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第十三章 聖霊の歌

 フェスティバル最終日。中央広場の野外ステージでは、様々な演し物が次々と登場していた。街は大変な人出で賑わい、時間が経つにつれ、さらに多くの人が広場につめかける。 「なんか、緊張するな!」  出番を待つ舞台袖で、竜は用意してもらった衣装に身を包み、鏡の前でくるくる回った。今日は聖歌隊に加わってほしいとサーシャに頼まれ、舞台に立つ事になったのだ。人の姿だが尻尾はそのままで、魔族だとすぐ分かる。 「魔族代表、ってわけだな!」  はしゃぐ竜の衣装を整えてやりながら、サーシャは言った。 「人も魔族も異民族も、聖教徒もそうでない者も、皆が一緒に音楽を奏でるのを、街の人々に見せたいのだ。そして、聖伝の教えは何者も疎外する事はないのだと、知ってほしい」  オーヴェル司祭があちこちに声をかけ、即席の聖歌隊と楽団を結成してくれた。オーヴェル司祭の元に通う数少ない信徒もいるし、司祭の友人や近所の人々など、聖教徒でない者もいる。他の国からこの街に来たばかりの者や、南方の異民族もいる。様々な人々が交ざり合う、ごちゃまぜの音楽隊だ。とてもこの街らしい、とオーヴェル司祭は言った。  やがて陽も傾き、広場の熱気は最高潮に達していた。人々はフェスティバルの最後を楽しみ尽くそうと、ステージの前に押し寄せる。 「何事も、ないといいが」  舞台正面、ひしめく人々の最前列で警備につくグレアムは、どこか不安げに呟いた。しかし隣のザキはかぶりを振った。 「サーシャにはああ言ったが、大丈夫だろう。レスコフ派は、歌うのはただの修道士だと思っているはずだ」 「どうも嫌な予感がしてな」 「俺がむしろ気がかりなのは、街の住人だ」  ザキは広場にひしめく群衆に目をやった。ここからだと人々の頭が、まるで波のようにうねって見える。これだけの人数だ、一度混乱が起きればたやすく暴動に繋がるだろう。  突然、頭上で大きな爆発音が響いた! 二人は素早く剣の柄に手をかけて見上げる。  夕暮れの空いっぱいに、鮮やかな光の花が咲いていた。人々がワッと歓声を上げる。 「なんだ、花火か……」  ザキは肩の力を抜いた。  次々と打ち上げられる花火に、人々の興奮はますます高まった。この国の民は花火が大好きだ。侵略戦争の歴史がないため火薬の技術研究が遅れていて、火薬は非常に貴重で高価だった。なので人々が花火を楽しめるのは、こういった大きなフェスティバルや王室の式典など、特別な日だけなのだ。 ステージではサーシャたちの出番が近づいていた。楽団員はそれぞれの楽器を手に舞台へ上がり、音合わせを始めている。だが警備に当たるグレアムは、街の人々の興ざめした顔を目の当たりにし、内心穏やかでなかった。  サーシャの考えは分かる。聖教の教えに人々を迫害する意図はないと示して、敵意を和らげてもらおうというのだろう。  しかしグレアムには、たかが音楽で、聖教に対する人々の反発が変わるとは思えなかった。サーシャの一途さには好感を持っているが、やはりサーシャは世間知らずで考えが甘いと感じた。そして――、だからこそ守ってやらねば、とも思った。  やがて音合わせも終わり、聖歌隊が配置についた。そしてサーシャが静々と、舞台袖から歩み出る。反対側の袖からは、竜がギクシャクした足取りで出てきた。まばらな拍手。ザキは我が事のように、はらはらとして見守った。 「ザキ。舞台を見ていてどうする」 「そ、そうだな!」  ザキは慌てて舞台に背を向けた。グレアムから少し離れ、自分の持ち場につく。  舞台上ではサーシャと竜が、互いにゆっくりと近づいてゆく。やがて二人は舞台中央で出会い、手を取り合って正面を向いた。