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第十七章 神子就任式

「お祖父さまが到着されたようだ」  サーシャが窓の外を指差した。ザキも紅茶の杯に伸ばした手を止め、外を眺める。  聖霊神殿正面の鉄門をくぐり、重厚な黒い馬車がゆっくりと入ってきた。青地に黄金の獅子と狼があしらわれた紋章で、グラングール家の馬車と分かる。予定された神子就任式の警備責任者であるグラングール将軍は、今日これから行われる打ち合わせに出席するため、聖霊神殿に出向いたのだった。 「本当に、これで良かったんだろうか」  ザキは呟く。  大聖堂での騒ぎの後、国王陛下はサーシャを私室に呼び事情を聞いた。二人の間でどのような会話が交わされたのか、ザキは知る由もなかったが、将軍と公爵には共にお咎めなしとの結論が出た。レスコフはしばらくの間、聖霊神殿の修道院に身を寄せる事となった。  グレアムの怪我はひどいものだったが、命に別状ないと医者は言い、サーシャとザキを安堵させた。今はまだ寝床から動けないが、数日間安静にしていれば起きられるとの事だ。  魔術師は多くの余罪が発覚し、監獄に繋がれた。 「お祖父さまはレスコフ派と通じ、神子の暗殺を企んだ。公爵にしても、建物を壊そうとしただけとはいえ……」 「なに。街は無事だし、神子は苺を食べ過ぎて腹を壊しただけだ」  サーシャは笑顔を見せた。 「将軍も公爵も、この国に必要な人間だ」 「まあ……な」  常に最悪の事態を想定するザキは、心穏やかでなかった。サーシャの前途は多難だ。将軍もさすがに暗殺は断念しただろうが、聖教信仰と、その象徴である神子を疎んじている事には変わりない。アルバロフ公爵にしても、サーシャを苦々しく思っているようだ。  将軍の馬車に続き、アルバロフ公爵家の馬車が門をくぐった。ザキは険しい表情でそれを眺める。 「では、就任式は延期という事で……」  大司教は、白い口ひげの下で唇を結んだ。  就任式の予定は三日後。しかし会場となるはずだった大聖堂は、魔物のおかげでひどい有様だ。長らく神子の到着を待ち侘びていた聖霊神殿の人々は、一刻も早く、サーシャの頭上に聖霊のティアラが輝くのを見たかった。しかし、重要な式典は大聖堂で行うのが伝統だ。修理が終わるまで、就任式は延期するしかない。聖職者たちはため息をついた。  その時誰かが戸を叩いた。神官が扉を開けると、なんとそこにおわしたのは神子さまだ。 「神子さま!?」  大司教は驚いて、思わず立ち上がった。  打ち合わせが行われているのは、ここ聖霊神殿の中でも雑務を行う建物だ。正面入り口に近く、聖職者以外の雑多な人々も出入りする――、つまり俗世に近い場所で、通常、神子さまが立ち入る区域ではない。神子さまは神殿の一番奥で神秘のヴェールに包まれ、鎮座しているべき存在なのだ。  わざわざこんな所まで出向かれるとは、もしやお世話に何か不備があり、お怒りなのかもしれない。大司教は慌てた。 「神子さま! 一体……!?」 「なに、我も話し合いに参加したいと思ってな。就任式の事で、少し考えがあるのだ」  にこにこ笑うサーシャとは対照的に、後ろに控えたお付きの修道士は、はらはらした顔で見守っている。大司教も戸惑った。 「神子さま、そういった雑事は我々が……」 「いやなに、式典を広場で行ったらどうかと考えただけなのだ」  サーシャは、名案とばかりに胸を張った。  聖霊神殿の敷地内で、大聖堂とそれより奥は、聖職者および聖騎士団、そして特別許可された者しか立ち入る事ができない決まりだ。しかし大聖堂の前は大きな広場になっていて、ここまでなら一般の人々も出入りできる。聖堂の二階前面には、広場に向けて張り出した大きなバルコニーがあり、式典などの折に人々はここで聖職者に拝謁を賜るのだ。 「ひ、広場で!?」  サーシャの提案に、大司教は目尻の皺が伸びるほど瞳を見開いた。 「そうだ。壊されたのは大聖堂の内部だけで、幸いな事に外側のバルコニーは無事だ。だからバルコニーで式典を行い、人々に広場で見てもらえば良いのだ。それなら延期もしなくてすむ」 「とんでもありません!」  大司教は頬を赤くして身を乗り出した。 「聖霊の神子就任式は、聖教会の最も重要な式典の一つです。それを屋外で、しかも一般に公開するなど、過去に例がありません!」 「大切なのは過去ではなく、『今』だ」  サーシャは言った。 