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第十四章 聖霊神殿

 丘の頂に登りつめて視界が開けた瞬間、サーシャは思わず手綱を引いて馬を止めた。  眼下には、緑の丘に囲まれたこの国随一の都、聖都の街並みが広がっている。長い旅を経て、サーシャはついにここまでたどり着いたのだった。  先発隊の面々も馬を止め、美しい都を共に眺めた。青や黄、緑、赤、華やかな色に彩られた家々の屋根や壁が、目を楽しませる。冬には一面の銀世界となるこの国では、人々は明るい色彩を好む。雪が溶けてその下から花畑のような街並みが現れると、人々は春の訪れを感じるのだった。 街の中心部に、白壁で囲まれた広大な区域があった。まるで街の中にもう一つ、別の街があるようだ。建物の密集した壁の外側とは違い、内側は豊かな緑に覆われている。  美しく整えられた庭園には人工の小川が流れ、所々にある池が、鏡のように光を反射している。早咲きの花々が咲き乱れる花園や、敷地のあちこちに広がる林や果樹園。それらの間に、壮麗な建造物の数々が点在している。  これら全てが、「聖霊神殿」と呼ばれる、聖教会の本拠地なのだった。 建築物の中でも一際目立つのは、敷地の中央に建つ大聖堂だ。大理石造りの白壁が、陽の光を受けて神々しい輝きを放っている。建物の上部は三つの塔になっていて、それぞれが聖神、聖霊、そして人を表している。三つの塔はどの方向から見ても美しい調和を成すように、位置と高さ、大きさが絶妙に工夫されているのだった。特徴あるドーム型の屋根には翠と黄金の縞模様が施され、外壁には滑らかな曲線で、波や蔦の模様が描かれている。  数日後に控えた神子の就任式など、聖教会の重要な式典は全て、この大聖堂で行われる。  大聖堂の背後には、立派な宮殿がそびえ立ち、その他にも礼拝堂や修道院、聖霊を奉る祭壇、図書館や宝物庫などが見える。趣向を凝らした建築物の数々は、どれも見事なものだった。 「絵図面で見た通りだ」  サーシャは呟いた。神子は修行期間を終えるまで、神殿内に立ち入る事を許されない。しかし到着後には滞りなく務めが果たせるよう、神殿内部の構造は事前に絵図面で頭に叩き込まれているのだった。 「あそこで、これから暮らすのか……」  理解してはいたが、荘厳な聖霊神殿をいざ目にすると、サーシャは少し気後れした。 「なーにびびってんだよ!」  竜がサーシャの肩に飛び乗る。 「あれは、あんたの家だろ!」 「う、うん」 「じゃ、遠慮することねえじゃん。早くいこうぜ! 俺、腹減った!」  サーシャは笑った。  一行は歩みを進め、丘を下って石造りの大きな門をくぐり、聖都の街へ足を踏み入れた。 「ご苦労さまです。修道士さまはこちらへ」  聖霊神殿の神官は、少々高飛車な態度で一行を出迎えた。 「近衛師団の方々は、こちらの者が、神殿内の兵舎にご案内いたします」  翠色の制服の兵士が、一歩前へ出た。その制服は聖教会所属で、聖霊神殿内の保守業務を担う、聖騎士団のものだ。近衛師団がグラングール将軍直属の部隊なのに対し、聖騎士団はアルバロフ公爵のそれにあたる。  ミラン中尉は神官の側へ寄り、小声でやりとりを交わした。途端、神官はハッとした表情でサーシャを見やる。 「で、では……、どうぞこちらへ」  神官はサーシャを促した。声音は緊張し、先ほどまでの気取った態度は消え失せている。ミラン中尉がサーシャの正体を明かしたのだ。  サーシャは前に進み出て、聖霊神殿の門構えを見上げた。礼拝堂の豪奢なステンドグラスが、サーシャを威圧する。天に向かってそびえ立つ大聖堂の三つの塔は、静かにサーシャを見下ろしていた。まるで、覚悟はできたか、と問いかけるように。 「サーシャ」  グレアムが手を差し伸べた。その手を取ってサーシャはゆっくりと門をくぐり、入り口の石段を登った。 「ありがとう。グレアム」  石段の上で手を離し、二人は束の間見つめ合った。神官が軽く会釈して、サーシャを連れて行く。サーシャは分隊の皆に振り返り、はにかみながら小さく手を振った。    到着翌日は朝から上天気だった。宮殿内に用意された私室で一人きりの朝食を終えると、サーシャは部屋を見回して独り言を呟いた。 