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第4話 元気をくれよ

 まさか鼻血出すとはな……。 「……」  色んなふうに言われたことがある。可愛だなんだと、ちやほや持て囃されていたから。けれど、「神様」と言われたのは初めてだ。  ―― いやいや笑い事じゃないんですって。  神様? 俺が?  ―― ソウさんは俺の神様なんですよ! 俺のこれからの生き方を教えてくれた。  大袈裟すぎだ。 「あ、最上さん」 「? はい」  顔を上げると同じ子育て促進課の女性だった。 「すみません。夏休み期間の学童においての健康管理の冊子なんですけど」 「あ、はい。もうベースは作ってありますよ」 「わ、早い! ありがとうございます」 「プリントアウトしておきますね」  毎日同じほぼルーティーン。夏はこれをして、秋はこれの準備をして、冬はこれして春はこれをやって。一年単位でほとんど変わることのない業務がずっと繰り返されている。  神様? 毎日、受付で相談に乗って、書類の不備がないか確認して、プリントアウトしてる神様? ずいぶん地味な神様だ。 「あれー? おっかしいなぁ」  コピー室、といってもしっかりとした部屋になってるわけじゃない。セクションごとにコピー機はあるけれど、それは相談を受けた時などにも使うから、長時間、例えば冊子作りなどでしばらく占拠してしまう場合には奥にあるものを使用することになっている。  そこに樋野がいた。 「また詰まっちゃった……おーい」  やっぱりでかい背中をしている。でかい背中を丸めて表にあるとのは違う、少し古びたコピー機にしっかり仕事をしてくれと声をかけている。 「……詰まったのか?」 「うわぁ! あ、最上さん」 「……それ、古いから」  このコピー機は俺がここに職員として配属される以前からずっとそこに鎮座しているものだから。 「これ、ここのコピー機は古いから裏紙は使えないんだ。紙がよれやすくなるから。だから、普通紙を使った方がいい」 「そうなんすか」 「あぁ」 「へぇ、ありがとうございます」 「……いや」  別に、そう呟いた。  コピー機はやれやれ、やっとオレの理解してくれたかとでも呟きそうなほど、シュー、ピ、シュー、ピ、と紙を吸い込んでは印刷して吐き出して、また紙を吸い込んで、と淡々と仕事をこなし始めた。 「……」 「……」 「も、最上さんはここ長いんですか?」 「……あぁ、新卒からだから七年になる」 「七年……二十九」 「あぁ」 「……」 「……」 「あ、知人から連絡来ました。写真も動画もほぼ削除依頼して、削除されたのを確認したって」 「……あ、りがと」 「いえいえー。あ! 俺も! 自宅にあるデータ全部削除しましたから! あの壁紙のだけじゃなくて」  俺の悩みを一瞬で軽くしてくれたこいつにとっての神様は。 「あ、コピー、終わった……すんません」 「……いや」  俺、なんだな。 「失礼しました」 「……あぁ」  ロクすっぽ上手に後輩と会話も続けられない俺なんかが――。  市役所勤めとは毎日が劇的な変化をするわけじゃない。ノルマもないし、淡々と業務を毎日こなす。けれど、たまにものすごいアクシデントが起こることもある。 「えー? これ、ハンコひとつないだけでダメな訳?」  それがこういった類のクレームだ。 「あー、はい」  運悪く、対応に当たったのは新人の樋野。 「サインでいいでしょ?」 「あー、いや」 「あのさぁ、私、すっごい忙しい中で来てるんですけどっ、仕事、抜けてきてるんですけど!」 「はい」 「いやいやいや、あー、とか、はい、とか呑気に言われても」  基本、お前らは税金で給料もらってるんだろう? 俺らの税金で食ってるくせに、ということを思われたり、言われたり。文句を言われることもあるし、思い切り「こっちは忙しいんだよ」と横柄なことを言われることもある。  運悪く、そのアクシデントに樋野が遭遇していた。  役所勤めは融通が効かないと……そんなこと言われてもどうにもならないこともあるんだ。扱ってるのは個人個人の重要な情報ばかりだし、俺たち職員が来所された人それぞれの都合に合わせてルールを無視することもできない。 「お客様、失礼いたします、私が代わりに対応させていただきます。最上と申します。その申請についてはですね……」  たとえ、ごねられても、ダメなものなダメなんだ。 「……はぁ」  けれど、いいところだってあるだろ? 「さっきは災難だったな」  ほら、どんなクレーム対応があったとしたって、そのせいで頼まれてる仕事が遅れたって、休憩時間は確保するべし。しっかり休んでいい。 「……最上さん、あの、さっきはありがとうございました」 「別に、大したことじゃない」  建物裏の自販機が置いてある日陰。今日も天気は快晴、春うらら。けれど、ここは常に建物で日陰になっているせいか、冷え切っていて、コンクリートもなんだか湿った冷たさがある。  そこで、樋野が缶コーヒーを握り締めて溜め息を足元に何度も吐いていた。 「あんなこともある」 「……そうなんすか?」 「まぁな。お役所だから、色んな人が来る」 「……」  それでも見ず知らずの人にあんなに苛立ちをぶつけられたら気が滅入るだろう。そういうクレームに耐えかねてやめてく奴もいるから。 「まぁ……元気を出せ」  でかい背中が丸まっていた。 「ほら、元気を出せよ」  だからだ。  ―― これを眺めると元気になったんです。  そう言ってただろ? だから。 「…………」  ほら、元気、出るんだろ? 「…………」  今日は、花の匂いはしなかった。マスクを外すと外気が唇に触れる。新鮮で何にも邪魔されず、そして一日中、日陰であり続けるここの冷気は、エアコンが完備され乾燥しまくりの室内にいるばかりだと案外気持ちいい。 「……ぇ、あ、最上、さん」  下手くそなんだ。励まし方とか励ますのに最適な言葉とかよくわからないんだよ。できるだけ人との接触を避けてきたから。だから、上手になんて励ます事はできないけれど。これなら元気になるんだろう?  俺なんかのでも、素顔を見たら。 「そ、それを飲み終わったら、デスク戻れよっ」  これ見たら、元気が出るって、言ってたから。 「さっきは災難だったねぇ、樋野君」 「いえいえっ、もぜーんぜん大丈夫っす」 「元気じゃん」 「あっはっはー。元気ですよ〜」  元気。 「……単細胞」  出すぎだ、そこの新人職員。

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