「聖霊はいつも我々に寄り添い、見守って下さる。だが今、多くの人々がその事を忘れている。そういう人々と聖霊の間に再び絆を結ぶ、それこそ神子の本分ではないか?」 「…………」 「大司教どの」  サーシャは大司教の、信仰に身を捧げた長い年月が刻まれた、その手を取った。 「我は神子の役割に、この身を捧げる覚悟ができている。必要ならあえて慣例を破り、新しい事も試みようと思う。苦難の道になるかもしれぬが、どうかこれから先、我を支えてくれないだろうか?」  二色の瞳が、歳老いた求道者を見つめた。 「……私はこの長い年月、どれだけ首を長くして待っていた事か」  大司教は、新たな時代を担うその若々しい手を、力強く握り返した。 「ようやくお生まれになった聖霊の神子さま。私の代で貴方をこの聖霊神殿にお迎えできて、どれほど幸福か。それが、このように破天荒な神子さまであるとは」 「失望したであろうか?」 「いいえ。今この時代に貴方を遣わして下さった聖神の御心に沿うよう、この老体、できる限りの力を注ぎましょう」 「……ありがとう、大司教どの」  アルバロフ公爵は、黙って成り行きを見守っていた。サーシャと公爵、二人の目が合う。 「公爵どの、ご意見はいかがでしょうか」 公爵の口元に、微かな笑みが浮かんだ。 「神子さまは、何を成すべきか理解しておられる。何も申しますまい」  そんな経緯があり、神子就任式は場所を広場に変更して、予定通り行われる事となった。  就任式の朝。グレアムはまだ痛む肩と足を庇いつつ、どうにか起き上がって大聖堂の脇にある礼拝堂へ向かった。二階のテラスに上がると、式典の舞台となる聖堂のバルコニーも、広場の様子も一目で見渡せる。 「特等席だな!」  竜はテラスの手すりに飛び乗って、巨大な広場を見回した。まだ朝も早いというのに、既に見物客が集まり始めている。式典が始まる正午には、人で埋め尽くされるだろう。 「あいつ、人気者だな!」 「全員が敬虔な聖教徒ってわけじゃないさ」  グレアムは言った。 「ほとんどの連中は、ただ物珍しい事をやるからって、見物に来るだけだろう」 「なーんだ。あいつがっかりするかな」 「いいや。あいつなら――、」 グレアムは笑った。 「関心のない人間がこんなに来てくれた、って喜ぶんじゃないか」 「…………」  竜は、グレアムの横顔を静かに見上げた。 「なあ、グレアム」 「なんだ」 「よかったのかよ?」 「何が」 「あの魔物、やっつけちまってさ。術者が死んだら、もう術を解けるやつは……」 「そうだな」  グレアムは、テラスの手すりに両手をついた。その瞳がどこか遠くを見つめている。ライオンのたてがみのような金茶色の髪が、風になぶられて額にかかった。 「……今夜、発つからな」 「……うん」  竜は空を見上げた。今夜は、満月だ。 「グレアム! こんな所に!」  サーシャが足取りも軽く、テラスへやって来た。 「まだ寝ていなければだめではないか」 「そうはいくか」  グレアムはサーシャに近寄り、背を撫でた。 「……見届けて、やらなきゃな」  微笑むサーシャに、グレアムは目を細める。 「神子さま、そろそろお支度が……」  お付きの修道士は時間を気にしていた。 「おお、すまない。ではな、グレアム」  サーシャが踵を返した時、 「ちょっと待てよ」  竜が呼び止めた。サーシャの前にふわりと舞い降り、小さな手を差し出す。 「これやる」  その手には、輝く翠色の石があった。 「これはお前の、きれいな石ではないか?」 「そうだ。でもやる!」  竜は胸を張った。 「だが、大切な物だろう?」 「きれいな石はとっておくためじゃなくて、使うためにあるんだ。お前にやる」 「……そうか」  サーシャは微笑んで、その石を受け取った。 「では、遠慮なく頂いておこう。ありがとう、竜どの」 「いいってことよ!」  竜は尻尾を振った。そして、手を振って歩き去るサーシャの後ろ姿に、小さく呟いた。 「……思い出だ」      大聖堂のバルコニーを舞台にし、式典が始まった。見上げれば春の空は青く晴れ渡り、この良き日を祝福しているようだ。心地良い春風が頬を撫で、サーシャは、やはり屋外での決行は名案だったと自画自賛した。  アルバロフ公爵がバルコニーの右側、そしてグラングール将軍が左側に立って見守る中、式典は大司教の挨拶に始まった。