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第6話 平穏な日々だった

 地味な生活を送っている、と思う。  昔、中学高校の頃の俺が今の俺を見たらきっと驚くだろう。 「げ……今日、プラごみの日だった」  なにせあの頃は自分をネットの中ではアイドルなんだと、今の俺からしてみたらいかなり痛々しいけれど、けっこう本気でそう思っていたから。  だからもっとチヤホヤされてる大人の自分を想像していた。  実際にはゴミの日のことを思い出して大慌てでプラごみを市指定の袋に集めてる、普通のサラリーマンになった。 「それから、瓶の日か……瓶、そんなないけど……」  隔週でやってくる瓶の日。まだ一つしかないけど、とりあえず二週間後まで溜めておくのも嫌だからさ。  なんて、ゴミ出しのことを考えてたりする、しがないサラリーマンになった。  仕事して、うちに帰ってきて、寝て起きて、また仕事して。  たまに友人と酒を飲んで。  なんか、最近はそれで充分って……。 「あ、おはよーございます!」  思ってた。淡々とすぎていく平穏な日々でも良いじゃんって。そのくらいあの時、動画のソウが自分だとバレた時のことがトラウマみたいに残ってたから。 「……はよう」 「今日、プラごみの日なのすっかり忘れてましたよー」  けれど、そのソウを知ってる奴が現れた。  職場が同じだった。  地味な市役所勤め。ザ、安定って感じの職場。  マスクで口元を覆っているから、目でその表情を伺う。笑うと目尻がくしゃっとなる感じの優しい笑顔。 「バス、二十二分のですよね?」 「あぁ」  近くのバス停にやってくるのが七時二十二分。そこからバスに揺られて十五分。バス自体は五分から十分間隔で出ているから、乗り遅れてしまっても大丈夫だけれど、このバスなら市役所に到着するのが三十七分。ちょうど良いんだ。 「今日は、混んでるかな。なんか、電車延滞が出てるらしくて」 「そうなのか?」 「にしても、ずっと同じバスに乗ってたんすかね」 「……多分な」 「不思議っすね」 「……あぁ」  マスクしてるからかも。お互いに顔の上半分しか見てないんだ。そう親しくないのなら判別しにくいし、そのマスクをつけてる状態の人をじーっと観察なんてできないだろ? 「まさか最上さんがご近所さんとは」 「……」 「すげぇよなぁ」 「…………お前ってさ、その……」  それでなくても俺は「ソウ」のことがあって、基本俯きがちに過ごしてるから。 「その……ゲイ、なの?」 「そうっすよー」  平凡な毎日を過ごしていたと思う。起伏のあまりない、変化に乏しい毎日だったと思う。 「ゲイっす」 「お、おまっ、そんな簡単にっ」 「?」  自分がとても異物に思えていたから、余計にそういう周囲に馴染めて、誰にも区別されない生活の安定感のある環境を特に選んでいた気がする。 「だって、簡単なことじゃないっすか」 「……」 「好きになる対象が同性ってだけでしょ」 「……」 「別にただそれだけっすよ」  こいつは藪から棒、窓から槍、奇想天外、だった。 「それって、別に、人それぞれ、の一言で終わるじゃないですか」 「……」 「ただ、そのことに気がつかせてくれたソウさんには感謝しかないです!」 「……」 「あれがなかったら俺はもっと悩んでたと思うんで」  色々、こいつは想定外なんだけどさ。  けど、一番想定外だったのは、なんというか、「ソウ」を知っていたのに、違うんだ。  ――あれ? もしかして、ソウ君?  あの時、俺を「ソウ」だと気が付いた男と違う。  知らなかったんだ。わかってなかった。「そういう目」で見られるっていうことを。  周囲に知られるのも恐怖だったけれど、もう一つ、別の恐怖がその中に混ざり込んでて、それが一層、俺を竦み上がらせた。  ――ち、違います!  逃げ出してしまうほど。  バラされたらっていうのも怖かったけれど、あの時に向けられた、ネバネバベトベトとまとわりつくような視線に恐怖したんだ。  性的対象として見られてること、そいつの頭の中で自分が好き勝手されてること、そういうのが怖くて、恐ろしくて。 「なので神様です!」 「……」 「あ、それと!」 「?」  恐ろしかった。 「えっちな神様」 「なっ! 馬鹿だろっ」 「いやいや……馬鹿ですけれども」  恐ろしかったのに。 「だって、ソウさん、可愛いんですもん」 「ちょ! 馬鹿! 言うな!」 「大丈夫ですって、誰も聞いてないですよ。あ、ほら、バス停……あれ? あんま混んで……」  今日は一人じゃなかったから、話しながらだったから、なのだろうか。いつもはバス停の一番か二番目に並んでいるのに、今日は最後尾になった。バス停に着いたと同時にバスがやってきてしまった。 「空いて…………ない、みたいっすね」 「? ……!」  それは衝撃的だった。 「ど、どうします?」 「……」  やってきたバスの中には詰め込まれたように人が……まだ春先。トレンチコートの方々と学生が、その細長い四角いバスの中にひしめき合っていて。 「ちょ、これは……」  次のバスに……そう思ったのに。 「よーし、頑張りましょう!」 「は? ぇ? ちょっっ!」 「な、なんで、乗っ……」 「いやぁ、あの憧れの方と密着できる良い気か、うぐぐぐぐっ……」 「だ、大丈夫か? おい、樋野」 「イダダダ」  樋野が奇想天外なことを言い出したせいで、ほら、いつもはここまで混んでないバスだったのに。いつもの俺ならきっと次のバスに乗って、少し遅れてしまうけれどいつもと同じように朝のルーティーンをこなすしていただろうはずなのに。 「ああああ! 押さ、押さないで! 押さないでええええ!」  俺らは仕事の前にすでに疲労困憊するほど奇想天外な乗車率となったバスに揺られて出社することになった。

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