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第十五章 譲れないもの
ザキ率いる本隊が午前中に聖霊神殿へ到着すると、サーシャは早速ザキを庭園へ誘い出した。グレアムと竜も一緒だ。肩を並べて美しい緑の園を歩きながら、サーシャはふと首を傾げた。
「どうした、ザキ。元気がないようだが」
「そ、そうか？」
ザキは咄嗟に笑顔を作った。心臓は早鐘のように鳴っているが、平静を装う。
「長旅の疲れが出たのだろうか」
訝しむサーシャの口ぶりに、ザキは慌てて昼食の入ったバスケットを抱え直した。
「俺は元気だぞ！ お前こそ大丈夫か。昨日の事で怯えているだろうと心配していたが……」
「確かに恐ろしかったが、もう平気だ。これからは、お前も側にいてくれるのだし」
幼い頃と変わらぬサーシャの笑顔から、ザキは思わず目を逸らした。
サーシャとグレアムは勝手知ったる様子で、庭園の小道を進んでゆく。気づけばずいぶん歩いたようだ。だんだん、深い森に入ってゆく。
「さ、サーシャ。そろそろ昼食にしないか」
飛び回っていた竜が、サーシャの肩に乗った。
「へへっ。まーだだよ！」
「え？」
「ふふ。お前にも、秘密を教えてやろう」
サーシャと竜は悪戯っ子のような顔で、目配せし合った。
その日の夕刻。神殿の近衛師団詰め所に、神子の住まう聖霊宮殿から使者が駆けつけた。
「神子さまがお熱を出され、ただ今、医療班の者が診察しております」
「え？」
使者の応対をしたミラン中尉とグレアムは、顔を見合わせた。
「グラングール大尉にお知らせしてくれ」
中尉は側にいた隊員に言いつけ、
「とにかく行ってみよう」
と、グレアム促して宮殿に向かった。
グレアムとミラン中尉、そして途中で加わったザキが部屋に入ると、寝台に横たわっていたサーシャは顔を上げた。頬が赤い。かなり熱が高いようだ。
「一体どうしたんだ、サーシャ」
寝台に近づくグレアムの顔を見て、サーシャは安心したように微笑んだ。
「なに、大事ない。少し熱があるだけだ。身体を冷やしてしまったのだろう」
だが声は弱々しく、息づかいも苦しげだ。
「神子さま、少しお休み下さい」
医療係の修道士はサーシャの毛布をかけ直し、三人に目配せして廊下に出るよう促した。
「どうも、毒物を盛られたようなのです」
後ろ手に扉を閉め、修道士は小声で言った。
「なんだと!?」
「まさか！」
思わず声を荒げたグレアムとミラン中尉に、修道士は声を抑えるよう身振りで示した。
「それほどご容態が悪いようには見えませんが……。お風邪を召されただけなのでは？」
ミラン中尉の言葉に、修道士は静かにかぶりを振った。
「ある種の毒物を摂取した時に顕著な症状が出ています。次第に衰弱してくるでしょう」
「解毒薬は作れるのか!?」
グレアムは修道士に詰め寄った。
「なにしろ特殊な毒物なので……。既に材料の手配を言いつけてありますが、手に入りづらい物もあり、すぐという訳には。それまでお身体が持つかどうか……」
修道士の口調と表情は、危険な状態なのだと暗に示していた。
「だが、レスコフ派の手引きをした修道士は独居房にいる。まだ他にも仲間がいたと？」
ミラン中尉が思案顔で呟いた、その時だ。ザキがグレアムの腕を掴み、警備兵に叫んだ。
「この男を拘束しろ！」
「なっ!? ザキ、何を――」
「早くしろ！」
グレアムばかりでなく、ミラン中尉も、警備の近衛師団兵たちも面食らった。
「大尉どの!?」
「え、えっ？ グレアムを!?」
「昼食の時、この男が毒を盛ったに違いない！ ぐずぐずするな！」
「は、はいっ……」
兵士たちは戸惑いつつ、ぞろぞろとグレアムを取り囲んだ。さしものグレアムも訳が分からず、困惑するばかりだ。ザキはただじっと、グレアムを見つめている。
「グレアム。その、ええと、大人しく――」