「いずれ、慣れるだろう」  今まで兵士たちと賑やかに過ごしてきたので、急に一人になるのはおかしな気分だった。  ずっと同行していたサーシャが実は神子だと知った時の、彼らの驚きようときたらなかった。悪戯好きのサーシャは、昨晩それを告げた時の事を思い出し、くすくすと一人笑った。  しかしその表情が、ふと引き締まる。 「聖霊の神子、か。いよいよだな」  今日の午後には、神子就任式の打ち合わせがある。神殿に入った神子はただちに就任式を行い、国王陛下から聖霊のティアラを賜るしきたりだ。それで初めて正式に神子となる。  サーシャの到着が予定より遅れたので、就任式まではあと一週間もない。神殿の聖職者たちは目下のところ、準備に大わらわだ。しかしサーシャは、今日の午前中はゆっくり身体を休めるようにと言われていた。 「さて。午後まで何をするかな」  サーシャは大きく伸びをした。 「おーい!」  耳慣れた声に、思わず笑みが零れる。 「竜どの!」  窓の外に、竜がふわふわと浮かんでいた。 「ヒマだろーと思って、来てやったぜ!」  サーシャが窓に駆け寄って見下ろすと、階下にはグレアムがいた。窓に背を向けつつ、ちらりと顔を上げてこちらを見る。サーシャは例の本で、こんな場面があったのを思い出した。主人公のところに、こうして「恋人」が忍んでくるのだ。 「遊びいこーぜ! 探検だ!」  サーシャは急いで階下に降りた。 「グレアム! 仕事は良いのか?」 「あんたの護衛が、今日の仕事だ」  グレアムは笑った。  庭園に出て緑の匂いを胸一杯に吸い込むと、慣れない環境で緊張していたサーシャの心もほぐれた。丘を登り、木苺や花を摘み、流れる小川で裾をまくって竜と水遊びをした。草を踏みしだいて歩くうち、林はいつしか森となり、二人はその奥へと入り込んでいた。 「とんでもない広さだな。ここもまだ神殿の中なんだろう?」 「そのようだ」  二人は感嘆のため息をついた。 「はじっこまでどんくらいあんのかな? 俺、見てくる!」  言うが早いか竜は翼を羽ばたかせ、真上に飛び上がった。オレンジ色の尻尾が、樹々の枝葉に吸い込まれるように消えていく。サーシャは降り注ぐ木漏れ日の眩しさに目を細め、その後ろ姿を見送った。 「迷子になるなよ!」  グレアムが叫ぶ。  ところがしばらくすると、近くの茂みがガサガサと音を立て、思いがけず竜がそこから顔を出した。 「うわっ」 「竜どの! どうしてそんな所から?」 「こっちに面白いもんがある! 行ってみようぜ!」  竜は興奮した様子で言い、背後の森を指し示した。目を凝らしてみると確かに、樹々の間から何か白い物が見える。しかしそちらは、歩いてきた小道から外れる方向だ。特にその辺りは草木が密生していて、とてもたどり着けそうにない。 「俺たちはお前と違って飛べないんだぞ」  グレアムが言う。しかし竜は、 「抜け道があるぜ!」  と、小さな身体で枝葉を除けて二人に示した。見れば茂みの後ろに、蔦で覆われた岩壁があり、人が通れるほどの穴が空いている。蔦がちょうど緞帳ように、その穴を隠していたのだ。のぞいてみると、そこはちょっとした洞窟のようで、冒険心をくすぐられる。反対側からも光が差し込んでいるらしく、僅かな光が湿った岩の表面を照らしていた。  竜に続いてグレアム、そしてサーシャも、小さな洞窟に足を踏み入れた。 「おおっ」  洞窟を通り抜けると、急に目の前が開けた。森の中、まるで広場のように、そこだけ樹の生えていない場所がある。サーシャの居間くらいの広さで、真ん中に石造りの小さな東屋があった。白い石で縁を囲まれた地面の穴は、かつて池だったのだろう。人の手で植えられたらしい灌木は伸び放題だが、膨らみかけの蕾をたくさんつけている。  それはまるで、うち捨てられた秘密の箱庭のようだった。 「隠れ家みたいだ!」  竜は気に入ったらしい。屋根の一部が崩れ、支えるものをなくした東屋の柱に飛び乗り、辺りを見回している。 「なんだ、ここは?」  グレアムは東屋に近づきながら首を傾げた。ここはもう敷地の端に近い。近くに建物もないし、わざわざここまで来る者もないだろう。  東屋の白い柱には蔦が絡み、床は敷石の隙間からはみ出した草花が、好き放題咲き乱れている。その床へ上がる数段の階段も、あちこちが欠けていた。 