけに、
「素晴らしかった……」
と呟き、宙を見つめている。
「人と獣が、あれほど信頼し合えるものだとは」
サーシャはようやく我に返り、グレアムの顔を見て微笑んだ。
テントを出るとみやげ物を売る露店があった。サーシャはふと、小さな真鍮の置物に目を留めた。それは、あのたてがみのある獣だ。
「ライオンが気に入ったみたいだな」
サーシャが置物を手に取ると、グレアムは言った。
「あの獣は、ライオンというのか?」
「そうだ。ずっと南の方から来た動物だ」
「ほう……」
サーシャは手の中のライオンを見つめた。これにも立派な真鍮のたてがみがついている。
「こいつはいくらだ?」
グレアムが店主に声をかけた。
「グレアム?」
「……買ってやるよ」
グレアムは目を逸らし、店主に金を払った。
「よいのか⁉」
「そんなにじっと見てられたら、気になるだろうが。……まあ、ちょっとした記念品だ」
サーシャの顔が輝いた。
「ありがとう、グレアム。――あっ!」
「ん?」
「これはつまり……、『デート』だな⁉」
「はぁ⁉ どこでそんな言葉覚えたんだ?」
「この前、アリアに贈り物をしていただろう。あの時、隊の兵士が教えてくれた」
「ああ……、あれか……」
「グレアムと我もデートをしたのだな」
「ええと、まあ……、何でもいいさ」
グレアムは心なしか頬を赤くして、前髪をかき上げた。
「さて、と。何か食いにでも……」
グレアムが言いかけた時だ。サーシャが急に、辺りをきょろきょろと見回した。
「どうした、サーシャ」
「歌が聞こえる」
「歌?」
グレアムが耳を澄ますと確かに、耳慣れない弦楽器の音色と歌声が聞こえてくる。
「大道芸人でも歌ってるんだろう」
「いいや。これは――、『聖霊の歌』だ」
サーシャが言った。
「聖霊の歌?」
「聖歌の一つで、聖霊の神子が祭事で歌う。神子にしか伝えられていないはずなのだが」
「裏通りの方から聞こえてくるみたいだな」
歌に誘われ、サーシャは近くの脇道に足を踏み入れた。グレアムも慌てて後を追う。曲がりくねった細い道を進むと、開けた場所に出た。広場というにはこぢんまりした一角で、どうやら共同の水汲み場らしい。
歌声の主はそこにいた。聖職者の衣装に身を包む、初老の男だ。灰色がかった頭髪に、血色の良い頬。小柄な身体に似合わぬ朗々とした声を張り上げ、片隅で一人、歌っている。胸元に抱えた不思議な楽器の弦を弾くたび、素朴で憂いのある音が辺りに響いた。
「あれは――」
サーシャはふらふらと、男の前まで歩いていった。男は一心に音楽を奏でている。通行人は一瞥をくれて立ち去るだけで、足を止め歌を聴く者はない。しかし男はそれを気にかける様子もなく、ただ堂々と歌っていた。
一曲が終わると、サーシャは黙って次の曲を待った。男はサーシャに気づいた風だったが、夢見るように天を仰ぎ、次の曲を歌い始めた。蝶のように舞うその手も、休みなく音楽を刻み続ける。
どのくらいの間、聴いていたのか。やがて男は歌を終え、初めてサーシャを見た。吸い込まれそうな漆黒の瞳が、理知的な光を湛え、サーシャを見つめている。
「なぜ……」
サーシャは、かすれた声で尋ねた。
「なぜ貴方は、この街で聖歌を歌うのですか……? 誰も、聴く者などいないのに……」
「分かりませんか?」
男の口元に、柔和な笑みが浮かんだ。
「…………?」
サーシャは、この男は無駄な事をしている、と思った。この街の人々にとって、聖教は暮らしの妨げだ。聖伝の教えにも聖歌にも、耳を傾けはしないだろう。だが政治の問題は神子の範疇外で、自分には何もできない。ここ数日の間に、サーシャはそう結論づけていた。
「お忘れですか」
男は、その指先で天を指し示した。
「聖霊が、私を見ているからですよ」
「――――!!」
サーシャは雷に打たれたように立ち竦んだ。
「街に逗留されている修道士さまですね。噂で聞きました。私はこの街の聖教会司祭で、オーヴェルと申します」
司祭のオーヴェルは胸に三本の指を当て、深々と礼をした。サーシャも慌てて名乗り、同じように礼を返す。