兵士の一人が、おずおずと前に出た。
「チッ」
グレアムは素早く辺りを見回す。
「逃げるぞ！ 早く取り押さえるんだ！」
命令とあらば仕方ない。兵士たちは渋々剣を抜く。グレアムも身構えたが――、躇った。
「……くそっ」
「捕らえろ！」
グレアムは鞘から手を離し、諸手を挙げた。
「房に入れておけ。後で俺が直々に調べる」
グレアムは引っ立てられていった。
「一体何事だ、ザキ」
ザキが部屋に戻ると、騒ぎを聞きつけたサーシャは寝台に半身を起こしていた。ザキは寝台脇の椅子にかけ、不安げな眼差しを注ぐサーシャの手を、しかと握った。
「サーシャ。落ち着いて聞いてくれ」
グレアムは神殿内の監房に入れられた。分厚い鉄扉の前では戸惑い顔の兵士が二人、時々顔を見合わせつつ見張りに立っている。
半地下の薄暗い独房で、グレアムは大きく息をつき、粗末な木のベンチに腰を下ろした。
「一体どういう訳だ、これは」
最初の印象こそ悪かったものの、ザキとは今はある程度、信頼関係が築けていると思っていた。少なくとも、証拠もなくいきなり犯人扱いされるとは思わなかった。
「グレアム。このままずらかろうぜ」
竜が強い口調で言った。
「じきに満月だ。それまでここにいて、後は正門から堂々と出ていきゃいい」
グレアムは、鉄格子のはまった独房の窓から空を見上げた。うっすらと見え始めた白い月は、完全な円になるまで、あと数日。
「…………」
あの月が満ちたら。その時サーシャは、グレアムの事を忘れるのだ。
「もし……」
グレアムの胸に、月を覆う雲のような考えが浮かんだ。
「もしサーシャがこのまま死ねば、最後まで、俺を忘れずにいてくれるんだな……」
「おい！ グレアム！」
グレアムは静かに瞳を閉じた。二十年前のあの日が、まざまざと胸に甦る。最後に見た、敬愛する皇太子殿下のお顔。悲しい目で、まっすぐにこちらを見つめていた。
かの人の記憶に、グレアムはもういない。
「冗談、だ」
グレアムはそれきり黙り込んでしまった。
やがて外はすっかり陽が落ちて、濃紺の空に星が瞬き始めた。グレアムがそれを眺めていると、鉄扉の前に足音が立った。
「グレアム」
扉がきしんだ。厳しい表情のザキは、房に入ると後ろ手に扉を閉め、鍵までかけた。
「ザキ、これはどういう事だ!? 本当に俺が毒を――」
「すまなかった、グレアム」
グレアムの言葉をみなまで聞く前に、ザキは深々と頭を下げた。
「これしか方法がなかったんだ……」
「ザキ、一体何があったんだ」
ザキはグレアムに腰を下ろすよう促し、自分も側近く座ると、兄の話を聞かせた。
「――だがサーシャの師は、こういう事態を想定していた。サーシャが子供の頃から少しずつ毒物を与えて、身体を慣らしてあったんだ。俺はそれを知っていたから、ひとまずお祖父さまを欺くために、少量だけサーシャの昼食に入れた。すぐに回復するはずだ」
「そう……、か……」
グレアムは、大きく息を吐き出した。
「夜が更けたら、サーシャを影武者と入れ替えて、ここへ連れてくる」
ザキが思いつめた表情で言った。
「え？」
「側仕えの者には、神子の影武者を立てて暗殺から守る策だと説明する。他の者には、サーシャは危篤だとして、誰も近づけないようにする。それでしばらく時間を稼げる」
「お、おい。一体何を……？」
「あんたに頼みがある」
ザキは、持ってきていた革袋を差し出した。
「あんたの荷物だ」
「え？」
「こっちはサーシャの身の回りの品と、金も入れておいた。これを持って、サーシャを連れて逃げてくれ」
「な……っ!?」
「サーシャをどこか山奥の教会にでも隠して、静かな暮らしをさせてやってくれ。お祖父さまにとって邪魔なのは、『聖霊の神子』だ。サーシャが神子でなく、ただのサーシャになるなら、お祖父さまも捨て置くだろう」
「なぜそんな事を、俺に頼む？」