伝統ある聖教会の修道士と魔族が並び立つ姿に、人々はどよめいた。 ――なるほど。確かにこれは今しかできない。  肩越しにちらりと振り返ったザキは、サーシャの思惑に勘づいた。  聖霊の神子として、公式にこれを行うのは不可能だ。聖教会は、魔族と友好を結ぶ事に反対の立場を取っている。今日の事は後で聖教会上層部に伝わり、サーシャは大目玉を食うだろう。しかし神子という立場の重要性から、反省を促す以上の処分はないはずだ。聖教会としても、表向きは、「一介の修道士が独断で行った」として事を収められる。  狙われる身でありながら舞台に立つなど無謀と思ったが、サーシャにはそういう計算があったのだ。  一方グレアムは、それを見てはいなかった。舞台下で目立たぬように立ち、周囲に鋭い視線を配る。しかし人々はステージにあまり興味もなさそうで、喋ったり飲んだりと忙しい。  背後の気配で、サーシャと竜が舞台前方に出てくるのが分かった。  幼い頃通った村の教会ではそうだったように、サーシャはまず、堅苦しい挨拶や聖伝のくだりを引用した説教、そんなものから始めるだろうとグレアムは思っていた。だから何の前触れもなく、凄まじい音で演奏が始まった時には、度肝を抜かれた。思わず振り向くと同時に、サーシャが高らかに声を張り上げた。  それは厳密には歌ではなく、古代から伝わる聖教独自のチャント――詠唱と呼ばれるものだった。楽器から音を出すように、人間の腹から声を絞り出す。だが声というよりむしろ、音という方が相応しいかもれない。言語を伴わず、発声のみで、一定のリズムと旋律を繰り返す。それはいわば原始の音、原初の音楽だ。人語を解さない聖霊が歌っているようにも聞こえる。  グレアムは、サーシャの歌ならこれまで何度も聞いた。サーシャはよく兵士たちに歌って聞かせていたし、一人でいる時に歌を口ずさんでいる事もあった。しかし今聞こえてくるのは、そんな生易しいものではなかった。楽団の演奏に負けない凄まじい声量に、グレアムは、あの小柄な身体からどうしてこれだけの声が出るのかと唖然とした。一瞬、舞台に目が釘付けになったが、慌てて背を向けて警備に戻る。だがそうしていても、美しい旋律と澄んだ声は、まるで波のように背後から打ち寄せてグレアムを包んだ。 耳慣れないチャントに、街の人々も興味を引かれたようだ。ほう、とか、わあ、などという感嘆の声が漏れ聞こえるたび、グレアムはどこか誇らしい気分になった。  やがてサーシャの独唱に聖歌隊のコーラスが加わり、チャントの響きは一層大きくなった。単調なリズムと音階を繰り返しているように思えたチャントだったが、次第に高く上りつめていき、合わせて人々の歓声も大きくなる。盛り上がりが最高潮に達した時、サーシャは一歩前に出た。そして今度は歌い始めた。この街のためにサーシャが作った歌だ。   隣人よ どうぞ私を訪ねてほしい 貴方を迎えるのに 何を躊躇うだろうか 聖霊よ どうぞ私たちを見ていてほしい 誇らしい 私たちの日々の営みを 友よ 空を見上げ 私に話しておくれ どんな聖霊たちを見つけたか     グレアムは厳しい表情を崩さず、群衆を見つめた。人々はこれが聖教の聖歌という事を忘れ、珍しい異国の音楽を楽しむように、気楽に聞き入っている。 「人と聖霊を繋ぐ存在、か……」  グレアムは背後に歌声を聞きながら呟いた。  その時だ。  ふと目についた男がいた。腕を振り上げ、舞台に歓声を送っている。ずいぶん熱狂的な観客のようだ。男は周りの人々と肩を叩き合い、一緒になって、だんだん舞台の方へ近寄ってきた。もっと近くで聞きたいのだろう。 ――だが……?  グレアムは眉を寄せた。男が聖教徒なら、ここまで熱心な応援も頷ける。しかしオーヴェル司祭の教会に通うこの街の信徒は、今日は皆、ステージの方を手伝っているはずだ。 