伝統的なしきたりの数々が順次執り行われ、いよいよ就任式の中で最も重要な儀式、国王による就任宣言の段になった。国王が国民に向けて新たな神子の就任を宣言し、神子に祝福の言葉を述べる儀だ。そして代々受け継がれてきた聖霊のティアラを、神子の頭上に献上する。  バルコニーへの扉が開かれた。豊かな金の髪をなびかせて、この国を背負って立つ男が今、民の前に歩み出る。  重く力強い足取りから溢れる王者の風格と威厳、だがその面差しは慈愛に満ちている。相反するものを同時にまとう稀有な人間には、その豪奢な衣装も王冠もただの飾りでしかない。積年の重責は口元に微かな皺を刻んでいたが、年齢よりもずっと若々しく、溌剌とした瞳は面前に立つ者に力を分け与えた。  王の登場に、警備の兵も聖職者たちも、そして見物の人々も、皆一様に姿勢を正した。 「余の民よ、」  よく響く太い声が、バルコニーの上から人々に呼びかけた。 「聖神の導きにより、我らは今日ここに、長らく不在であった聖霊の神子を再び迎える事ができた。余は民と共に、この喜びを分かち合いたいと思う」  広場からは、大喝采――とはいかなかった。戸惑うような、まばらな拍手が起こっただけだ。バルコニーの隅で警備に立つザキは、サーシャの厳しい立場を改めて実感した。今ここにいる人々のうち果たしてどれくらいが、「半分の神子」の就任を、心から祝福しているのか。思っていたよりずっと少ないかもしれない。ザキは唇を噛んだ。  だが王は、そんな反応を意に介さないように言葉を続けた。 「民の多くは、『半分の神子』の存在に、戸惑っている事と思う。また我が国の政治と聖教の関わり方について、疑問を呈する声もある――」  まるで市井の者が家族と話すように、率直な調子で、王は禁句を口にした。人々の間からどよめきが上がる。王は人々の動揺が収まるのをしばし待ち、話を続けた。 「余は今こそ、民の懸念に答えようと思う。この場を借り、半分の神子がどのようにして我らに遣わされたのか、それを語ろう」  儀式は型どおりの手順で終わるものと思っていた人々は、予期せぬ成り行きに、互いに顔を見合わせた。国王はそんな民の一人ひとりに眼差しを注ぐように、広場を埋め尽くす人々に目線を走らせた。 「二十年の昔、若き身で王として君臨した余は、考えていた。どうすれば我が国が、『永久に』、平和で幸福な国でいられるのか、と」  人々は固唾を呑んで王の答えを待った。永久に続く平和と幸福、それこそ全ての人々が願ってやまないものだ。それを望まない者など、いるだろうか? しかし王が口にしたのは、人々が思いもよらない答えだった。 「『永久』に続く、平和と幸福。それはこの世にあり得ない。それが余の結論であった」  期待外れの王の言葉に、今度は非難めいた騒めきが起こる。 「強き王がいて、平和で幸福な国を築いたとしよう。だが人の身はいつか終わりを迎える。強き王亡き後、民はどうすれば良いのか?」 深遠な思考を湛える灰色の瞳が、まるで人々に問いかけるように瞬いた。 「永久に続く平和と幸福、それは聖神のおわす天の国にあるもの。我ら人の世の平和と幸福は、常に微妙な調和の上に成り立つ。それは人の営みによって常に新しく作りかえられ、守られてゆかねばならない。その営みこそが、聖伝にある『奇跡』ではないかと、余は考えた」  人々は既に、常ならぬ王の言動に充分驚かされていた。だが本当の驚きは、まだこれからだったのだ。 「余はその奇跡に、この国の未来を委ねようと決意した。準備を重ね、時が来るのを待った。そしてついに、今日この日がやってきたのだ。余はここに、我が国における憲法の制定と、議会の設立を宣言する!」  大きなどよめきが、波のうねりのように広場を覆った。  国民の代表を選び、議会を開く。憲法を制定し、それに基づいて議会が法律を作り、政治を行う。確かに近隣の先進的な国々では、そのような変革の時代を迎えつつあった。しかし冬将軍の庇護の元、永の安寧に微睡むこの国では、そんな考えを持つ者はまだいなかった。国民はもちろん、アルバロフ公爵やグラングール将軍ですら。ただ一人それを考えていたのが、他ならぬ最高権力者だったのだ。  動揺する人々は、声高に不満を口にした。 「憲法? そりゃ一体なんだ?」 「陛下は、国民をお見捨てになるのか!?」 「国民が政治をするなんておかしいわよ!」  人々は口々に捲し立てる。しかし国王がその手を少し上げると、広場は再び静まった。 