「俺が逃げようと言っても、サーシャは承知しない。だがあんたが連れて行くと言えば、きっと首を縦に振る」
ザキは見透かしたような顔で言った。
「…………」
「どのみち俺も後から行く。お祖父さまは、俺の手引きだとすぐ見抜くだろう」
「お前は、立場を捨てる気なのか!?」
「そうだ」
「……きっと、後悔する」
しかしザキは、ゆっくりと首を振った。
「祖国に尽くす軍人ならば、命令を聞くべきだと思う。兄の言う事が、間違っているとは思わない。だがそうしたら、俺は俺でなくなる。俺は、俺の誇りを失ってしまうんだ」
「誇り……？」
「そうだ。人には何のためであろうと、譲ってはならない一線がある」
長い間があった。やがてグレアムの口元が、柔らかく弧を描く。
「あんたを見てると、昔の俺を思い出す」
あの時死んでいれば。グレアムは何度そう考えたかしれない。忠誠を誓った殿下のために命を投げ出したなら、それはグレアムにとって、紛う事なき幸福だった。しかし、現実はそうならなかった。グレアムは目の前を流れる時間をただ見つめ、生き伸びる羽目になった。人の営みの外側で、一人取り残されて。それも全て殿下のためにした事――、否、それは、己の誇りのためだったのだ。
しかし孤独と絶望はいつしか心を蝕み、グレアムはすっかり忘れていた。今この時間は、二度と戻らない大切な時間だという事を。たとえそれが束の間にゆき過ぎ、忘れ去られてしまうとしても。
グレアムは月を見上げた。
――サーシャが、思い出させてくれた。
二十年前と同じ選択が、今、グレアムの前にあった。やりきれない結果となった、その選択が。正しかったのか、意味はあったのかと、自問自答し続けた選択が。
しかし。
「俺は、俺の成すべき事を成す」
グレアムは言った。口にした事で、やはり己はそういう人間なのだと、妙に納得した。
「我もだ」
鉄扉の向こうから声がした。二人は驚いて振り返る。ザキが慌てて扉を開けた。
「サーシャ！ 俺が手配を終えるまで寝ていろと、あれほど……！」
「考えがあるなどと言うから、何かと思えば」
サーシャは部屋に入り肩をすくめた。だいぶ顔色が良いのを見て、グレアムは安堵する。
「ザキ。我の身を案じてくれて、感謝している。だが我も、己が成すべき事を成さねばならぬ。――神子であるために」
サーシャはザキの両手を握った。
「神子である事を捨て、人の営みを行い生きてゆく。それは確かに、穏やかな人生だろう。だが、我の幸福ではない」
「サーシャ、聞き分けてくれ。毒殺が失敗したと分かれば、お祖父さまは次の手を打ってくる。きりがないんだ」
「ならば、俺たちの成すべき事は一つだ」
グレアムは言った。
「サーシャがここで安心して、神子の務めを果たせるようにする。将軍にも公爵にも、国民にも、サーシャこそが聖霊の神子なのだと認めさせ、この国に必要な存在だと知らしめる事だ」
「グレアム!!」
それまで我慢していた竜は、ついに堪えられなくなり、肩の上から怒鳴った。
「なんでお前が、そこまでしなきゃいけねえんだよ！ ヘタしたらお前だって……！」
竜はグレアムにそっと耳打ちした。
「お前が何をしたって、意味ねえじゃんか」
悲しげに呟く。
「皆、お前のこと、忘れちまうんだぜ……」
「分かってるさ」
グレアムは微笑んで、竜の背を撫でた。
「だがこれは――、俺の誇りの問題なんだ」
「なんだよそれ、ホコリって！ やっぱ人間、意味わかんねえ！」
竜はふてくされてそっぽを向いた。
「しかし。言うのは簡単だが、現実的に考えてどうするつもりなんだ？」
ザキもまだ、賛同できない様子だ。
その時サーシャが突然、悪戯を思いついた時の顔でにんまりと笑った。
「よし。ザキの言う通りここから逃げよう」
「え!?」
「サーシャ!?」
「ただし、山奥に隠れ住むためではない。レスコフという男を助けにゆくのだ」
「は!?」
ザキはぽかんと口を開けた。