その時、貧しい身なりの男が通りかかった。グレアムはさり気なく、一歩前に出る。だが男は三人に目もくれず歩き去り、グレアムは肩の力を抜いた。
「そう構えずとも大丈夫ですよ」
オーヴェル司祭はグレアムに言った。グレアムは先ほどから剣の柄に手を置いたまま、油断なく辺りを警戒していたのだった。
「ですが司祭様、お一人でこんな場所にいらしては、危ないのでは?」
グレアムの言葉に、サーシャはハッとして辺りを見回した。
今までサーシャがこの街で見てきたのは、表通りだけだった。大勢の人や物が行き交う、活気に満ちた大通り。人々は華やかに着飾り、石畳や街路樹は手入れが行き届いて美しい。街は、繁栄と豊かさを欲しいままにしているように見えた。
しかしいったん裏通りに入ると、その様相は一変した。狭く曲がりくねった通りには、みすぼらしい小さな家々が立ち並ぶ。石畳は傷んで所々欠けている。まばらな通行人は表情が暗く、薄汚れた身なりをしている。今も目つきの悪い男が、通りすがりに三人を一瞥していった。
「大丈夫。こう見えても治安は良いのです」
不安げな顔のサーシャを安心させるように、オーヴェル司祭は言った。
「表通りなら、美しく整えられているのに。司祭どのはなぜ、このような場所で?」
「表面だけを眺めていては、見えないものがあるからですよ」
オーヴェル司祭は微笑んだ。
「見えないもの?」
「活気ある表通りと対照的な、荒れて寂しい裏通り。まるで、この街の人々のようです」
「この裏通りが? 街の人々?」
サーシャは司祭の言葉に合点がいかず、首を傾げた。
「そうは思えないでしょうね。この街の人は皆、表向きは陽気にふるまいますから。そう、ちょうどあの、華やかな表通りのように。しかし心の底には、孤独と不安を抱えています。国家に取り残されて行くあてのない自分たちを、はぐれ者だと感じているのです」
「この街の、人々が?」
サーシャは改めて裏通りを見回した。仕事の帰りか、疲れた表情の女性が脇をすり抜けていった。道端の子供たちが司祭に手を振る。顔見知りらしく、司祭も手を振り返す。
「明るい表面の裏側で、この街の人々ほど、誰かに見守っていてほしい、見捨てられていない、孤独ではないと感じたい、そう願っている人々はいないのです」
オーヴェル司祭は言った。
「聖教のために疎外された人々こそが、誰よりも、聖霊の加護を必要としているのです」
宿への帰り道、サーシャは言葉少なに歩いていた。肩を並べるグレアムの横顔を、そっと見上げる。
心に浮かぶのは、あの――、「恋愛ごっこ」をした時の事だ。
サーシャはいつも超然とした態度のグレアムを、強い男なのだと思っていた。しかしあの時グレアムが見せた慟哭、弱さ、悲しみ。それはグレアムの、いわば裏側の真実だった。
ならばオーヴェル司祭の言う通り、この街の人々にも、裏側の姿があるのかもしれない。表面を見ているだけでは、気づけなかったのだ。
――だが……。
サーシャの足が止まった。
あの時グレアムには、自分の手と肌の温もりで、一時だけ救いを与える事ができた。だがそれは束の間の安らぎに過ぎないし、第一そんなやり方では、神子として多くの人々を聖霊の元へ導く事はできない。あれは本当に、ただの『ごっこ』に過ぎなかった。グレアムの言う通りだと、サーシャは思った。あんなもので人は救えない。
「サーシャ?」
立ち止まってぼんやりしたままのサーシャに、グレアムが声をかけた。
「どうした、サーシャ」
「我は――、」
サーシャは肩を落として呟いた。
「我は幼い頃から、歌い祈るのが神子の仕事だと言われ、多くの聖歌や祈りの句を覚えてきた。だが今日、気づいてしまった。我の歌とオーヴェル司祭の歌には、なんという隔たりがあるのだろう。我は本当に、聖伝の教えを理解していたのだろうか。ただ言われるがままに、心のない空っぽの歌を歌い、形だけの祈りを捧げていたのではないだろうか」
「サーシャ……」
グレアムは言葉を探したが、うまい励ましの言葉が見つからなかった。
「我は、甘えていたのだと思う」
サーシャは言った。
「え?」
