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第十六章 誇り
「まさか、ここに隠れているとは思うまい」
ヴェールの下から、悪戯っ子のような含み笑いが漏れ聞こえた。
またしても地下道を通り、石蓋を上げて顔を出すと、そこは例の東屋だ。月明かりが、朽ちた大理石を照らしている。
「とりあえず、あそこに身を隠そう」
サーシャは、遠くに見える尖った屋根を指差した。聖霊神殿の奥深く、今はもう使われていない修道院がある。新しい修道院が建ってから、無人のままに放置されている建物だ。
「なるほど。うってつけだな」
三人は庭園の小道を修道院へ向かった。広大な聖霊神殿の中でも中心から離れたこの辺りは、まるで人里離れた山奥のようだ。しんと静まり返る中、梟の鳴く声だけが微かに聞こえてくる。だが幸いにも月の明るい晩で、夜道も難なく進む事ができた。サーシャは夜の散歩を楽しむように、軽やかな足取りで歩いていく。その後ろをレスコフが、辺りをきょろきょろ見回しながらついていった。
「私のような者が、尊い聖霊神殿に……」
感動しきりといった風で呟く。聖霊神殿の大聖堂より奥に入る事ができるのは、選ばれた者だけだ。信心深いレスコフにとって、これは大変な栄誉なのだった。
「……レスコフさん、聞きたい事がある」
並んで歩きながら、グレアムは尋ねた。
「あんたはなぜ、半分の神子が偽物だと、そうまで確信を持てるんだ?」
「聖神は愚かな我々にも分かりやすい形で、ご意思を示して下さいます。神子の御印である翠の瞳が半分だけというのは、不完全な神子だという、見た通りの意味なのです」
「なるほど……、な」
グレアムの心中は複雑だ。グレアムは、レスコフがあの村でした事を忘れたわけでも、許したわけでもない。レスコフに正当な裁きを受けさせ、罪を償わせたいという思いもあって、連れ出しに行った。しかしグレアムは今、この男が悪人だとはどうしても思えなかった。もしこんな出会い方でなければ、好感すら持っていただろう。
「あんたは自分の信念のために、大きな犠牲を払った。……後悔は、しないのか」
グレアムの問いかけに、レスコフは、腹の底から力を呼び起こすように深く呼吸した。
「私は幼い頃に両親と死別して、信心深い祖母に育てられました。親を恋しがる私に、聖霊がいつも私を見守ってくれると、祖母が教えてくれたのです。だから私はそれに恥じない人間でいられるよう、己を律する事を覚えた。それは私の根幹を成すものです。決して、譲れないものなのです」
背の高い樹々の向こうに、大聖堂の特徴的な丸屋根が見えてきた。白壁が月光を受けて銀色に輝き、技巧の粋を凝らした装飾の数々が、夜闇に美しく浮かび上がる。
「人目につくだろう。あまり近づかない方がいい、迂回しよう」
グレアムは言った。目指す修道院は大聖堂の先にある。
「大丈夫。夜間は出入禁止だ。誰もいない」
サーシャがそう言うので、三人はそのまま進んでいった。しかし建物に近づいたところで、グレアムはぴたりと足を止めた。聖堂の裏口に、黒塗りの馬車が止まっている。聖堂内からは微かに明かりが漏れていた。
「こんな時間に訪問者か? 一体誰だ」
サーシャはヴェールの下で眉を寄せた。
「この大聖堂は、聖霊神殿の要とも言うべき場所。そんな場所に通常の規則を無視して入れるのは、聖教会上層部の限られた人間だけだ」
「まさか……」
「突きとめねばなるまいな。行こう、横手に入り口がある」
