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第35話 暴露
待ち合わせたのは創作和食の居酒屋だった。店に入るまでは小さなところだろうと思っていたけれど、中に入ると案外広くて、朱色が鮮やかだ。黒で塗られた柱には提灯がぶら下がっていて、つまりは、とてもお洒落な店だなと。
俺が大学の友人と飲む時のような、チューハイがよく似合うような店とは違うなと。
「初めまして……じゃないけど、この前、正嗣んちの前でばったり会ったから。八代智樹(やしろともき)って言います」
「あ、初めまして。同じ職場の最上荘司です」
「え……最上さん、そこは普通、彼氏とか恋人とか、言いませんか?」
「えっ! だ、だって」
そういうの自分から名乗るのか? だって、なんだかそれってすごいことじゃないか? 自分からなんて。
「俺の恋人の、最上さん。んで、職場の先輩」
「はいはい。ドヤ顔するなって……って、ごめん、来た早々に悪い、電話だ」
「おー」
八代……さん、八代……クン、どちらで呼ぶべきか。歳は下だろうけれど、歳が下だからとクン付けで呼ぶのもあまり、どうかと思うし。かといって、さん、っていうのもなんだかしっくりくるような来ないような……。とにかく彼は仕事の電話らしく「お疲れ様です……」と言いながら、個室を後にしてしまった。と、同時に、飲み物が部屋に運ばれてきた。
「忙しい方なんだな」
「どうなんでしょうねー、あ、最上さん、ビールですよね?」
「あ、あぁ」
手前に置かれたビールは綺麗なグラスに入っていた。いつも飲むのはジョッキに入っているから、この入れ物でもうすでになんだか高そうだ。
「めっちゃキョロキョロしてる」
「そ、そりゃ、こういう店だとは……」
パーカーなんかで着てよかったのだろうかと……。
「それに、いつもの店って電話で言ってたから、俺はてっきりゲイバーかと……あ、ゲイだから、っていう固定観念っぽくて失礼だよなっ、ほら、この前、偶然会った時、そういうお店に行こうとしていたと。詳しそうだったし」
「別に失礼じゃないですよ。いつもの、っていう常連になってるゲイバーもあるし」
正嗣は笑うと、到着したばかりのビールをグビッと飲んだ。
「でも……最上さんはダメ」
少しビールは苦かったのか、喉に重たく感じたのか少しだけ顔をしかめてた。
「連れていきません」
「……ぁ」
ゲイだからゲイバーで飲むみたいな、失礼な考え方をしてしまったことを、正嗣が叱るかと思った。そういう固定観念がダメなんだって。だから連れてなんて行けないって。
「可愛い羊を狼の群れに放り込むようなこと」
「な、なんだそれっ」
「あははは、いや、本当ですってば、この前だってナンパされてたでしょ?」
「あ、あれはっ」
「だって、最上さん、綺麗で可愛いもん」
「なっ…………何、言って……」
こんなお店によく来て、なんでも慣れていて、どこに行くのだってあたふたしない正嗣の方がよっぽどいいと思う。俺なんかじゃ……。
曲線の綺麗なグラスを傾けて、そんなふんわりと微笑まれるとドキドキしてしまう。ビール飲んでるだけなのに。ほら、じっと見つめられて、思わず視線のやり場に困ってしまうんだ。迷いに迷った挙句、手元を見つめながら耳が熱くなっていくのを感じる。大学の友人たちと行く居酒屋なんて、個室だろうと全然うるさいんだ。周囲の人の気配も、店員さんの「はーい」なんて返事の声も全部聞こえてくるくらい。けれどここはとても静かで、まるで二人しかいないみたい。
「……最上さん」
すごく、ドキドキする。
「ぁ……まさ、」
そっと、正嗣が手を伸ばして、俺はその指先をじっと見つめて、そして――。
「いやぁ、ごめんごめん、長電話に……って、あら、今から良い感じだった?」
正嗣の指先が俺の頬に届くまであと数センチのところで、スパーンと綺麗に襖が開いた。
「あ、あああっ! いや、えっと、ダメな感じでしたっ」
店で、何を、しようと。って、慌てて、目に見えないけれど何か漂っていたかもしれない空気をかき混ぜて換気扇代わりに腕をブンブンと振ってみた。
「あはは、最上さん、可愛いね」
「へっ?」
「あ、おい、八代っ! 最上さんは俺のだからねっ」
「わーかってるって。安心してよ。お前がどんだけぞっこんなのかはよく知ってるから」
八代……さん、は、席に座り直すと、すでに届いていたビールを一気に飲み干して、仕事後のビールは最高だと笑った。
「そんでさ、その橋本さんがさ、すげぇ可愛らしい人でさぁ」
「へぇ……」
正嗣は両肘をついて、少し赤い顔をしながら、このお店で見かけると少しお上品な気がしてきてしまう、でも本来はなんの変哲もないお通しの枝豆をぽいっと口の中に放り込んだ。と、思ったら「ちょっと失礼」と立ち上がり、トイレへと行ってしまった。
「……八代、最上さんに触るなよ」
「わーかってるって」
俺はどこぞの骨董品か。
「…………」
そして、俺と八代……さんの二人っきり。
苦手なんだ。人見知りするから。初対面の人と二人っきりっていうの。苦行みたいな感じ。時間の進みが急に遅く感じられてしまう。メニューでも見て気を紛らわしたいけれど、今、テーブルの上には到着したての料理が所狭しと並んでいて、何か食べ物を追加する感じでもないし。
「あ、あの、動画、ありがとうございました。お礼が遅くなりまして……」
「いえいえ、そうたくさんじゃなかったから全然」
「そうなんですか?」
「古い画像でしょ? そうたくさんじゃなかったですよ。もっとすごい拡散されてしまった人とかザラだし」
「……そう、なんですか」
そこでふと思った。
この人は俺のあの動画を見たんだ。見られて、そっか……俺のその……。
「安心してください。俺は冒頭のとこだけ。動画の初めしか見てないから」
「あ……」
「綺麗な子だなぁとは思いましたけど」
「! い、いえいえ!」
「この子が正嗣の神様かぁって」
実物はこんなだけれど。あれは高校生のしゃかりきだった頃の自分で、今はもうまるで別人だ。
「神様なんて……」
「あいつ、貴方にめちゃくちゃ憧れてて、大ファンだったんです」
「……」
俺なんかに? けれど、それはあのソウでさ。本当の俺は映画だってほとんど映画館で見ないし、こんな上質な飲み屋も知らないまま、歳だけ食った大人で。
「だから、あの時、あいつんちの前でばったり会った時、あ、ソウさんと会えたって本当だったんだって思いました」
「……」
「すぐに貴方がソウさんだってわかりましたよ」
なんで。
「暴露しちゃうと」
なんだろうと、身構えてしまった。だって、暴露なんて。
「美人系。目はぱっちりじゃなくて、切長。あいつの歴代の恋人、全部、貴方に似てる」
「……」
「そんで、貴方と付き合うってことになった時のあいつのテンションの上がり方、今思い出しても笑うくらいにすごかったからなぁ」
八代さんはそう言うと、その時の正嗣のことでも思い出すみたいに、くすくす笑っていた。
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