やがて男は舞台のすぐ下、グレアムの真横にやってきた。グレアムの身体に緊張が走る。  そして――。  男は突然、グレアムに掴みかかった! 「!?」 グレアムは、男がサーシャを狙って舞台に上がるのではないかと、そればかり警戒していた。まさか自分が狙われるとは想定外で、一瞬出遅れたがすかさず剣を抜く。 「自警団を!」  波が引くように後ずさりつつ、観客の誰かが叫んだ。それは輪唱のように人の口から口へ伝わり、広場のあちこちに広がってゆく。  男が剣を振り上げた! グレアムはきわどくかわすが、そこへ背後から別の男に羽交い締めにされた。グレアムは渾身の力で敵の胃の腑に肘鉄を食らわせ、腕の力が緩んだところで、拘束を抜け出すと同時にひらりと一手、また次の一手。二人の男は手傷を負ってうずくまる。さらに襲いかかってきた三人目にも剣の柄で峰打ちをお見舞いすると、男はもんどり打って倒れた。しばらく動けないだろう。  安堵したのも束の間、舞台下のあちこちで、観客の悲鳴が上がっている事に気づく。舞台下には一定間隔で、兵たちが配備されていた。 ――まさか、全員が襲われているのか!?  背の高いグレアムは、逃げまどう観客たちの頭越しに、いくらか状況が見渡せた。思った通り、兵たちは皆それぞれ数人ずつの暴漢に襲われ、今まさに交戦中だ。 ――チッ!  ひとまずザキに加勢しようと向かった時、それまで静かだった一角から男が一人、舞台に飛び乗った。近くにいた兵士が気づいて追いすがるが、舞台に足をかけたところで背後から襲われ、兵士は舞台下に落ちた。 「キャーッ!!」  悲鳴が響き渡る。  グレアムは夢中で舞台に駆け寄って飛び乗った。しかし男との距離は遠い。広い舞台の上、グレアムはサーシャの元へ走る。背後に迫る気配を感じながらも、グレアムは振り返らなかった。暴漢の刃がサーシャに届くのが先か、自らの剣が届くのが先か。  男の手が胸元に滑り込み、手先に銀色の光が煌めく。男は短剣を振りかざし、サーシャに躍りかかった! ――サーシャっ……!!  サーシャは恐怖に瞳を見開いている。音楽隊の人々も、突然の出来事に全く動けない。 「サーシャっ!」  間合いは遠い。だがグレアムは全身をばねにして飛びかかり、剣を振るった。切っ先がかろうじて男の肩口に届き、浅い傷をつける。男は反射的に振り向いた。しかし無理な体勢で飛び込んだグレアムは、足を取られてバランスを崩す。男は短剣を握りしめ、グレアムの心臓めがけて一直線に向かってくる!  そこへ飛び込んだのはザキだ。横に払った剣が、男の短剣を弾き飛ばす。グレアムは体勢を立て直すと、そのまま流れるような動きで身体を半回転させ、後ろから剣を突き立てる追っ手に斬りつけた。しかし息つく間もなく新手がやってくる。グレアムとザキは二人でサーシャを背に庇い、襲いくる暴漢たちの剣をなぎ払った。竜が音楽隊の皆を誘導して舞台袖に逃した。  辺りは大混乱だ。兵士一人あたりに三、四人もの暴漢が襲いかかっている。 ――こいつら、一体何人いるんだ!?  グレアムの背に冷や汗が流れた。こうしている間にも視界の端で、新たな男たちが舞台に上るのが見える。  暴漢は明らかに素人連中で、本来なら、戦闘訓練を受けた近衛師団の相手ではなかった。しかし敵は数を頼みに力量差を埋めようという魂胆らしい。そしてその作戦は今、確実に功を奏していた。兵士たちは応戦するだけで精一杯だ。 ――こいつらレスコフ派じゃないな。聖教会に反感を持つ、街の人間か。  サーシャの想いは伝わらなかったのだ。グレアムは唇を噛む。  二人が同時にグレアムに飛びかかる! 一人はかわすが、もう一人の剣が腕をかすめた。 「グレアムっ!!」  