「ヴェールを着けて、我が神子だと分からないようにして行けばいいだろう。彼が逮捕されてお祖父さまの思惑通りになる前に、こちら側に確保してしまうのだ。そしてお祖父さまから情報を得た事や、毒殺に関しては自分の仕業ではない事を証言させる」
「サーシャ。事はそんなに単純じゃない」
ザキは神妙な面持ちで言った。
「お祖父さまの計画を暴露する。そうしたらどうなると思う？ お祖父さまは失脚し、今度は逆にアルバロフ公爵が実権を握る。だがやはりこの国には、公爵と聖教会だけではだめなんだ。軍や組織を動かして現実的な政治を行うには、お祖父さまの力が必要だ」
「なるほど」
サーシャは眉を寄せた。
「両雄は並び立たねばならない、というわけか。さて、どうしたものか」
「だがその判断を下すのは、俺たちの役割じゃないだろう」
グレアムの言葉に、サーシャはハッと顔を上げた。
「そうだ。それは父上――、王の役割だ」
「レスコフの身柄を確保して、全てありのまま、国王陛下にご報告しよう。その後の事は陛下のご判断だ。……賢王と名高い陛下の事だ。きっと、懸命な沙汰をなさるだろう」
グレアムは静かに瞳を伏せた。
「よし」
ザキも心を決めた。没収されていたグレアムの剣を、荷物から取り出す。
「サーシャと一緒に行ってくれ、グレアム。お祖父さまと神殿の方は俺に任せろ」
ザキはグレアムに剣を差し出した。
「分かった」
グレアムは、愛用の剣をしかと握った。
「こっちだ、サーシャ」
夜闇の中、サーシャとグレアムは目立たない外套に身を包み、聖都の裏通りを足早に駆け抜けていた。
ザキはあの後すぐ将軍の元へ出向き、サーシャは重態だと報告した。聖霊神殿の神子の部屋では、影武者の兵士が、毛布を引き上げて寝台に横たわっている。暗殺を警戒しての策だとザキに説明された医療係は、伝染性の病かもしれない、などと触れ回り、誰も見舞いに近寄らせなかった。
夜明けと共に、近衛師団がレスコフ捕縛に向かう。ザキは討伐部隊のメンバーから、彼の潜伏先をうまく聞き出したが、時間はあまりない。
「サーシャ。身体の具合はいいのか？」
「もう平気だ」
熱はすっかり下がったようだ。顔色も良い。グレアムは安堵し、二人は先を急ぐ。やがてグレアムは、とある安宿の前で足を止めた。
「ここだ」
表向きはただの宿屋だが、二階はいかがわしい行為をするための貸部屋で、売春斡旋もしている店だった。
「サーシャ」
グレアムはサーシャを招き寄せ、外套のたっぷりした布で小柄な身体を包んだ。
「俺の胸元に顔を寄せるんだ。ええと、その、子供が甘えるような感じで……」
「こうか？」
サーシャは言われた通り、グレアムに縋りつくように身体を寄せた。
「よし。それでいい」
気恥ずかしさを悟られないよう、グレアムはぶっきらぼうに答える。店に入ると、カウンターにいる目つきの悪い男が顔を上げた。
「……二階で？」
男は天井を指差す。
「ああ。一番奥の部屋は空いてるか」
「ええ。どうぞ」
金を払い、グレアムは鍵を受け取った。
「ぷはぁ」
部屋に入ると、サーシャはグレアムの外套から顔を出して息をついた。そして物珍しそうに、室内をきょろきょろと見回す。
「なんだか暗い雰囲気の宿だな」
紫色のカーテンが閉められた窓を見て、サーシャは首を傾げた。
「あまり趣味が良くない」
「まあ、その……。ここはだな……、『恋愛ごっこ』をするための場所なんだ」
「なぜこんな場所で隠れて恋愛ごっこを？」
「ええと……」
グレアムはぽりぽりと頭をかいた。
「と、とにかく。今はそれどころじゃない」
「おお、そうだったな」
その時、隣から微かな物音が聞こえてきた。
「さてと、どうするか」
隣の部屋にいるのは、レスコフだ。ここが彼の潜伏先なのだった。
レスコフとどう交渉したものかと、グレアムは思案した。こちら側に身を委ねるよう、うまく説得しなければならない。だがレスコフにしてみれば、どちらにつこうが逮捕される事に変わりないのだ。