三人は足音を忍ばせて壁沿いに進み、目立たない扉から中に入った。使用人が使う通用口らしく、幅の狭い廊下が奥へ続いている。
「こっちだ」
サーシャを先頭にして進み、二階へ上がると、そこは豪華な赤い絨毯が敷かれた回廊だった。天井にも壁にも贅を尽くした装飾がなされ、聖教に関連した美術品があちこちに飾られている。レスコフが感嘆のため息をついた。
回廊には等間隔で両開きの扉が並んでいる。
「ここから階下をのぞいてみよう」
それは高貴な人々が式典に参加するための桟敷席で、階下の様子が見渡せる造りになっている。三人は身を乗り出して、聞き耳を立てた。
階下には、三人の男がいた。
聖職者の装束をまとう老人は、この聖霊神殿の長である大司教だ。どこかおどおどした態度で、祭壇の脇に所在なく立っている。
その隣に、堂々たる風格の男がいた。すっと伸びた背筋に、気品ある出で立ち。窓からの月光を吸い込むような黒髪。思った通り、それはアルバロフ公爵その人だった。
そしていま一人、祭壇から少し離れた場所で、小柄な男が床に膝をついている。遠目にもどこか、人品卑しい人物と分かる。
「なんだ、あれは」
サーシャは目を見開いた。男は床に大きな魔方陣を描いているのだ。
「まだなのか?」
ふいに、低音の良い声が聞こえた。アルバロフ公爵だ。
「もう少しです」
魔方陣を描く小男は手を動かしつつ答えた。
「閣下。その……」
大司教が、おずおずと進み出る。
「本当に、良いのでしょうか。魔物を召喚するなどと」
「目的のために使役するだけだ」
アルバロフ公爵はきっぱりと言った。二階の三人は顔を見合わせる。
「魔物を召喚だと?」
「一体、何をする気なのでしょう」
その時、一心に魔方陣を描いていた男が、顔を上げて立ち上がった。
「完了です」
男はちょうど燭台の側で立ち上がったので、グレアムにはその顔がよく見えた。
「――!!」
グレアムの喉元から、小さな叫びが上がる。
「グレアム! あいつ、もしかして……!」
竜がグレアムに耳打ちした。
「ああ、間違いない。あの魔術師だ……」
それは忘れるはずのない顔だった。二十年前のあの日、召喚した魔物を後に残し、逃げていった魔術師。だいぶ歳をとっているが、間違いない。
「こんなもので魔物が呼び出せるのか?」
アルバロフ公爵が、訝しげな声音で聞いた。
「もちろんです。閣下のご要望通り、街で大暴れさせてみせますよ」
「死者は出すな。建物を壊す程度に留めろ。魔物の脅威を派手に見せつけるだけで良い」
「分かりました。なあに、以前もやった事があるんでね、心配無用です」
「神子暗殺を企み近衛師団に潜入していた男が、追い詰められて逃亡のため魔物を召喚した、という筋書きだ。魔物との友好関係を訴えていた将軍の評価は、これで地に落ちる」
公爵は言った。
「そして信頼を失った近衛師団に代わり、聖教会所属の聖騎士団が魔物を殲滅して街を救う。これで神子さま亡き後も、民の心には、聖霊と聖教会の存在が刻み込まれる事だろう」
「成功しましたら、謝礼の方は何とぞ……」
「分かっている」
アルバロフ公爵は嫌悪感を露わにし、魔術師に一瞥をくれた。そして、まだ何か言いたげな大司教を横目で睨む。
「貴殿は、聖教会がどうなっても良いとのお考えか?」
「い、いえ、決してそのような……!」
「レスコフを取り逃がしたのが痛手だった」
公爵は、ため息まじりに呟いた。
「奴が将軍の手に落ちれば、アルバロフ家は力を失う。神子さまを失って民の心も信仰から離れ、今や誰が聖教会を守る?」
