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第16話 代打、樋野

 それはなんというんだろう。  一センチ二センチの差に心臓がものすごい慌てて騒がしくなった。  これは、なんというのだろう。  受付で応対している樋野の声に耳を傾けてしまうのは。  わからないまま数日が過ぎていく。  もちろんバスは変わらず一本早いのに変えたまま。でも今日は、遅いんだ。木曜で俺は延長受付の担当だから、出勤が遅い。だから今日は普通に朝のあのバスには乗れない。  一度だけ、どうして早い時間のバスにしたのかと樋野に訊かれた。少し不安そうにも見えたのは、もしかしたら先輩である俺が樋野のことを快く思っていないからそんなことをしているんだろうかと思ったのかもしれない。だから、「運動不足だなと最近思っていたからバスを使わず歩いているんだ」と誤魔化した。快く思ってない訳じゃない、ただ、俺が意識してしまって。 「……?」  意識って、何を? どう意識してるんだ? 樋野のこと。  そもそも急になんで 「ぁ」  その時だった、五時の受付終了がチャイムがとりあえず鳴った。でも、俺とあともう一人女性職員が受付担当として居残りを――。 「……ぇ」  するはずだったのに。 「今日の担当の田中さんと急遽交代したんです」 「え、あの」  そこにいたのは田中さんじゃなくて、樋野で。  俺はあからさまにびっくりして、もしかしたら困った顔くらいはしていたかもしれない。本当に困ってしまっていたから。  なんで、どうして田中さんと急遽交代なんてことになるんだ。田中さん、小さなお子さんがいるとは思うけれど、そのせい? それとも何か別の? わからないし、なんで樋野がその代わりを務めるんだ。先週延長対応したばかりなのに。 「宜しくお願いします」 「……ぁ」  樋野はちょっとだけ笑って、ペコリと頭を下げると、自分のデスクへと戻った。  デスクは少し離れてる。けれど、ここにいるのは二人だけ。今日は今のところ受付にやってくる人もいなくて、どこの課も人員二人か三人の静かな役所の中、ポツンと俺と樋野が。 「すみません。避けられてるんだろうと……は……思うんですけど」 「別に避けてはっ」  いないとは言えない。実際、避けてはいるから。でも嫌いだからとかじゃなくて、快く思ってないから、とかじゃなくて、なんと言えばいいんだろう。  樋野に恋人がいると分かった。モテそうなスラリとした長身の彼氏がいた。それなのに俺は何度か自宅にお邪魔してしまって申し訳ないというか。いや、樋野にしてみたら、ただのご近所付き合いだっただろうし。相手は職場の先輩なんだから、いい顔したいと思うだろうし。ソウ、を知ってる訳だし。 「最上さん?」 「!」 「あの……すみません」  そこに小さな子どもを連れた女性がやってきた。 「あ、はい!」  慌てて駆け寄りながら、背中に樋野の視線が向けられてるような気がして、応対している間少し緊張してしまった。  週一回の受付延長だけれど、普段はそんなに忙しくはならないんだ。二人で充分に応対しながら、残務を全て片付けることができちゃうくらい……なんだけれど。 「すみません」 「はい」  俺が呼ばれて。 「あのーすみません。保険証のことで」 「はい。今、伺います」  樋野が呼ばれて。 「すみませーん。学童の」 「はい!」  俺が呼ばれて。  5月の連休前だからかもしれない。尋ねてくる人の波が途絶えることが一向になくて、残務を全て片付けるどころか、残務が残っていくくらいだった。だから、あまり考える時間もなかった。樋野を避けてしまっている今の自分の行動の理由を。  そのまま気がつけば、もう八時になってしまった。 「今日は、忙しかったですね」 「……あぁ」  正直わからないんだ。 「先週はこんなじゃなかったのに」 「連休前だからな」  けれど、一センチ二センチ、俺より高いところに手が届く樋野のことが気になって。その手が、あの恋人のことを抱き締めてるんだと思うと、なぜか、胸の辺りがチクリと――。 「いたっ」 「最上さん?」 「っ、なんでもない。紙で指を切っただけ」  もう八時だから帰りの支度をしようと紙の束を手に取ったら誤って指をその紙で切ってしまった。薄く切れて、そこから血がほんの少しだけ滲み出てきた。 「ちょっと待っててください。俺、絆創膏持ってます」 「え、いや、平気だ。そこに救急箱が」 「……どうぞ」 「……ぁ」  触れられるのかと一瞬緊張してしまった。 「ぁ、りがと」  けれど、樋野は触れることなくその絆創膏を二枚、俺に差し出した。  触れられてしまうのではないかと、ドキドキした。触れられるかと期待して……た。 「ロシアのワイン、美味かったか?」  二人で飲んだんだろうか?  そう思うとチクチクと今切った指先が痛くなる。 「避けてはいない」 「……え?」  これはなんというのだろう。  チクチク痛かったり、ドキドキしたり、こういうのはなんと説明すればいいんだろう。樋野にも、自分自身にも。それがわからなくて戸惑って、飛び上がって慌ててしまうだけなんだ。 「避けて、ない」  慌ててどうしたらいいのかわからなくなってしまうだけなんだ。 「お、お疲れ様」  ただそれだけなんだ。

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