「そうだ、思い出したぞ。絵図面にあった」  サーシャは東屋へ入って、床にかがみ込んだ。床の一部をずらすと、地下へ続く階段が現れる。 「神殿の外に出る、秘密の抜け道なのだ」 「ほう。なるほどな」  二人は石のベンチの泥を払って腰かけた。そこは数人が座れば満員になる小さな東屋だったが、物思いに耽ったり、読書をしたりするのにおあつらえ向きの静かな佇まいだった。 「ふふ。これは良い場所を見つけたな。ここを我らの隠れ家にしよう」  サーシャは悪戯っぽく笑って竜の頭を撫でた。風が吹き、ざわざわと樹々を鳴らす。目を閉じると風に混じって花の香りがした。冬の長いこの国にも、ようやく春が訪れたのだ。 「ザキが着いたら、さっそく連れてこよう」  サーシャは声を弾ませた。 「サーシャ。そろそろ時間だ」  グレアムが空を見上げて言った。見れば、太陽はもう真上に昇っている。 「おお。ではそろそろ、行かねばな」  二人は来た道を戻っていった。庭園の中程で、もう一人の護衛担当が加わった。 「どこ行ってたんだ。遅れるぞ」 「すまない。散歩に行っていた」  グレアムはサーシャの髪に青葉が絡んでいるのを見つけ、そっと取ってやった。  大聖堂の裏手に、聖教会所有の文献を保管する文書館がある。今日の午後、サーシャはここで資料を見つつ、就任式の手順について説明を受ける事になっていた。 「ご苦労さまでした。では」  入り口でサーシャを迎えた無愛想な神官は、付き添うグレアムたちにくるりと背を向けた。 「おい、ちょっと待ってくれ」  そのままサーシャを連れて行こうとする神官に、グレアムは慌てて声をかけた。 「護衛を置いていくつもりか?」  神官は振り返り、にこりともせずに言った。 「貴方がたはここで警備にあたって下さい」  グレアムと相棒の兵士は、顔を見合わせる。 「入り口の警備が必要なら、他の人員をよこす。俺たちは、神子さまの側で護衛するよう言われてるんだ」 「必要ありません」  神官はぴしゃりと言った。 「館内は聖騎士団が巡回しています。ここは機密文書が保管されている場所なので、聖職者でない者をむやみに立ち入らせる事はできません」  神官は取りつくしまもない。 「……分かった。そちらの指示に従おう」  折れる様子のない神官に、グレアムたちは渋々承知するしかなかった。 「では、よろしくお願いします」  神官はサーシャを促した。サーシャはちらとグレアムを見やり、そして奥に向かう。重厚な木の扉が音を立てて閉ざされ、残された二人は顔を見合わせ肩をすくめた。しかし扉の両隣に陣取ると、黙ったまま警備についた。  グレアムは落ち着かなかった。サーシャが最後に見せた不安げな眼差しに胸騒ぎを覚え、背後の扉を何度も振り返った。しかし……。 ――神経質になり過ぎだ。  ここはもう、聖霊神殿の中なのだ。旅の道中とはわけが違う。レスコフ派も今頃は、神子が神殿に入ったと知ってほぞを噛んでいるだろう。だが警備の厳重極まりないこの聖霊神殿にあっては、事を起こそうとしても手遅れだ。 ――本当に、そうだろうか?  グレアムはふと眉根を寄せた。  フェスティバルでの一件が思い出される。あれはレスコフ派と関係のない、血気にはやった若者たちの仕業だった。しかし……。 ――本当に、連中だけで計画を立てたのか?  例えば、彼らをたきつけた者がいたとしたら、どうだろう。聖教会の修道士に対する攻撃と見せかけ、その実は、「神子」の暗殺を狙ったのだとしたら。 ――村での件にしてもだ。なぜわざわざ大勢を巻き込んで、火事を起こす必要があった? 直接、神子だけを狙っても良かったはずだ。  あの時サーシャは偶然にも散歩に出ていたが、例の男はサーシャが席を外したのを見て、てっきり自室に戻ったものと思い込んだだろう。そして放火した。つまりあれは初めから、サーシャを狙ったものだった、とも考えられる。 グレアムは、勢いよく顔を上げた。 ――レスコフ派は、サーシャが神子だと知っていた?  グレアムは扉に飛びついた。 「おい! 勝手に入ったら怒られるぜ!」  相棒の兵士は慌てて止めようとしたが、 「応援を呼びにいってくれ!」  と叫んだグレアムの強い口調に、何かを感じ取ったのか、黙って駆け出した。 ――敵は、実はサーシャを狙っているとこちらに悟られないように、計画を立てた。