「…………」
「向こうがこちらを潰しにかかるなら、受けてたたぬわけにはゆかないのだよ」
公爵は、どこか憂いを含んだ声音で呟いた。しかし次の瞬間には、毅然として頭を上げる。
「――それが私たちの宿命で、役割なのだ。さあ、始めろ!」
「はい」
魔術師は魔方陣に向かい、両腕をかざした。
「そこまでだ!!」
祭壇脇の扉が、大きな音を立てて開いた。魔術師は度肝を抜かれ、腕を上げたまま立ちつくす。
「アルバロフ公爵よ。早まるな」
サーシャはレスコフとグレアムを後ろに従え、聖堂に入っていった。
「誰だ!?」
公爵が鋭い眼光でサーシャを睨む。
「我こそは――、聖霊の神子!!」
サーシャは顔のヴェールを勢いよく跳ね上げた。現れた二色の瞳に、公爵は目を見張る。
「まさか!? 神子さまは危篤だと……!」
「見ての通り、我は元気いっぱいだ」
サーシャはにっこりと笑った。
「それに、レスコフどのもここにおられる」
背後のレスコフを指し示すと、レスコフは唖然としてサーシャの顔を見つめていた。
「あ、貴方が、半分の神子なのですか!?」
「いかにも。黙っていたのは申しわけない」
「し、しかし! だからといって……、貴方を認めるかどうかは……!」
「うん。それはさておき」
サーシャは公爵に向き直った。
「アルバロフ公爵。ご覧の通り、そなたの悪しき計略は不要だ」
「……神子さま」
アルバロフ公爵は、厳しい顔つきでサーシャを見た。
「失礼ながら、貴方は少々勘違いをなさっておられる。それは、神子の役割ではありません。神子は俗世の事情から隔絶された、清らかな存在であるべき。そのために聖教会の守護者たる、我がアルバロフ家があるのです」
「勘違いと言うなら貴殿も同じではないか」
サーシャは言い返した。
「この国をどの方向へ導くか。それを決める役割は、誰のものだ?」
「私は他者の力など欲していません」
公爵は静かに言った。
「私の望みはただ、己の役割を果たす事。そして私の役割は、均衡を保つ事。アルバロフ家もグラングール家も、どちらも権力を独占してはならないのです」
「ならばこの件は、国王陛下に委ねる。将軍家と公爵家、この対決は痛み分けだ」
「……なるほど」
公爵は、口元に微かな笑みを浮かべた。
「『半分の神子』どのは――、見かけ通り、半分は世俗に染まった神子と見受けられる」
「我は、この片目をつぶるつもりはない」
サーシャは言った。
「人の営みをこの両眼でしかと見届け、聖霊に伝える。そして時に愚かしい我らの営みを、見守って下さるよう祈る。我はそういう神子になりたいと思っている」
「…………」
そこへ、聖堂の外から大勢の足音が聞こえてきた。異変に気づいた神殿内の近衛師団と、聖騎士団が駆けつけたのだ。
「――!!」
聖堂の正面扉が押し開かれた瞬間、サーシャは思わず居住まいを正した。
先頭に立って入ってきたのは、堂々たる巨躯の男だ。背後にザキやミラン中尉、近衛師団の面々を従え、ゆっくりこちらに歩いてくる。その足取りだけでも人を威圧した。
後に続けて聖騎士団、そして神殿の聖職者たちも、何事かと聖堂に入ってきた。
「お久しぶりです、お祖父さま」
サーシャはグラングール将軍に、丁寧なお辞儀をした。
「なぜ、聖霊神殿に?」
「偶然にも、孫の見舞いに来ていてな」
将軍は平然と答えた。
「もっとも、重態で床にいるはずの孫は、別人にすり替わっていたが」
将軍はアルバロフ公爵をじろりと睨んだ。
