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第15話 一センチ二センチ
いいか? こう言うんだ。
――いつも食事に付き合わせてすまなかったな。この前の餃子はとても美味かった。ご馳走様。お礼に、これ、二人で飲んでくれ。美味いワインなんだそうだ。ロシアのジョージアで作られたワインで、あまり日本では有名ではないけれど、とても香りのいい、少し他とは違うワインらしいから。ぜひ。
そう言って、これを渡そう。
バスは一本早いのにしたから。
朝、まだ開所の前にささっと渡そう。橋本さんの時のように。
「あ、いた。最上さん」
その声に飛び上がってしまう。きっといつものバスに乗ったんだろうから、樋野がこの時間に職場に到着するのは分かっていたけれど、でも、デスクに向かうよりも先にこっちへ向かって歩いてくるとは予想していなかった。
「お、はよう、樋野」
びっくりした。でも、この時間なら俺の隣のデスクの職員は来てないし、人もまだまばらだ。今ならここでこのまま渡せる。
「おはようございます。今朝バスいなかったですね」
「あぁ、少し寄るところがあって」
いつものバスよりも一つ前のバスの中で練習した通りに言うんだ。
「食事、餃子美味かった礼だ。飲んでくれ。ロシアのワインだから」
「え? あの」
「そ、それじゃっ」
それだけ言うと、箱に入れてもらってリボンまでかけたワインのボトルを紙袋ごと樋野の胸に押し付けた。
バカ、なんだろうか。俺は。
あれだけ何度も言って丸暗記したくせに、どうして本番でそこまで簡略化できるんだ。ちっとも言えてないじゃないか。
「……もうっ」
言うだけ言って、慌てて逃げるようにその場を離れた。誰もいない非常階段まで辿り着き、そこで、しゃがみ込むと足元に溜め息を落っことす。練習したけれど、ちゃんと言えなかった。
「……」
だって、あんな真っ直ぐこっちに、朝一番で来ると思わないだろう? 俺のシミュレーションでは違ってたんだ。朝いつも通り朗らかな笑顔で職場にやってきた樋野がデスクに到着。俺は周囲の人があまりいないことを確認して、あの長い台詞を言いつつ、ワインの入った紙袋を手渡す。
樋野は笑顔で「え? いいんですか? あざっす」と会釈をして、俺の任務は完了。
そうなるはずだったのに。
「……」
職場に到着するやいなや、真っ直ぐにこっちへ歩いてきて、いつもみたいに笑うこともなく、あんなふうに話しかけたりするから、全部飛んでしまったんだ。
丸暗記した長い台詞も。
何度もシミュレーションしたはずの光景も。
全部飛んでいってしまったから。
だから、とても……緊張した。とても、ドキドキ……した。
「ガムテって……頻繁に使……わ、ないかっ?」
どうしてガムテープの在庫を棚のこーんな高いところに置くんだ。取りやすいところに置くだろ? 普通は。
「三段棚の、なんで、上に、置くん、だっ」
一人なのをいいことに、備品庫で盛大な独り言を言いながら必死に手を伸ばした。あと少しなんだ。ほんのちょっと指先があの棚にあるガムテープの在庫に触れたら、そこから落っことしてゲットできるのに、そのほんの一センチ二センチが届かなくて、今必死につま先だちで手を伸ばしてる。
脚立を使えばすぐなんだけれど。
「っぐ」
この一センチ二センチが届けば、すぐに取ることができる。
なのに。
「よっ」
わざわざここを離れて、備品個の扉のところに立てかけてあった脚立を取るというのが。
「ッフ」
なんだか、負けた気がして、嫌で、今、手を伸ばしてる。
「よいしょっ」
だって、あと一センチ二センチなんだ。
「よいっ、……」
もう一回ジャンプをしようとした時だった。ふっと背後から伸びてきた手、指が、その棚にあったガムテープを突いて、落っことして、それをもう片方の手がキャッチした。
「これ、っすか?」
「あ、あぁ……」
樋野の、手。
「どうぞ」
「あぁ」
一センチ二センチ。
「あの、最上さん、今朝」
「……」
「今朝なん、」
その時だった。
ガチャリと無作法に音を立てて扉が開いて、誰かが入ってきた。「はぁぁ」と盛大な音を立てて、台車なんだろう、小さなタイヤがコロコロ進んで、台車が小さな音を立てる。そして、どすん、どすんと、箱がどこかに積み上がってく音。
紙が詰まった段ボール箱は案外重いんだ。ペーパーレス化促進中だから、俺が入所した当初に比べるとああいう紙台帳の保管は少なくなったけれど、それでもゼロにはならないから。
「それじゃ、すんません」
「あ、いや」
樋野はペコリと頭を下げるとそのまま備品庫を後にした。
そして、それを追いかけるように、紙の詰まっているだろう段ボールを積んでいた誰かも空になって身軽そうな台車を押しながら、ここを出て行った。
――これっすか? どうぞ。
一センチ二センチ、高いんだな。樋野の方が俺よりも。
「……」
俺の頭上から伸びた手の筋っぽい感じ、手の甲の骨っぽい感じ。
指、が長いのかもしれない。
一センチ二センチ。
その小さな差に。
「……」
俺は訳もなく僅かにドキドキして、今、取ってもらったガムテープをぎゅっと抱きしめていた。
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