サーシャを大きな背中と腕で押しとどめ、グレアムは肩で息をした。じりじりと間合いをつめてくる男たち。 ――数が多すぎる。このままでは……!  その時だ。  相対する男の肩越しに、小柄な身体が舞台に這い上がるのが見えた。どう見てもまだ子供、せいぜい十代半ばの少年だ。 ――!? 少年はグレアムを襲う暴漢の背に飛びついた! 男はぎょっとして振り返る。グレアムはその隙を逃さなかった。 「ぐわあっ!!」  男は苦痛の呻きを上げて倒れる。 「すげえ!」  少年はのんきに口笛を吹いた。 「お、おい、お前! 危ないから――、」  無謀な少年はどう見ても丸腰だ。  しかし次の瞬間、グレアムは言葉を失った。少年に続いて次々と舞台に上がり、暴漢を抑えつける街の人々が目に入ったのだ。見れば舞台下で女性たちが、あちこち指差して采配を振るっている。 「ほら、あっち!」 「あそこ行って!」 「あの人危ない!」  男たちは采配に従って手薄な箇所に向かう。終いには小さな子供たちまで舞台に上り、暴漢に石を投げ始めた。 「こいつめ! やめろよ!」 「えいっ!!」  大人の邪魔にならぬよう脇に回り、うまく暴漢だけに石を当てる。舞台下では女の子たちが、バケツリレーで男の子に石を補充する。  グレアムは唖然としてしまった。 「見事な連携だ」  背後から顔をのぞかせ、サーシャが呟いた。  それは国の守護を得られずに、自力で街と生活を守ってきた人々の、底力だった。  やがて自警団が駆けつけて、暴漢は全て取り押さえられた。  暴漢は宿の娘が言っていた、反聖教派を名乗る若者たちだった。街の状況を憂いて、今回の事を計画したらしい。 「だから止めたんだ」  ザキはため息をついた。サーシャは神妙な顔で椅子にかけ、大人しく叱られている。 「サーシャ、お前の考えは甘い」 「そんな事は、ないと思うのだが……」  サーシャは小さな声で反論した。 「小さな一歩だ」  サーシャは椅子から立ち上がり、部屋にいるグレアムとミラン中尉を順番に見つめた。 「見ただろう。聖教に反発する街の人々が、我を庇ってくれた。皆のおかげで、我は今日、小さな一歩を踏み出す事ができたのだ」  サーシャは三人に深々とお辞儀をした。 「兵たちの怪我にも、大きな意味があったと、我は確信している。――感謝する」  ミラン中尉は静かに頷いた。 「行動せねば奇跡は起こらない。だが、我の決断によって誰かが犠牲を払う事だけは、今後、肝に銘じておく」 ザキももう何も言わなかった。ミラン中尉は表情を引き締め、サーシャに敬礼を捧げた。    よく晴れた星空と温かな春先の夜風に誘われて、グレアムは庭に出た。時刻はもう深夜。フェスティバルは終わりを迎えたが、まだその余韻を楽しむ人々の陽気な喧噪が、通りの方から遠く聞こえてくる。グレアムは芝生に身体を投げ出し、薄明かりのついたサーシャの部屋の窓を見上げた。 グレアムは、長い間世の中を渡り歩き、様々な人間を見てきた。そして、幸福には色々な形があるのだと知った。 ――宿命を受け入れ、持てる力の限りを尽くす。それは、幸福だ。  それこそが、サーシャの幸福ではないだろうか。グレアムはそう考えた。サーシャは聖霊の神子として行く道を定められ、平凡な暮らし――サーシャの言うところの、「人の営み」をする事はない。それでも聖霊の神子である事は、サーシャの幸福なのだと、グレアムは今日、強く感じたのだった。  そうしてグレアムは、自分自身の幸福についても、少しだけ想いを巡らせた。もう長らく、そんな事はなかったのだが。 ――『意味があった』、か。  サーシャの言葉を胸の中で反芻する。  月明かりの下、芝生に影が落ちた。見ればサーシャがそこに立っている。 「どうした、サーシャ。明日は朝早く出発だ。早く寝ないと辛いぞ」 「うん。