「宗教家が何やら策を巡らせたようだな。歌って祈れば民が幸福になるなら、王も軍もいらぬわ」
公爵も負けじと将軍に向き直る。
「人々から心の拠り所を奪い、目先の利益と力だけを追い求める。そんな荒んだ国で、どうして民が幸福に暮らせようか」
国家の守護者たる双頭の鷲は、黙して睨み合った。
一方、邪悪な魔術師は、まずい状況と思ったのだろう、抜け目なく辺りを見回している。
「逃がさねえぞ」
魔術師はぴたりと動きを止めた。背中に剣が突きつけられる感触。そっと肩越しに振り向けば、冷たい笑みを浮かべた男が立っていた。どこか、見覚えのある顔だ。
「お、お前は!?」
「あの時は、世話になったな」
グレアムは、声を抑えて囁いた。
「これはこれは。偶然の再会というやつか」
「今度はあの時のようにはいかない。さあ、大人しくしていろ」
しかしグレアムの言葉に、魔術師は下卑た含み笑いを漏らした。
「もう遅い」
「……何?」
その時床に描かれた魔方陣が、禍々しい、青い光を放ち始めた。
「なんだあれは」
「何か光ってるぞ!」
人々が口々にざわめく。
「ふふふ」
魔術師は笑った。
「貴様、一体何を!?」
突然、魔方陣から噴水のように光が吹き上げた。光は吹き抜けになっている聖堂の天井まで届き、聖霊を描く天井画を照らした。まるで、聖伝にある聖霊の降臨さながらだ。
「うわあっ」
「な、なんだ!?」
どよめき慌てる人々をよそに、グラングール将軍は、一人静かに魔方陣を見つめていた。と、その鋭い目がきらりと光る。
「総員、戦闘配置!」
広い大聖堂の隅々まで響くその声に、右往左往していた近衛師団員たちの表情は一変した。全員が素早く一カ所に集まり、隊列を組む。
「聖騎士団! 皆様方をお守りしろ!」
アルバロフ公爵の命に、聖騎士団も聖職者たちを庇いつつ下がらせた。
そうしている間にも、魔方陣から放たれる光はどんどん強くなる。どおん、と、地の底から響くような地鳴りが大聖堂を揺すった。そして闇のような光に包まれた魔方陣の中心に、恐ろしい姿が浮かび上がる。
「なっ!」
「なんだっ!?」
人間の二倍ほどもある巨体は、黒い鱗に覆われている。頭部には曲がりくねった角が生え、背に禍々しい翼を備えるその姿は――。
「あ、あれ、は……」
グレアムは、かすれた声で呟いた。身体が凍りついたように、動けない。
それはあの日の魔物だった。
「さあ! 殺せ、壊せ!」
魔術師は高らかに笑いながら魔物に命じた。かぎ爪の生えた黒い手が、祭壇をなぎ払う!
「危ない!」
側にいたサーシャは咄嗟に伏せた。祭壇を飾る燭台や聖杯が音を立てて砕け散り、色とりどりの花が光の中で宙を舞う。
「サーシャ!」
ザキが駆けつけ、サーシャを背に庇いつつ逃した。グレアムも走り寄ってザキと並び、魔物と相対する。黒い両腕が二人に伸びた!
「でやああっ!」
「はあっ!!」
魔物の腕を狙い、二人は左右から同時に斬りかかった。しかし刃は固い鱗に阻まれ、弾き返される。嘲るような魔物の咆哮が響いた。
――やはり、だめか!
魔物は両腕を大きく振って、身体をくるりと半回転させた。二人は腕に弾き飛ばされ、壁に背中を打ちつけた。
「うわあっ!」
「ぐっ!!」
様子を見ていた将軍が、命令を下す。
「第一分隊、突撃!」
十二名の兵士が勇ましい声を上げ、魔物に向かった。しかし半数は魔物の間合いに入るやいなや、なぎ払われてしまった。その中で一人の若い兵士が、うまく魔物の胸元に飛び込み、剣を突き立てた!
