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第20話 面倒くさい二十九歳
ある事に気がついて、慌てて、それじゃあと、互いの住んでいるアパートとマンションの間の道から逃げるように自宅へ帰ってきてしまった。
樋野は少し驚いていたかもしれない。でも緊急事態だったんだ。
失念してた。
「……」
俺は初めてなんだ。
―― やば……俺、テンション上がりすぎかも、今夜。
交際なんてしたことがない。
―― あのソウさんと……とか。
けれど、樋野って、その……つまりは、百戦錬磨って言うやつなんじゃないのか?
手慣れてるというか、色々初めてではないだろ?
あのソウもこのソウもない。本物の俺はただの田舎者で、そのソウの若気の至りからはそれこそひた隠しにしていたから、誰かと付き合ったこともない。
したことも、ない。
セックスじゃなくて、もっと初歩の、それこそキスさえ。
「……」
この辺りの都会の人たちが思ってるような、人は人、自分は自分なんて考えがまるでない田舎じゃ、まず相手なんて見つけられない。
動画を上げていた頃はネットの中で人気があると勘違いだけれど満足をしていたんだ。けれどそれがバレそうになったというか、あのカラオケでバレた辺りからはそれこそ必死に隠してきた。どこかでソウを知っていた人と遭遇したらと田舎では抹殺されてしまう。
急いで動画を全部削除したし、誰にもこのことは話さなかった。
こっちに上京してからの大学時代だって、まだ率先してそういうことができずにいた。社会人になってからは、もうそういう機会は全く巡ってこなくなって。
だから、付き合ったこともなければ、キスだってしたことない。
「……ど、しよ」
玄関のドアに寄り掛かりながらズルズルとその場に座り込むと、マスクを取って、ぽつりと呟いた。ソウの時は目元を目隠しで、普段は口元をマスクで、ずっとずっと隠し続けて過ごしてきた。そのマスク一枚取ったらただの田舎者なんだ。ただの童貞で、ただの。
「……はぁ、どう、しよう」
溜め息だって覆い隠せたマスク一枚取るのも少し躊躇ってしまうような、ただの、恋愛初心者だ。
ほら。
――高校、大学の間に出会いなんてたくさんあるはずなのに、そこで何も起きなかった時点でコミュニケーション取るの苦手なのかも。付き合うのは面倒くさそう。
ほらほら。
――ずっと一人でいられた人との交際はかなり難しいものがある。マイペースなところとかありそうで、何かと面倒くさそう。
ほーら。
――とにかく全てが初めてな相手なんて、面倒くさそう。
「……」
――慣れてないから気疲れしそうで、楽しくなさそうで。
面倒くさい、って言いたいんだろう?
兎にも角にも面倒くさいんだろう?
これはダメだ。これは、もう閉じよう。
そして、そっとスマホを置いて、綺麗に晴れ渡った土曜の青空を見上げた。さわやかで五月初夏の風に揺れる洗濯物を見つめながら。
めんどくさい、としか思われないじゃないか。
三十代、恋愛未経験、しょ……処女で検索した結果に溜め息をつきながら。
検索なんてやめておけばよかった。大体、インターネットでこう言うのを調べた結果、辿り着いたのが「ソウ」なんだから、人は人、自分は自分、樋野は樋野って思えばいいだろう?
ここはあの田舎じゃないんだから。
でもその樋野が達者そうで。
誰にも相談できないからついネットで調べてしまった。
樋野は人見知りしないし、女性職員からの印象もとてもいいと思う。まだ入って一ヶ月、でももう職場には馴染んでるし、仕事もそつなくこなせてる。
そうまだ出会って一ヶ月なんだ。
一ヶ月しか経ってないのに、交際まで発展させてしまう時点で樋野はそういうことに慣れてるって証拠だ。一ヶ月だぞ? まだ一ヶ月しか経ってないんだ。そもそも初対面で気軽に俺に話しかけてきたし。
二十九歳の俺が、しょ、処女で。
二十二歳の新卒樋野が、恋愛事に手慣れてる。
きっと俺は面倒くさい奴で。
樋野はスマートで。
それだけでもその差含めた色々に頭を抱えたくなるのに。
ソウ、なんだ。
そこが問題なんだ。
あんなことしておいて、しょ、処女ってどうなんだ? 絶対に上手というか、そういう行為の上級者だと思われていそうだ。
本当はただの面倒くさい二十九歳なのに、期待、されてしまうのではないかと。
さぞかし……みたいな感じに思われているのではないかと。
「……」
でも、でもだ。
「……」
とりあえず、キスが上手になれば良いんじゃないのか?
キスは全くしたことがないけれど、セックスだってしたことないけれど、でも、そっちの方がまだ大丈夫な気がする。
そこまで辿り着けられたら、一人では、そういうことをしているのだから、まだマシな気がする。どうにか誤魔化せる気がする。
うん。
問題は多分キスだ。
キスさえ乗り越えられれば、樋野のソウへの期待に応えられるんじゃないだろうか。
キスが上手になるようになれば。そう思って、もう一度スマホを手に取り「キス、上達、練習方法」で調べ始めたところだった。
――ピコン。
まるでこれから練習ですか? とでもいいたそうな、ちょうどのタイミングで届いた樋野からのメッセージに飛び上がってしまう。
――今日って何か予定ありますか?
あります。
――もしよかったら。
キスの練習をしないといけない。
まずはキスが上手になればいい。短期集中でやっていこう。
――会いたいです。
樋野と上手にキスできるように。
だから、もう少しだけ待っていてくれ、樋野。
そう思い、さっきは溜め息混じりに見上げた土曜の青い空を今度は胸の内でガッツポーズをしながら見上げ、キスの練習を教えてくれるスマホをぎゅっと握りしめた。
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