窓からお前の姿が見えたのでな」  サーシャは、寝転がるグレアムの隣に、膝を抱えてちょこんと座った。 「実はお前に、頼みがあって来たのだ」 「ん、なんだ?」 「この街を過ぎれば、じき聖都に着く。その時――、聖霊神殿の神子付き近衛師団員として、仕官してくれないだろうか?」  サーシャは、グレアムをじっと見つめた。 「な……っ」  グレアムは思わず身体を起こす。 「……なぜ俺に、そこまで」 「なぜだろう。我はどういう訳か、お前と我が似ているように思うのだ」  サーシャは言った。 「どうだろう。考えてみてはくれないか?」 「……次の満月まで、あと八日だ」  グレアムは呟いた。 「ああ。そういう約束ではあったが」 「そうだな……」  グレアムは静かに瞳を閉じた。 ――今だけの約束だ。次に月が満ちるまでの。 「……いいぜ」 「本当か!?」  サーシャは、ぱっと明るい笑顔を見せた。まるであの、夜空に咲いた花火のように。 「ああ」  グレアムは頷いた。 「ずっと側に、いてやるよ」  ――安心させてやろう。そして、見守っていてやろう。あと、八日の間は。 一夜の夢の如きフェスティバルが、グレアムにも夢を見せた。叶わぬ夢を。己の幸福にサーシャが必要となっていく運命に、今だけは抗わずにいよう。グレアムはそう思った。 「本隊が到着する前に、かたをつけるんだ」  黒い服の男は言った。 「は、はい」  白い装束の青年は、怯えたように答える。 「大丈夫だ。実際の仕事をする人間は、こちらで用意する。君はその男を前もって潜入させるのに力を貸してくれ」 「はい。この聖霊神殿の敷地は広大ですから、隠れる場所ならいくらでもあります」 「それは好都合だ。手はずは――」  二人は声を潜めて話し合った。 「いいか、何としてでも成功させるんだ。君とて、あんな『偽物の神子』に仕えるのは、本意ではないだろう?」 「もちろんです」  青年は憤った声音で答えた。 「私の信仰は、まがいものの神子に騙されるほど、軽いものではありません」  男はにやりと笑った。 「では、頼んだぞ。先発隊に紛れた神子は、じきに聖霊神殿へ到着する」 「分かりました」  密会を終えた二人は、それぞれ闇へと消えていった。 「では、道中お気をつけて」  オーヴェル司祭は和やかに微笑んだ。  先発隊は今日、街を発つ。オーヴェル司祭は見送りに来てくれたのだった。 「大変世話になりました。感謝いたします」  サーシャとオーヴェル司祭は、両手で固い握手を交わした。 「出発!」  ミラン中尉の号令で、騎馬列は動き出す。最後尾のグレアムは、オーヴェル司祭の方へ振り向いて軽く会釈した。司祭もグレアムを勇気づけるように、力強く頷く。 「いいこと聞けて、良かったじゃんか」  肩の上の竜が言った。 「まあ、あまり参考にはならないが……」  グレアムは浮かない顔で答えた。そうして、今朝、司祭から聞いた話を頭の中で繰り返す。   「オーヴェル司祭。実は、お尋ねしたい事があって来たんです」  早朝、グレアムは一人密かに教会を訪れた。 「私もお話したいと思っていたんですよ、グレアムさん」  朝の礼拝を終えたばかりのオーヴェル司祭は、礼拝堂のステンドグラスから差し込む、眩しい朝陽に目を細めた。しばらくの間、二人は無言のまま、互いの顔を凝視していた。 「司祭さまは……」  長い沈黙の後、グレアムが口を開いた。 「なぜ、あの歌を知っていたのですか?」 「『聖霊の歌』の事ですね。街でお会いした時に、私が歌っていた」 「そうです。あれは聖霊の神子だけに伝えられる歌だと、サーシャが言っていました。なのに、どうして司祭さまが?」 「それは私が、聖霊の神子だからです」  オーヴェル司祭の、新月の夜空を思わせる漆黒の瞳が、まっすぐにグレアムを見つめた。 