「やった!」
兵士の顔に笑みが零れる。しかし魔物は胸に剣を刺したまま、兵士の首根っこを掴んで放り投げた。兵士はグレアムのすぐ側まで飛んできて、床に叩きつけられた。
「ぐぅっ」
兵士は床に転がって苦しげに呻く。
背中の痛みに朦朧とした意識の中で、グレアムはその光景を見つめていた。
――同じだ。あの時と。
魔物は胸から剣を引き抜き、悠然と投げ捨てた。そしてかぎ爪を光らせて、残りの兵たちに襲いかかった! 兵たちは機敏にかわしつつ隙を狙うが、ひらひらと蝶が舞うように動くかぎ爪は、彼らの身体を少しずつ刻んでいった。血の匂いが辺りに漂う。
「――待て! 近づくな!!」
ようやく意識がはっきりしてきたグレアムは、夢中で叫んだ。剣を引っ掴んで起き上がり、将軍に駆け寄る。
「将軍! 兵を引かせて下さい。あいつは人の手に負えません!」
「あの魔物を知っているのか?」
「は……、はい」
グレアムは思わず姿勢を正した。
「一度、対峙した事があります。その際、一個中隊が自分を除いて全滅しました」
グレアムは将軍に訴えた。
「将軍! どうか撤退を!」
――もう二度とあんな事は。ニケヤ、皆……。
しかし将軍は、冷静な態度を崩さなかった。
「その判断は、私が下す」
魔物を威嚇して足止めしろと分隊長に命じ、将軍はグレアムに向き直った。
「グレアム・エルデンとか言ったな。あの魔物について、知っているだけの情報を」
「……全身が硬い鱗に覆われて、剣で斬る事ができません。心臓の位置が人間と違うらしく、胸を突かれても平気です。自分は短剣で喉を突いて打撃を与えましたが、それも致命傷にはなりませんでした。飛ぶ事もでき、物理的な攻撃以外に魔術も使います」
「なるほど。攻撃力は甚大、かつ不死身に近い化け物というわけか」
将軍は眉一つ動かさずに呟いた。
「将軍! どうか彼らを撤退させて下さい! このままでは無駄死にです!」
グレアムは背後で戦う兵士たちを指差し、悲痛な声で訴えた。
将軍はしばしの間思案していたが、唐突に、アルバロフ公爵に向かって叫んだ。
「セイン! 神子をここへ連れてこい!」
将軍が公爵をファーストネームで呼ぶのを聞いた者たちは、仰天した。アルバロフ公爵は、ふん、と鼻を鳴らしたが、目線でサーシャを促して一緒に将軍の元へ向かった。
「苦しくなった時だけ私を頼るか。相変わらず身勝手な男だな、ジョイ」
「事態の収束と聖都の防衛が最優先事項だ」
将軍は顔色一つ変えずアルバロフ公爵に答え、サーシャに言った。
「サーシャ。魔封じのチャントを唱えろ」
「えっ?」
「聖霊の神子に伝えられる秘伝の一つに、魔力を抑えるチャントがあるだろう。お前が詠唱し、修道士たちも続けて唱えるのだ」
「お祖父さま。あれは単なる祭礼用のもので、実際に効果があるわけでは……」
それはまだ魔と人が敵対していた時代の名残として、今に受け継がれているものだった。
「ある」
将軍は、確信めいた口調で言った。
「ほう。ずいぶんと詳しいな?」
公爵が、からかうように言う。
「敵でも味方でも、まずは相手を良く知らねばな」
「ですが、お祖父さま……」
サーシャが躊躇っていると、竜がサーシャの肩に飛び乗った。
「たぶん効果あるぜ」
「本当か、竜どの!?」
「うん」
竜は頷く。
「人間がさぁ、なんかすっごい一生懸命、信じてる時あんだろ。それ、俺たち魔族には嫌なんだよ」
「信じている時……?」
「うん。俺ら、そういうのないもん。だから人間がきれいな石みたいに見える時……、ちょっと怖い」
「チャント自体に力があるのではない」
将軍が言った。