――近衛師団に捕まれば、やってもいない毒殺未遂の件まで罪を着せられる。それよりは、こちら側についた方が得だと強調して……。もし協力的でなければ、最悪の場合は……。
「グレアム。行くぞ」
思案に暮れていたグレアムがハッと顔を上げると、サーシャは外套を脱いでヴェールを下げ、部屋を出ようとしている。
「ま、待て、サーシャ！ 少し作戦を……」
「作戦もなにも、そのまま話をするだけだ」
「しかしだな、相手がどういう人間かによって、話の仕方ってもんが――」
そこでグレアムは初めて、自分がレスコフという男について何も知らないと気づいた。
狂信的なまでに敬虔な聖教徒で、「半分の神子」を認めず、暗殺しようと考えた、アルバロフ公爵家のやっかい者。グレアムが知っているのはそれだけだ。どんな性格や容貌なのか。人望や知性はどうなのか。話が通じる相手なのかも、分からない。
「相手の事を知らぬのだから、考えていても仕方ないだろう」
サーシャの考え方はとても単純だ。だがその単純さが、結局は功を奏するかもしれない。
グレアムはサーシャが身にまとう、清らかな装束に目をやった。このけばけばしい部屋にあまりにも不釣り合いなその装いを見れば、一目で聖職者と分かる。レスコフが信心深い男なら、聖職者の話には耳を傾けるかもしれない。少なくとも、いきなり乱暴なふるまいをする事はないだろう。サーシャが神子だと見破られない限り、危険は少ない。
グレアムは苦笑いして、腹をくくった。
「そうだな。じゃあ、正攻法でいくか」
「よし」
二人は廊下に出て隣室へ向かった。扉を叩くと、部屋の中で静かに椅子を引く音がした。
「どなたでしょうか」
扉の内側から聞こえた声は、凜として落ち着いていた。追われてこんな場所に身を隠す罪人の声とは、とても思えない。
サーシャは扉に向かい、丁寧に話しかけた。
「我は貴方を助けたいと願う、名もなき一介の修道士。火急の用件ゆえ、ぶしつけな訪問になってしまった事をお許し願いたい」
「修道士さま？」
扉の内側で、取っ手に手がかけられたのが分かった。しかし、まだ警戒しているようだ。扉は開かない。
「火急の用件とは、一体？」
「夜明けには近衛師団が来て、貴方を逮捕します。すぐ逃げなければいけません」
サーシャは言った。
「…………」
少しの間があった。
「……半分の神子は、どうなりましたか？」
涼やかな声が尋ねる。
「……重態で、床についています」
扉がゆっくりと開いた。
極端な宗教家という話から、グレアムは、屈強な体つきに険しい面差しの大男を想像していた。しかし扉の向こうから現れたのは、すらりとした長身の美青年だった。知的な口元に、涼しげな切れ長の青い瞳。質素な装いだが、上品な面立ちのおかげか、生まれの良さは隠しようもない。強い意志の光を宿す瞳だけが、全体の穏やかな印象を裏切っていた。
「お会いできて光栄です、レスコフどの」
サーシャは装束の裾をつまんでお辞儀をした。レスコフも柔らかな物腰で礼を返す。
「お訪ね下さり、ありがとうございます。これも聖霊のお導きでしょうか」
「レスコフどの。あまり時間がありません。どうか、我と一緒に来て下さい」
「逃げる、と仰いましたね。貴方がたは、『後援者』のお使いでいらしたのですか？」
レスコフは二人を交互に見た。
「『後援者』？」
「ええ。私と同じく、偽物の神子就任を阻止しようという志を持つ方です。何者かは存じませんが、私のためにこの隠れ家を用意し、『計画』を支援してくれました」
サーシャとグレアムは、目配せし合った。
「レスコフどの。貴方は利用されていたのです。『後援者』が貴方を助けたのは、全ての罪を貴方一人にかぶせるためなのです」
「ええ、そうでしょうね」
「は？」