それはつまり……、  グレアムは文書館の中へ入り、背後で扉を閉めた。 ――敵はこちらの警戒心が緩むこの聖霊神殿で、罠を張って待ち構えている!  建物の中はひどく薄暗かった。そこは天井の高いホールで、ステンドグラスから差しこむ虹色の光が、ほんのりと床を照らしている。グレアムは目が慣れるまで少しだけ待った。  ホールから続く廊下を進み始めると、竜もパタパタと羽ばたいて後に続く。 「ここで、何をしておられるのです⁉」  背後の声に振り返ると、神官が一人立っていた。 「神子さまはどこだ?」 「ここで護衛は必要ありませんから――」  その時だ。建物の奥から悲鳴が響き渡った。 「‼」  グレアムは神官を残し、声の方へ駆け出した。 「サーシャ‼」  廊下の分かれ道で一瞬迷ったが、再び悲鳴が聞こえたのでそちらへ走る。いくつか角を曲がって奥へ進むと、次第に喧噪が大きくなる。突き当たりの扉から争う声が聞こえた。 「サーシャ!!」  扉を蹴破って飛び込むと、そこは広い図書室だった。四面の壁が、天井まで届く本棚で覆われている。部屋の中央に置かれた大きなテーブルの脇で、神官たちが身を寄せ合い、恐怖に顔を引きつらせ、本棚の前にいる黒服の男を凝視していた。男はサーシャを羽交い締めにし、喉元に短剣を突きつけている。 「動くな!」  男は鋭い声でグレアムに怒鳴った。グレアムはぴたりと動きを止める。 「貴様、どうやってここに!?」  男は鼻で笑った。サーシャの喉元がよく見えるようにグレアムの方へ向け、短刀をちらつかせる。窓からの光を反射して、刃が光った。  男は短刀を振り上げた!  「ヒッ!」  神官たちが短い悲鳴を上げる。だが次の瞬間、男の手は戸惑った。サーシャが頭を傾けて男の顔をのぞき込み、その神聖な瞳でじっと見つめたのだ。  ばさばさと、紙の鳴る音がした。 「うわあっ!?」  大量の本が男に降り注ぐ! 男は咄嗟に利き手をかざし、身を庇う。グレアムの渾身の一太刀が躍りかかると同時に、サーシャは男の腕を振りほどいて逃れた。頭上では竜が本棚から厚い本を抜き出し、次々と投げ落としている。  男は深手を負いながらも剣を抜き、反撃に出た。一撃がグレアムの腕をかすり、血しぶきが飛ぶ。火花を散らすようにして幾度か剣が交わった後、ついに男は床に膝をついた。  しばらくの間は、男の呻き声とグレアムの荒い息づかいだけが、図書室に響いていた。 「お前の機転のおかげだ。よくやった」  ミラン中尉は言った。  神殿に潜入した暗殺者は軍本部に引っ立てられ、手引きした修道士は、独居房で厳重に監視されている。修道士は以前から「半分の神子」に不信感を抱いており、レスコフ派に言いくるめられて協力したと話した。 「レスコフ派はサーシャの正体を知っていると、もっと早く勘づくべきだった」  手柄を褒められても愛想笑いすら見せず、グレアムは重い口調で言った。 「しかし、だ。知っていたのはグラングール大尉と私、それにお前だけだ。一体どうやって……?」  ミラン中尉は、顎に手を当てて考え込む。 「……俺を、疑っているんだろう」  グレアムは呟いた。 「なぜだ?」 「俺は近衛師団員じゃない、よそ者だからだ」 「今はまだ、な」  ミラン中尉は言った。 「就任式の後、すぐに入団式を行う予定だが」  ミラン中尉は白い歯を見せ、グレアムの肩に手を置いた。 「さあ、しっかりしろ、グレアム。神子さまをお守りするのが、私たちの役目だ」  グレアムは、ハッとして顔を上げる。 「そうだ。それが俺の役目で……、望みだ」 「兄上!」  聖都にほど近い街。ザキが本隊の一行を今晩の逗留先に落ち着かせて一息ついた時、部下が客だと言って黒い服の男を案内してきた。男が目深にかぶった帽子を取ると、それはグラングール家の長男、ザキの兄だった。 「兄上、どうなさったのです。驚きました」  思いがけない来訪にザキは顔をほころばせ、戸口に駆け寄って兄を迎えた。  この兄は陸軍で中将の位にあり、将軍の片腕として名高い軍人だ。年齢が離れているので、ザキとはあまり親密でなかったが、グラングール一族の中でも前途を嘱望されるこの長兄は、幼い頃からザキの憧れだった。 「久しぶりだな。達者で何よりだ」  兄は祖父のグラングール将軍によく似た、感情を表に出さない声音で言った。 