「その竜の言う通り、チャントを唱える事は、己の信を表現するという事だ。信を持ち、それを他者に伝えようと口にする。その心と行いが、力を生むのだろう」
将軍は、一歩後ろに退いた。
「お前が本物の神子なら、効果があるはずだ」
「本物の、神子なら……」
サーシャはきりりと唇を引き締めた。
「竜どの。外へ出ているが良いだろう」
「俺は平気だぜ。……あんたがやるんなら」
竜は肩の上で、陽気に尻尾を振った。
「そうか。では」
軽く息を吸い込むと、サーシャは声高らかに、魔封じのチャントを詠唱し始めた。
「――――!!」
凄まじい声量が、まるで稲妻のように聖堂を貫いた。驚愕した人々が一斉に視線を注ぐ。
魔封じのチャントは、人の耳には歌にも祈りにも聞こえた。声のようであり、また音のようでもあった。時に大きくなり、小さくなり、高くなり、低くなった。単純な四つの変化が、多様で美しい旋律を紡ぐ。
「グウォオオ……」
魔物が身を捩った。まるで見えない何かが身体にまとわりつき、煩わせているようだ。
「さあ! 神子さまの後に続けて!」
大司教の声に、神殿の聖職者たちは一斉にチャントを唱え始めた。大司教も一際張りのある、良い声で加わる。全員がサーシャの詠唱に数拍遅れて同じパターンを繰り返し、魔封じのチャントは輪唱となって大聖堂を震わせた。その荘厳な響きは人の耳には大変心地良いものだったが、魔物には違うらしい。魔物は動きを止めておののいている。
「ヴ……ヴヴ…」
「第三分隊、突撃! 首を狙え!」
将軍が命を下した。
「でやああああっ!」
勇ましいかけ声と共に、第三分隊の面々が魔物に挑む。古参の一兵士が抜きん出て、魔物の間合いにいち早く飛び込んだ!
しかし、魔物もそう易々と屈しなかった。後一歩で剣が喉元に達するというところで、兵士はなぎ払われて床に叩きつけられた。
「ぐぅっ!!」
しかし兵士はよろめきながらも起き上がり、体勢を立て直す。
――力が、弱まっている?
グレアムは信じ難い思いで目を見張った。
――動きも、さっきよりずっと鈍い。
手柄を独占させてなるものかと、第三分隊の兵たちは奮い立った。各々の渾身の一撃が、次々と魔物を襲う。だがやはり、喉元まではなかなか届かない。
「グウアアアァァ!」
チャントをかき消そうとするかのような、凄まじい咆哮が轟いた。さしもの勇敢な兵たちも、一瞬怯む。その隙をつき、魔物は宙に印を結んだ。印から黒い炎が放たれて、兵士たちに襲いかかる!
「ああっ!」
サーシャの肩で、竜が悲痛な声を上げた。
――我は、なんと非力なのか。
詠唱するサーシャの声が、少しだけ震えた。
――聖霊の神子などといっても、結局、国を守るのは力なのか……?
サーシャは兵士たちを見つめた。倒れてもまた起き上がり、魔物に向かう者もいれば、呻き声を上げ、起き上がる事のできない者もいる。
――たとえそうだとしても。大きな力の影には必ず、傷つき見向きもされぬ者たちがいる。
竜が何か呟いていた。聞けばサーシャと一緒になって、チャントの真似事を口ずさんでいるのだった。サーシャはその背を撫で、一層声を張り上げた。
――ならば我は、力ではできぬ事をしよう。この半分の御印で、顧みられぬ人々を見つめ、その物語を聖霊に伝えよう。彼らの一人ひとりに、聖霊がご加護を下さるように。
「第四分隊、突入!」
新たな兵士たちが魔物に向かう。
――皆がこの国の幸福を願っている。あの兵士たちも、民も、父上も。お祖父さまも、公爵どのも。一人が全てを担う必要はないのだ。皆でやればいい。皆がそれぞれの役割を果たせば、きっと……。
サーシャは瞳を閉じた。チャントの響きと禍々しい炎が、まるで競り合うかのようだ。炎の勢いで中々魔物に近づけない第四分隊の兵たち、そしてグレアムもザキも、聖堂にいる者は皆、固唾を呑んでその対決を見守った。
