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第28話 就寝中なもので

 リップを塗り忘れてしまった。  水もたくさん飲んでない。  むしろ、水が目玉のところからかなりの量流れていってしまった。  あんなに苦行だったキス顔の練習だってしたのに、本番では目はぎゅっと瞑ってしまったし、唇だって薄く開くの忘れたし、鼻息だって荒かった気がする。  これじゃ初心者だと丸わかりだ。 「……っ」  一つも、ネットで調べたことを参考にできなかったけれど、でも、一つだけ、ネットの通りだった。 「……」  触れた唇がとても柔らかくて、ドキドキした。 「……ヤバ」 「! なんっ」 「なんすか、これ」  何と言われても。  キスの練習をしていたレベルの初心者だと言っただろう? それでもしたいって言ったのは樋野だろう? 下手だし、練習の成果が何一つ出せていないかもしれないけれど、でも――。 「すごい、キタ」  何がだ。 「何回も想像してました。ここの黒子が綺麗だなってガン見しながら、ここにキスしてみたいって、唇にも……」  そっと、唇の端に樋野の唇が触れた。ズレたキスになんだか動揺してしまったら、今度は唇にもう一回キスをされて、指先がぎゅっとシーツを掴んでしまう。 「俺は……ソウみたいなのじゃないんだ」 「……」 「初心者すぎて、笑っちゃうだろう?」 「……」 「本当はダサいただの田舎者なんだ」 「そうかもしれないですね」  自分だってそう思っているのに、実際、樋野に同意されてしまうと途端にぎゅっと胸のところが締め付けられて痛くなる。樋野が思い描いていた、神様の「ソウ」とは違うと言われてしまうと、どうにか取り繕って、樋野が憧れていた「ソウ」みたいに振る舞えないかと。 「ソウさんより、やばいです」 「……樋野?」 「ずっと、ソウさんには憧れてましたけど、でも、最上さんが一番好きですよ」 「……」 「貴方がめちゃくちゃ好きです。キス、もう一回してもいいですか」  返事をするのと同時にまた唇が触れた。重なって、少しだけ啄まれて、また重なって。一度目よりも少し長いキスに、少し、眩暈がした。 「やっぱ、ヤバい」 「ひ、樋野?」 「めちゃくちゃ可愛いんですけど」 「か、かわっ」  今度はぎゅっと抱き締められて頭を撫でられて、心臓が破裂するかと思った。 「練習したって」 「え?」 「言ってたじゃないですか?」 「あ、うん。その舌を鍛えるといいって」 「ディープキス? ってこと?」 「! あっ! あの違うんだ! その、ネットにそう書いてあったから! っていうだけで! 本当に、その、素人だから、言われたまま練習を」 「うん」 「だからっ」  そこまで本当に考えてなかったんだ。とにかくキスの練習になりそうなことは全てやらないと、でも、キスの上級者ならディープキスなんてお茶の子さいさいだろう? だから、その辺も「いつか」に備えておかないとと。 「してください。ディープキス」 「!」  額をコツンとくっつけて、樋野が。 「……ぁ、えっと」  樋野がとても嬉しそうにしていた。今日一番、嬉しそうな顔をしていた。 「下手、だからな」 「ええ」  樋野がとても嬉しそうだから、キスをした。唇を重ねて、それから、次はって、手順もわからずどうしようかと思ったら、舌先にトントンと唇を突かれた。 「開けて?」  内心、大騒ぎだった。  開けて? 開けてって口の中? 唇を? 開けたら、開けてみたら。 「ん……」  声が溢れてしまった、って、胸の内で叫んで。 「んっ」  でも、舌先に触れた。絡まるように舌先を伸ばして、丁寧に吸ってみたり。でも、初心者だから、照準というか、その何かずれたりおかしなことにならないように、樋野の頬に手を添えて。 「ン……ン、く」  樋野の舌が柔らかくて、濡れてて、蕩けそうで。 「ン、樋野……」  唇が開いた隙間にそう名前を呼んだ自分の声がなんとなく甘ったれで恥ずかしかったけれど、でも、樋野は舌先で返事をしてくれた。深く、濡れた音がするくらいに深く口付けてくれたから、もっとって――。  ――コンコン。 「!」  キスに夢中になって「もっと」となりかけた時、扉をノックする音がして、心臓がキスの隙間から飛び出てしまうかと思った。  だ、誰か来たぞ。樋野。あの、誰かが。  ――コンコン。 「あれ? おかしいな。いないのか?」  締め切っているからあまりよくは聞こえないけれど、所々聞き取りにくいけれど、声の人は山内課長だった。それから数人、別の声もする。 「花火、しようと思ったんだけどな」  バーベキューが終わってから、近くのスーパーに花火をしようと買って来たみたいだった。そして、誘ってくれたんだろう。 (……どうします? 花火みたいですけど)  扉の向こうには聞こえないように、そっと耳元で囁かれると、ただの内緒話なのに心臓が騒ぎ出してしまう。耳元がくすぐったいし、声が近くて、ドキドキして。 (参加します? 花火大会) 「でも明かりはついてますけどねぇ……いないのかな? 最上さーん」 (参加……しときますか?) 「樋野さーん」  カーテン越しで中の様子はわからないけれど、ドアの両サイドの窓から、今、部屋のなかに明かりがついてるかどうかなんて丸わかりだ。 (最上さん?)  い、今、バーベキューが楽しかったので疲れて寝てます。 「寝てるのかな?」 「そうかもしれないですね」  はい。寝てます。 (最上さん……)  そっと、樋野の服を引っ張った。引っ張りながら、そっと目を閉じた。 「樋野……続き」  小さな、小さな声でそう告げて、もう一度唇を重ねながら、もう扉の向こうに気配のなくなった山内課長たちに、心の中で、「もう寝ています。就寝中ですので、花火大会は参加しません」と返事をした。

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