「神子としての我と、一人の人間としての我。お前にそう言われた時、我には理解できなかった。それは我が、与えられた立場について考える事もせず、ただ受け入れただけという証拠だ。我は己自身というものを持たず、神子の務めに身を捧げ、その見返りに人々から愛され必要とされる事を期待していたのだ」
「サーシャ……、それは……」
グレアムは、サーシャの髪を撫でて慰めようと手を伸ばした。ところがその時、サーシャはきりりと頭を上げた。
「我は今改めて、我自身の意思で行動しようと思う」
サーシャの双眸に強い光が宿っている。サーシャを子供のように扱おうとしていた、グレアムの指先が戸惑った。
「サーシャ。何をする気なんだ?」
サーシャは力強く歩き出した。
「すべき事もその手段も、いつも目の前にあったのだ」
翌日の夜、待っていた本隊が到着すると、サーシャは長い時間をかけてザキを説得した。
「だめだ!」
話を聞き終わる前に、ザキは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「サーシャ、お前は狙われてるんだぞ!」
「しかし『影武者の影武者』作戦のおかげで、敵はまだ我の正体を掴んでいない」
「だからといって、用心しなくていいわけじゃない!」
フェスティバルのため、街の中央広場に設えられた野外ステージ。サーシャはそこで歌う事を思いついたのだった。
「この街の人々に、見守ってくれる聖霊の存在を感じて欲しいのだ。言葉で説明してもだめだ。歌にして、聴いてもらいたいのだ」
「布教活動は、お前が自分で計画する事じゃない。必要に応じて聖教会から要請がある」
「我は、己の意思でやりたいと言っている」
「護衛の責任者として許可できない!」
ザキの大声に、サーシャは口をつぐんだ。
「…………」
「さ、サーシャ」
俯いてしまったサーシャに、ザキは少しきつく言い過ぎたかと、顔をのぞき込む。
「…………」
サーシャは上目使いにザキを見た。
「そ、そんな顔しても、だめだからな」
「お前はいつも、我に反対ばかりする……」
「それは! お前の身を案じて――!」
「分かっている。我は世間知らずの無力な子供も同然だからな。さぞや心配な事だろう」
「な、なにもそこまで」
「だがもう二度と、こんな機会はないのであろうな。聖霊神殿に入った後は……」
「そ、そんな事は……ない……」
「思えば幼なじみのお前には、いつも世話をかけてきた……」
「さ、サーシャ、」
「お前に我儘を言うのも、これで最後か」
サーシャは装束の袖で目元を覆った。
「…………」
「…………」
「ああもう! 分かったよ!」
ザキは降参の印に諸手を上げた。
「分かった分かった! 好きにしろ!」
「おお、そうか!」
途端にサーシャは、満面の笑顔でザキの首筋に腕を回した。
「お前はいつも、我の一番の理解者だ!」
そう言って頬にキスをする。
「そ、その代わり! 充分に注意するんだぞ! 分かったか!?」
「分かった」
サーシャは真面目な顔で頷いた。ザキはため息を一つつく。
「それじゃ、各方面への連絡と準備を――」
「実はもうオーヴェル司祭に頼んで、野外ステージを使えるよう手配してもらった」
「なっ!!」
にこにこと笑うサーシャに毒気を抜かれ、ザキはがっくりと肩を落とした。
「情報提供、感謝します」
若者は、些か興奮気味の声音で言った。相手の男は黙って頷く。
裏通りの一角、一見どこにでもある普通の酒場。だがここはいつの頃からか、街の反聖教派のたまり場となっていた。今夜は奥の席で、若者と黒服の男が何やら話し込んでいる。
「フェスティバルで聖歌を歌おうなんてね」
若者がいまいましげに吐き捨てた。黒い服の男は、重々しく口を開く。
「だが、君たちにとってはまたとない好機だ。計画が成功すれば、聖教会の権威に泥を塗れる」
「うまくやってみせますよ」
若者はにやりと笑った。黒服の男は静かに杯を傾ける。
「我々は表だって動けないものでね。こうして、陰で援助する事しかできないが」
「あなた方の事は、決して口外しません」
若者は一途な表情で、眉をきりりと上げた。
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