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第21話 鍛錬の日々

 結局はインターネットが一番内緒で、一番手っ取り早く情報を得られる。 「おはよう……ござ……います、あの、最上さん?」  しんどい二日間だった。 「おはよう、樋野」 「なんかすごい疲れてますね」 「そ、そうか?」  実はヘトヘトだ。 「あ、ちょうどバス来ましたね」  なかった。色々、色々なかったんだ。  そう、まず最初に、あれは都市伝説か何かなんじゃないだろうか、あれ、さくらんぼの軸を口の中だけで結ぶっていうの、あれができる人間っているのか? というかあれができたところで、あんな難解なことを成し遂げる口とキスするなんて、まるで未知の生命体との遭遇みたいな気がしてくる。むしろ怖いと思うんだが。  とりあえずできる気は全くしなかった。  まず、ど素人の俺が挑戦したのは、キスの時の顔の確認。  痛々しい。自室で土曜に一人、スマホのカメラに向かって目を瞑る自分なんて。そもそもあのスマホの自撮りカメラって少しだけ馬みたいに顔が伸びて見えるのは気のせい? どうしてもうちの鏡に写っている自分よりもブサイク度が増してる気がするんだけれど。とにかく――。 「最上さん、大丈夫ですか?」 「あぁ」  大丈夫なわけあるか。なんだあのおかしな顔。正直言って、ない。あれはない。全然ない。目を瞑った顔っていうだけでも自分の知らない顔だったけれど、あれは無理だ。笑ってしまう。あれ、どうしてるんだ? 一般的にはどうやって笑わない顔にしてるんだ? 「うわ……今日は混んでますね」  あの顔に樋野がキスするのか? 無理だろう。…………いや、やっぱり無理だろう。 「こっち、手すりつかまっててください」 「あ、あぁ、ありがと」  それからキスの時の目を瞑るタイミングの練習。  ネットではぬいぐるみなどを相手にって書いてあったが、二十九歳の男でぬいぐるみ持ってるわけがないだろう。いや、いるかもしれない。別にぬいぐるみが好きなアラサー男がいたって構わないが、俺は持ってない。持ってないから相手にするのはクッション。  それがまたとてつもなく痛々しくて、途中で断念した。  枕を抱えて唇なんて寄せられるか?  でもそこで寄せていけないような軟弱だから、いまだに、しょ、処女なんだろうか。 「今日、ちょっとギリかもしれないですね」  ギリギリ頑張ればできる、と思う。いいや、頑張っていこう。うん。 「あ、今日って課長がミーティンしたいって言ってましたよね。間に合うかな」  間に合うだろうか。  その、舌の鍛錬。さくらんぼの軸はとりあえず無理だ。今、このベロにそんな難解なことできるわけがいない。そんなわけでとにかく舌の鍛錬をしなければと始めたのが飴玉キープ。べロの上に飴玉を置いて、口の中でそのベロを動かしてみる。右左、僅かにだけれど前、後。それを飴玉を上に乗っけた状態で行う。舌から飴が落っこちたらダメ。それをキープするために自然と舌に力が入ることで鍛錬に……という狙いなんだけれど、これがまた難しくて。丸い、できるだけ小さい飴でというから土曜に買ってきて早速始めたわけだが、全然できない。むしろ、肩に力入るからそっちが強くなりそうなくらい。  不器用なんだ。 「はぁ……」 「大丈夫ですか? 最上さん」  この土日の鍛錬を思い出して、思わず溜め息を溢し、手すりにコツンと頭をぶつける。  それから唇のケアと水分のこまめな摂取。水分が多いと唾液が増えるから、そのキスの時に気持ち――。 「最上さん?」 「! な、なんでもないっ」  思わず、樋野の唇に視線がいってしまった。慌てて目を逸らして、バスの窓ガラスの向こう、右から左へと流れていく景色を追いかけていた。  知られたら、笑われるだろうな。  土日かけてキスの練習をしてたなんて。  あれだけ自撮り動画上げてたくせに、キスをしたことがないなんてって。  それに読めば読むほど不安が募る。  キスが上手だとそれだけで最高。けれどキスが下手すぎるとそれだけでがっかり。そんなことが書いてあったら不安になるだろ? まずがっかりされてしまうだろうから。  最高なものががっかりにまで落ちるってずいぶん極端だと思うんだ。もう少し優しい採点をして欲しいと思うけれど。  まだまだだ。  まだまだ、俺はキス上級者どころか初心者にさえなれてないと気を引き締めたところで、バスは市役所に到着した。  まだまだだけれど。  でもいつまでも引き伸ばせるわけがない。 「あ、ついに発表になったんですね」 「山内課長」 「来週だっけ。早いねぇ。この前年明けしたと思ったのに」  職員の更衣室から職場のフロアに繋がっている廊下に張り出された紙を読んでいると、俺の所属する子育て促進課の隣にある市民課の課長がやってきた。うちの課長は女性だけれど、こちらは男性の課長で、歳は確か四十いくつか、だった。  貼り出されたのは毎年ゴールデンウイークに行われている一泊二日バーベキュー旅行の役割担当。社員旅行みたいなものだ。 「私は……火起こしかぁ」  市役所職員の集まりだから飲み屋とかよりも、こういう方が体裁もいい、とのことらしく。毎年、課同士の繋がりも円滑にすることで受付業務の効率化を、っていうことで行われてる。 「俺も火起こし担当です」  ただ市民課はうちの子育て促進課に比べると受付にやって来る内容も多岐に渡るため、規模が大きくて、市民課とお隣のうちの二課だけで行われていた。他の課もそれぞれ何か懇親旅行を計画している。 「……君、火起こし得意?」 「全くです」 「あちゃー、私もてんでだよ」  メンバーごとに買い出し、調理、などなど、係を割り振っている。交流が目的だから同じ課の人間同士で固まってしまわないようにと各課から選任して。  今年は火起こしか。市民課の山内課長と。 「でも、まぁ、一緒に頑張ろう」 「はい」  ここな気がする。  キスをするなら、こういう非現実的イベントな気がする。 「……頑張ります」  だからそっと自分へ呟いて、来週のその日に向けて気合いを入れ直した。

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