「将軍からお前に極秘任務が下されたので、私が直に伝えるために出向いたのだ」 「ハッ!」  ザキは姿勢を正し、胸元で三本の指を立てた。 「将軍直々のご下命とあらば、このザキ・グラングール、どのような事でも!」 「では」  兄は身をかがめ、ザキの耳元に口を寄せた。 「聖霊の神子を、始末せよ」  兄は一言、そう言った。   「――は?」 ザキは口をぽかんと開け、兄の顔を見た。 「兄上、今何と仰ったのですか?」  兄は懐から小さな油紙の包みを取り出し、ザキの手に握らせた。 「特殊な毒物だ。これを使って、聖霊の神子――サーシャを亡き者にせよとの命令だ」 「な……っ!」  ザキは包みを床に取り落とした。 「兄上、気でも違われたのですか!?」 「大声を出すな」  兄は鋭い目つきでザキを睨み、床に落ちた包みを拾い上げた。 「いいか。将軍は、神子が道中でレスコフ派に暗殺されるのを待っていたのだ」 「……は?」 「未熟なお前にあえて指揮を執らせたのも、そういう思惑だった。しかしお前が思いの外良い働きをして、神子は聖都まで無事にたどり着いてしまった。しかも聖霊神殿内での暗殺計画も、今日、失敗に終わった」 「け、計画? 兄上、一体どういう……」 「分かるように説明してやろう」  瞳を見開くザキを椅子にかけさせ、兄も弟の側近くに座った。 「お前も知っての通り、将軍は、我が国の旧態依然としたあり方に改革が必要だと考えておられる」 「ええ」 「軍備を強化した上で諸外国や人外の種族と広く交流し、封建的な制度を廃して近代化を目指す。そうしなければ、雪と氷に閉ざされたこの国は、諸外国に大きく遅れてしまう。しかしそれを妨げるのが、時代遅れの聖教信仰と、聖伝に基づく伝統的な政治体制だ。そして聖霊の神子こそは、その象徴なのだ」 「だから、サーシャさえいなければ、と……?」 「神子を亡き者にし、アルバロフ公爵家のレスコフにその罪を着てもらう。公爵家は権威を失い、聖教会は後ろ盾をなくして発言力が弱まる。民の心も、古くさい信仰から離れていくだろう。そうなれば将軍は、この国をより良い方へと導いてゆける」 「まさか……、兄上……」  嫌な汗が、ザキの背筋を伝う。 「俺の出していた手紙は……」 「お前はよくやった。レスコフ派が無能で、せっかくの情報を無駄にしただけの事だ」 「――!!」  怒りで熱くなったザキの身体は、すぐに冷たく凍りついた。 「将軍にとってサーシャは、実の孫ではありませんか!」 「無論、将軍は家族を愛しておられる。しかしそれよりも、国家の安泰を優先させる義務がある。それが将軍のお立場、責任なのだ」  ザキには言うべき言葉が見つからなかった。将軍は有言実行の男だ。ザキはそれをよく知っていた。 「お前の報告にあった、グレアム・エルデンとかいう男。そいつを利用しろ」 「え? グレアムをどうしろと?」 「身元の知れない流れ者だというじゃないか。神子毒殺の実行犯役におあつらえ向きだ」 「なっ!!」 「その男の荷物に、レスコフ派との繋がりを示す手紙でも入れておけ。証拠はそれで充分だ。後は将軍が、万事うまく進めて下さる」 「…………」  「ザキ、」  兄は優しい顔で、ザキに言い含めた。 「お前の気持ちは分かる。だが将軍は、お前とサーシャが仲の良い幼なじみだと承知の上で、あえてお前にこの任を託したのだ。その意味が分かるか?」 「……俺は、試されているんですね」 「その通りだ」 「…………」 「お前は将軍とアルバロフ公爵の、昔の話を聞いた事があるか?」 「え? いいえ」 「あのお二方は若かりし頃、無二の親友同士だったのだ。しかし互いに、近代的軍事国家の成立を目指すグラングール将軍家と、聖教の伝統を守るアルバロフ公爵家の跡取りだ。お二人は私情より自らの役割を選び、袂を分かった。お辛かった事だろう」 「将軍と、公爵が……」 「ザキ。国の繁栄と民の幸福のために私情を抑える事ができてこそ、一人前の軍人だ」  兄は立ち上がると、ザキの両肩をがしりと掴んだ。その重みが、ザキの心をきしませる。 「グラングール家の一員として、この兄の期待に応えてくれ、ザキ」

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