平然と答えたレスコフに、サーシャはヴェールの下で目を見張った。
「どのように経緯をお知りになったかは存じませんが、恐らく貴方がたは私に同情し、逃げる算段を整えて下さったのでしょう。感謝いたします。しかし私は、逃げるわけにはまいりません」
レスコフはきっぱりと言った。
「し、しかし、レスコフどの。逃げなければ、貴方は無実の罪で近衛師団に捕らえられます。神子毒殺の犯人にされてしまうのです」
「私の力が及ばなかったので、後援者が手を貸して下さったに過ぎません。神子の就任を防ぐ事が私の望みだったのですから、それが叶うなら、私は罪に問われても不服はありません」
「貴方は……。初めから、後援者の思惑を見抜いていたのですね？」
「ええ。私は後援者に利用されたのではなく、私が彼を利用したのです」
「なぜ、そんな……」
「私の願いはただ一つ。祖国の人々が、正しい信仰に立ち還る事、それだけです。私は聖神の民として、正しい行いをしたと信じています。しかし人殺しの罪人なのもまた事実です。私の計画で多くの人が傷つきました。その罪は、償わねばなりません」
「レスコフどの……」
「私は逃げません。ここで近衛師団が来るのを待ちます。どうか貴方がたはもう行って下さい。ご親切は忘れません」
レスコフは微笑んだ。
その時だ。グレアムは外が騒がしいのに気づいた。窓に忍び寄ってカーテンの隙間から様子をうかがうと、
「あれは！」
宿の周りを一個小隊が包囲していた。兵たちは、翠色の制服に身を包んでいる。
「なぜ、聖騎士団が!?」
サーシャは目を見張った。
「アルバロフ公爵も情報を掴んでいたか。将軍より先に捕らえて――」
グレアムは思わず言葉を切り、レスコフの顔を盗み見た。公爵は密かに彼を始末し、事をうやむやにするつもりなのだろう。
「聖騎士団ですか？ 近衛師団ではなく？」
状況が飲み込めないレスコフは戸惑った。
「レスコフどの。後援者の目的は、聖教会の力を弱める事なのです。神子を亡き者にし、アルバロフ家出身の貴方を犯人として逮捕させ、公爵の権威を失墜させる。そして人々の心を、聖霊から遠ざけるのが狙いでした」
「な、何ですって!?」
レスコフは初めて動揺を見せた。
「そしてアルバロフ公爵の方は、そうなる前に貴方を闇に葬るつもりらしい」
「…………」
レスコフは俯き、拳を固く握りしめた。
「私の……、信仰を。そんな風に……！」
「レスコフどの。我は貴方を、公平な裁きの手に委ねたいと考えています」
サーシャは言った。
「どうか、我と一緒に来て下さいませんか」
しばしの沈黙の後、レスコフは胸に三本の指を当てて一礼した。
「貴方を信頼し、この罪の身を委ねます」
「ありがとうございます、レスコフどの」
サーシャも礼を返す。
グレアムは窓から様子を探り、突破できそうな箇所を探していた。しかし、周囲は厳重に包囲されている。
「強行突破するしかないか……？」
「いえ。店の地下に抜け道があるんです」
レスコフが言った。
「おお、なんと賢い」
「よし、行こう」
三人は一階へ下り、裏口の手前にある貯蔵室へ入った。レスコフが床の絨毯を剥がすと、落とし戸がある。戸を開けば地下への入り口がぽっかり口を開け、はしご段が下りていた。
「さあ、早く！」
三人は順にはしご段を下り、最後にグレアムが落とし戸の上に絨毯を乗せ、戸を閉めた。
地下道を駆け抜けて地上へ上がると、そこは一区画ほど離れた路地裏だった。三人はすぐさま大通りに向かい、人混みに紛れてからようやく歩調を緩めた。
「さてと。まずは身を隠さないとな。誰も手を出せない、どこかいい場所は――」
「では、『我が家』へご招待しよう」
サーシャが笑顔で言い放ち、グレアムは度肝を抜かれた。
「はぁ!? 我が家って、まさか」
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