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第19話 見慣れた帰り道
「とりあえず飲み直します? それとも……帰ります?」
「あ……」
「帰ろうとして迷子になってたんですっけ?」
「あぁ」
考えたら、なんだかすごいところで話し込んでいた。
「じゃあ、帰りましょう」
俺たちがいたのはどこかの集合ビルの出入り口。エントランスは少し開けていて、そこの左右に花壇があった。色鮮やかで濃いピンク色をしたツツジが咲いていた。
少し落ち着いてみると、そんな場所で俺はナンパされて、そこを樋野に助けてもらったのかと驚いてしまう。こんなところで、人の往来もあるのに、今。
「最上さん」
今、告白をしてしまったのかと。
今、樋野に気持ちを。
「手、繋ぎます?」
「! ま、まさかっ大丈夫だっ、歩ける、ちゃんと」
「そうじゃなくて、手、俺が繋ぎたかったんです。せっかく貴方と付き合えるのに」
伝えてしまったのかと。
「……」
「そんなマジマジと考え込まないでください。さ、帰りましょう」
今、俺を見て、優しく微笑む樋野に。
ほんの、多分十分くらい前までは気がついていなかった気持ちを伝えた。
好き、なんだ、そうだ。
俺は樋野のことが。
でも、確かに、うん、俺は樋野が好きなんだろう。たったの二文字。けれど、あの玄関先で遭遇した彼に感じた居た堪れなさも、避けてしまう気持ちも、バスに乗れない悶々とした感じも、そのたったの二文字で理由が全部わかる。
俺は、樋野のことが、好き。
「樋野はっ」
「?」
振り返ってくれた樋野の口元が柔らかく笑ってくれている、ただそれだけでなんだか嬉しいと思った。
「樋野も……一緒に、帰ってくれるのか?」
きっとたったそれだけのことで嬉しく感じるのは好きだからなんだろう。
「だって、また、最上さんがナンパされたら困るので」
「ナンっ」
「一緒に帰りましょう」
足元がふわふわするのも、酔っ払ってるからだけではなく、好きだから……なんだろう。
「……誰かと飲んでたんですか?」
「え? 俺?」
「えぇ」
樋野は来慣れてるのか、迷うことなく道を真っ直ぐ進み、右へと曲がった。
「あ、大学の友人と飲んでた。一次会だけ参加したんだ。それで帰ろうと思ったんだが、樋野のことばかりを考えてて、あ、この辺りで飲んでたんだ。なるほど、こっちに来てたのか」
不思議だ。こういうの。
角を曲がって、また少し大きい道に出た途端に知っている風景になる。そうそう、そこの薬局を目印にしていたんだ。全くもって活用できなかったけれど。でも行きに見た風景、それに大学の友人たちと飲む時は全員の都合を考えていつもこの辺りで飲んでいたから、見た事のある馴染みの景色なんだ。その馴染みの場所近辺で迷子になったけれど。でも、酔っていたし、樋野のことばかり考えていた、から。
「……ぁ」
ふと、樋野と目が合った。
「なんか……久しぶりに最上さんと話せてる」
ただそれだけのことでドキドキする。
「バス、急に乗らないし、話しかけたくても避けられてるっぽいし」
「そ、それは」
好きだったから。けれど、樋野には恋人がいるから、俺は横恋慕になってしまうと思って、それで避けてたんだと今ならわかる。
「嫌われたのかと思った。俺、テンション高くて、どっかですごい意味わかんないテンションのまま最上さんに話しかけたりして失礼をやらかしたのかなって」
「そ、そんなことはっ」
「飯、食べてる時に何かミスったかな、とか、めちゃくちゃ焦ったんです。それで木曜に遅番代わってもらったりして、それも逆効果だったってへこんで」
「あれは」
あれはすごく慌てた。だって。
「あれは、樋野のことが好きだったから、だ」
不思議だ。見慣れないところを歩いている時はとても不安だったり、ほんの数十メートルの距離がやたらと長く感じたりするのに、ようやく知っている道に辿り着いた途端、その不安が消える。あっちだろうか、こっちだろうか、ここで合っている? なんて考えが、蝋燭の火をフッと消したみたいに、パッと消える。
「それ殺し文句です……」
「こ、コロっ!」
「いや、今のは、クラっと来ますから」
「クラ!」
行きも帰りも一緒のバスに乗っていた。市役所前のバス停で降りた後、うちの近所のバス停を降りた後、並んで歩いてる時の馴染んだ光景。右側に樋野がいるこの景色に、フッと、今朝まであったもやりとした訳のわからない不安が、消えた。
それは、あの見知らぬところにいる間ずっと付き纏う不安が、知っている馴染みの光景に変わった瞬間にパッと消える感覚にとても似ていた。
電車に揺られて、最寄り駅に降りて、さっきまでいた繁華街の賑わった駅とは違う、もう駅そのものが就寝前みたいな静けさに深呼吸をして、最終のバスだったことに二人で少し驚いたりして。
「いや、さっきの途中までめっちゃイラッとしながら聞いてました」
「え?」
「だって、恋人がいるって思ってなかったから困った、なんて誰のことかわからないけどいきなり話しだすから」
考えたらいてもおかしくないのに、そう言われて、へぇ、最上さんの好きな男ってそんなモテそうな男なんですか? って。その恋人とやらを目の前にした途端に苛立ってしまうくらいに好きなんですか、へぇ、そうなんですか、って。顔を見る度に、恋人がいるんだと思うと避けてしまうくらいに、そいつのことが好きなんですか。
「へぇ……って、内心、連呼しながら、めっちゃイラッとしてました」
バス停を降りるととても静かで、樋野の声がよく聞こえる。
「けど、急にバスの話になるから、は? え? って、俺慌てて」
少し嬉しそうな声をしてた。
「俺、そこでめっちゃ飛びついてましたよね」
クスクスと笑う声がくすぐったい。
「ちょっと必死すぎ。っていうか、もうまず最上さんがナンパされてる時点で必死に止めに入りましたけど」
「ナンパなんて……」
「ホント、必死です」
ナンパなんてされたことがない。そもそも。
「ずっと、好きでしたから」
その言葉に飛び上がりそうになる。
「ほ、本当に?」
「もちろんです」
「あの、俺と、付き合う……のか?」
心臓が飛び出そうになる。
「なんかその言い方可愛いですね。初めてっぽい」
「だって」
だって、初めてだから。意中の人と交際するのも、好きだと告白されたのだって、初めてで……。
「やば……俺、テンション上がりすぎかも、今夜」
初めてなんだ。何もかも。
「あのソウさんと……とか」
俺はただの普通のサラリーマンで、恋人なんていたこともなくて。ナンパだってされたことのない不慣れな男で。
不慣れすぎてて。
「最上さん」
「!」
田舎育ちの。
「お、俺も! テンション上がりすぎたっ、ので!」
「最上さん?」
何一つ慣れてない、ただの未経験なんだ。
「ちょっと酔っ払ってるので! また、明日っ!」
ずぶのド素人すぎることを失念するほど、告白にも不慣れな二十九歳の平凡なサラリーマンなんだった。
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