「民の中には、そのようなやり方を不安に思う者もいるだろう。新しい事に、恐れを抱く者もいるだろう。そこで余は、聖神に祈ったのだ。我らがこれから起こす奇跡を聖霊が見守って下さるよう、人の営みに寄り添い、聖霊と間に強い絆を結んでくれる神子。平和と幸福の礎となる、調和をもたらす神子。そんな新たな時代のための、新たな聖霊の神子を遣わし給えと祈った。――そして産まれたのが、ここにいる我が息子サーシャ、『半分の神子』なのだ」  王は、バルコニーの奥で控えるサーシャに手を差し伸べた。サーシャはゆっくりと、人々の前に歩み出る。 「あれが……」 「新しい、聖霊の神子さま」 「半分の神子さまだ」 「調和の神子さま……」  趣向を凝らし、美しく結い上げられた金色の髪。雪原のような額の下で、この国を象徴する空の色と森の色、鮮やかな二色の瞳が輝いている。人々は確かに、その二つの色に美しい調和を見た。 「余は今ここに、調和の御印を持つ神子、新たな聖霊の神子の就任を宣言する!」  盛大な拍手と歓声が沸き起こった。広場は嵐のような喧噪に包まれ、人々の歓喜の声が空気を震わせる。  レスコフは特別に許可されて、広場の端から式典を見守っていた。そのレスコフも最初は躊躇いがちに、やがて大きな拍手を送った。 「父上。なぜ今まで、その話をして下さらなかったのですか」  サーシャは小声で不平を言った。 「そうすれば我も、思い悩まずに……」 「まさにそのためだ」  父王は言った。 「え?」 「お前は考え抜いた事だろう。己とは、神子とは、神子の役割とは何か。そしてお前なりの答えを見つけたはずだ。それはお前の血肉となり、これから先、お前を支えてくれる」 「父上……」 「それが新たな神子への、余からの祝福だ」  少年の面影を宿し微笑した王の顔は、悪戯を思いついた時のサーシャにそっくりだった。  聖霊のティアラが今、サーシャの頭上に掲げられる。祝いの声や拍手を送る大勢の人々に応え、サーシャは手を振った。  アルバロフ公爵は、その光景をじっと見つめていた。 ――知っていたのだな。この神子がどれだけ大きな存在か。だからお前は……。  公爵は、バルコニーの反対側に目をやった。そこにはグラングール将軍がいる。 ――これが国王陛下の望み。それなら、私とお前の望みでもある。そうだな?  グラングール将軍も、まっすぐにこちらを見つめていた。二人の眼差しが合う。射貫くようなその瞳に、アルバロフ公爵はほんの一瞬、胸を突かれた。  だが将軍の目尻には壮年の皺が刻まれ、歳経て様々な経験を積んできた男の口元は、もはやあの頃のように、その想いを安易に外へ漏らす事はない。 ――歳をとったな。  公爵は、口元に穏やかな笑みを浮かべた。 ――決して手を取り合わず、互いに逆の方向から祖国を守る。あの時、二人でそう決めた。あれからずいぶん長い年月が経ったものだ。  公爵の控えめで物静かな佇まいは、昔と少しも変わらなかった。それを見つめているうちに、グラングール将軍は珍しく、若かりし日々の事などを思い出した。が、すぐに唇を引き締めた。 ――俺とお前は常に相対する。これからも、手を取り合う事はない。調和を守るために。……そうだな、友よ。  二人はほんの束の間、視線を合わせ、そして同時に目を逸らした。式典の会場にいる誰一人、それに気づいた者はいなかった。 「殿、下……」  グレアムはただ一人、礼拝堂のテラスから式典を見守っていた。国王が姿を見せると、グレアムの足はひとりでにテラスの端まで歩み寄った。  二十年前、ひ弱な皇子と揶揄されていた心優しい皇太子は、今、希代の賢王となってそこに立っていた。威厳に溢れる姿から、小柄で色白の、気が弱く病弱だった二十年前を思う者はいないだろう。しかし人を魅了する眼差しや、意志の強さを感じさせる口元には、あの頃の面影が残っていた。 「皇太子、殿下」  グレアムは、震える声で呟いた。 「生きて、おられ……る……」 二十年ぶりにそのお姿を見て初めて、グレアムは、心から実感したのだった。  グレアムが彷徨い続けた、この二十年間。王もまた、民を新たな時代へ導くために、歩み続けていたのだ。 「無駄じゃなかった。俺のした事も。デレクの、レンの、ニケヤの……、皆の命も。無駄じゃなかった……」  グレアムの瞳に、とめどなく涙が溢れた。

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