「おや。あまり驚かないようですね」 「なぜか分かりません。でも、そんな気がしていました」 「それはきっと私たちが、同じ苦楽を味わった者同士だからでしょうね」  オーヴェル司祭は言った。 「では、やはり」  グレアムはごくりと唾を呑む。 「司祭さま、貴方は……。いえ、貴方も」 「はい。私は、『忘れられた神子』です」  オーヴェル司祭は、穏やかな表情のままでそう言った。 「前任の神子が死去してから長い間、神子は産まれなかった。誰もがそう記憶しています。しかし、それは真実ではなかったと?」 「はい。私はかつてあの魔物に神子の御印を奪われ、人々に忘れ去られました。満月の魔術をかけられていたのです」 「ま、待って下さい」  グレアムは身を乗り出した。 「かけられて――いた?」 「ええ。今は魔術が解け、満月の晩を過ぎても忘れられる事はありません。ただし、既に忘れられた記憶は戻ってきませんでしたが」 「な、んだって……」  グレアムの声がかすれた。 「あの術は、解けるのですか!?」 「魔術とは、神秘です。神秘であるが故に力を持ちます……」  オーヴェル司祭は、慎重な口ぶりでゆっくりと話した。 「ですからその本質を暴かれ、神秘が神秘でなくなった時。その時、魔術は力を失います」 「本質……?」 「そうです。ご覧のように、私は神子の御印を失いました。ですが、私が聖霊の神子である事に変わりはないのです。それに気づいた時、魔術の効力はなくなりました」 「そ、それは一体? どういう事ですか?」 「神子である事は、私の全てでした」  オーヴェル司祭は、遠くを見る目つきで窓の外に目をやった。 「あの魔物は術によって私から御印を奪い、人々に忘れられた私が、己の存在理由を見失う。その絶望を喰らおうとしたのです」 「絶望を、喰らう……?」  グレアムの胸に、あの忌まわしい記憶が甦った。確かにあの魔物は、グレアムの持っている「何か」を喰らうと言っていた。それは人しか持ち得ぬもの、とも。 「最初の頃、私は諦めませんでした。聖都を出て、魔物の行方を追ったのです。旅をしながら方々の魔術師を訪ね、解術できないものかと頼みました。しかし魔物は見つからず、どの魔術師にも解術の方法は分からず、私は次第に希望を失ってゆきました。いつしか疲れ、心苛まれ、そして、自分が神子だった事はもう忘れようと決意しました。ただの人として普通の生活を送ろうと、この街にやって来たのです。様々な事情の持ち主が集まるこの街でなら、私も新しい人生を始められると思いました。しかし」  オーヴェル司祭の眉根に苦悩の影が落ちた。 「……とある出来事がありました。それがきっかけで私は気づいたのです。私がなくしたものは、ただの印に過ぎないと。『神子である己自身』をなくしたのではない。誰に知られなくとも私は神子なのだから、神子であり続けよう。そう思った時、術が解けたのです」  グレアムは、呼吸すら忘れて司祭の話に聞き入っていた。 「神子である、己自身……」 「そうです。だから、グレアムさん、あの魔物が術によって貴方から何を奪い、喰らおうとしているのか。その本質を掴む事です」  オーヴェル司祭は、小さく頷いた。 「そしてもし貴方が、それを取り戻す事ができたら。その時、術は解けるでしょう」 「し、しかし……、一体何を……?」  この忌まわしい呪いから解放され、普通の生活が送れるようになるかもしれない。微かな期待を胸に抱いていたグレアムは、雲を摑むような話に面食らった。 「残念ながら、私には答えられません」  オーヴェル司祭は言った。 「それはきっと、貴方自身が見つけねばならないのでしょう」

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