「おい、貴様」
いつの間にかグレアムの背後に立っていた魔術師が、耳障りな声で耳打ちした。グレアムは、ぎくりとして振り返る。
「取り引きしないか?」
魔術師はにやりと笑った。
「取り引きだと?」
「あの魔物に加勢して、俺をここから逃がせ。そうしたら、貴様にかけた術を解くよう、あいつに取りなしてやろう」
「な……っ!」
「もう嫌だろう? 忘れられて、一人きりで彷徨うなんてのはよ……」
魔術師は勝ち誇ったように、下卑た笑みを浮かべた。グレアムはきつく唇を噛む。
サーシャの澄んだ声が耳に届いた。もうずいぶん詠唱を続けているが、その声は衰えるどころか、次第に力強さを増していく。
「サーシャ……。サーシャ」
グレアムはその名を、まるで祈りのように口にした。その姿を瞳に焼きつけるように、瞬きもせず見つめる。
「気にする事はねえだろう。どうせ皆すぐに忘れちまうんだ。その後で術を解けばいい」
魔術師は囁いた。
グレアムは、大きく深呼吸をした。そして、将軍の前に進み出た。
「将軍。自分に行かせて下さい」
「お前が?」
将軍はグレアムを睨んだ。
「流れ者の剣士風情が、近衛師団でも苦戦する相手に挑むと言うか」
「自分は――、」
グレアムは親指と人差し指、中指の三本を、掌を内側に向けて胸の前で立てた。
「自分は、ここにおわす聖霊の神子さまに相応しい剣士だと、証明してみせます!」
「ほう」
将軍は、にやりと唇を歪めた。
「許可する。グラングール大尉、援護を」
「はいっ!」
ザキはグレアムに駆け寄った。
「グレアム。俺があいつを引きつけるから、お前は首を狙え!」
「頼む、ザキ」
二人は剣を構え、魔物に歩み寄った。
――また月が巡る。
グレアムは肩越しに、ほんの一瞬、サーシャを振り返った。
――全て忘れ去られるとしても。サーシャ、俺はお前と、そして俺自身に証明しよう。
「……天にありて地におわす我らの聖霊よ。我、汝らを讃えん。海を越え天駆ける聖霊よ、いと高き聖神に、我の祈りを届けたもう。尊き御名の元に、今、我に力を与え給え……」
――我の成す事を見届け給え、聖霊よ!
炎をものともせず飛び込んだザキに、魔物は一瞬気を取られた。剣が魔物の鱗を破り、腕に突き刺さる!
「グゥオオッッ!!」
「グレアム! 今だ!」
間髪入れず、グレアムは魔物の懐に飛び込んだ。喉元で横に払う剣。同時に凶暴なかぎ爪がグレアムを襲う! 次の瞬間、まるで花火のように、辺りに鮮血が飛び散った。魔物の首は宙高く跳ね上がり、その巨体が崩れ落ちる。グレアムは勢いで投げ出され、捨てられた人形のように床を転がった。
「おい貴様、分かってるのか!? こいつを殺したら、もう誰にも術は解けねえんだぞ!?」
魔術師が怒鳴る。
「ふふっ」
グレアムは苦しげな息づかいの下で笑った。
「ど、どうして笑いやがる……?」
「満足だから、さ」
震える手が、サーシャを指差す。
「俺の、神子が……。あそこで見守っていてくれた。俺が成すべき事を、成したのを」
霞む瞳に、駆けてくるサーシャが映る。
「あの術はな……、人に忘れられる術なんかじゃ、なかったのさ……」
「へっ?」
「どうせ忘れられるからと、投げやりに日々を送るのに慣れてしまうこと。やがては良心を失い、自ら誇りを手放すこと。あいつはそれを待っていた。それこそが、あいつの喰らいたかったものなのさ……」
グレアムの指先が力を失い、床に落ちた。
「――グレアム! グレアム!!」
沈みゆくグレアムの意識の中で、名を呼ぶサーシャの声が、次第に遠ざかっていった。
ともだちにシェアしよう!