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第36話 神様の部屋は二LDK

 ―― あいつの歴代の恋人、全部、ソウさんに似てる。 「はぁぁ……」  帰り、駅を降りると正嗣が一つ溜め息をついた。重たい、だるい、そういうのではなく、例えば、仕事からの帰宅の後、お茶の間でようやく一息つく、そんな感じに安堵が混ざる落ち着いた溜め息。ただいま、のような、そんな溜め息。 「落ち着きますね。こっち帰ってくると」  人がたんまりいた場所から電車で揺られて、自宅から最寄りの駅に降りると急に人はまばらで、さすがに星は見えないけれど、皆もう寝てるのかな、って思えるほど静かな駅の様子に、確かにホッとした。 「あ、どうします? タクシー……バス、まだあるかな。歩き……どんくらいかかります? 歩きだと。俺、まだ歩いて帰ったことなくて」  ―― 貴方と付き合うってことになった時のあいつのテンションの上がり方。 「三十分くらいかなぁ……歩きますか?」  ―― 今思い出しても笑うくらいにすごかったからなぁ。 「まだ一緒にいたい……なんちゃって。疲れましたよね。明日はゆっくりお家デートとかどうです?」 「お、お家デートする、なら」  田舎よねぇって、よく職場の同僚たちは言うけれど、俺の育った田舎に比べたらここなんて都会だよ。けれど人はもうあまりいなくなった静かな駅だから、ちょんってさ、俺が正嗣のシャツを引っ張ったところで誰も気にしないだろう? のんびり歩いていたから、同じ駅で降りた乗客のほとんどはもう駅前のロータリーから姿を消していた。誰だって早く帰りたいだろうから。 「……最上さん?」 「そ、それなら、その、泊まれば……いいのに」  早く帰りたい……わけじゃない俺たちはのんびりのんびり歩いてた。だって、帰ってしまったら終わってしまうから。  このデートが。 「うちに……」  だって、すごく嬉しかったんだ。八代クンが言っていた。八代さんと呼んだら、クンでいいですよって笑ってた。正嗣の神様で憧れの人で、ずっとずっと好きだった人に「さん」付けで呼ばれるなんて恐れ多いって笑って。  そのくらい、好かれてるんだって、嬉しかったんだ。  神様なんかじゃないけれど、こんなしがないサラリーマンの俺なんかのどこが? って思うけれど、でも。 「泊まって……いけば、って、わああああ!」  急に手をしっかりと掴まれ、駅から少しだけ外れたところにあるタクシー乗り場に急いだ。と、言っても、のんびりしていた俺たちはタクシー待ちの列の最後尾だけれど。でも、酒が入ってるから急に急がれるとクラクラしてしまう。 「急いで、帰りましょう」 「……あ、あぁ」  さっきまでのんびり帰ろうとしていたのに。  最後尾に並んだ俺と正嗣。  さっきまであんなにゆーっくり帰ろうとしていたのに。  今はすごく急いでる。  急かすように続けてやってくるタクシーを見つめて。 「俺っ!」 「! な、なんだっ」 「顔! ……ニヤついてないですか?」  真っ赤だ。正嗣の顔。 「だ、大丈夫」  でも、俺もニヤついていそうだから。だってさ、もう一つ、暴露されたんだ。  ――どうしよう、すげぇ好きなんだけど……なんて俺に言って笑ってんですもん。  そう教えてもらってさ、すごくすごく嬉しくて、すごく、その、もっと――。 「あ、どうぞ、上がって、寛いでて」 「お、お邪魔します」  正嗣が緊張してた。結構、飄々としている性格だから、うちに来てもそんなに変わらないかと思ったのに。 「コーヒーでいいのか? それとも、紅茶? 緑茶もあるぞ」  一通りそういうのは揃ってるから。それを順番に水筒に入れて持っていってる。 「あ、コーヒーで……」  あ、でもノンカフェインのお茶はないな。 「そういえば、うちに来たのって初めてだな」  俺が正嗣のうちに行くことはあったけれど、来たことはないなって。 「あー、一応、職場の先輩だし、それに……」 「?」  インスタントだけれど、そう案外悪くないお気に入りのコーヒーが入ったカップを二つ持ってテーブルに着くと、正嗣が口元を抑えて、少し困ったように言い淀んだ。 「それに、憧れてた人の部屋なんで」 「……」  そう簡単には侵入できないっていうか、と、小さく呟いた。 「緊張するほど大した部屋じゃないだろ?」  普通だろう? 普通の二十九歳独身サラリーマンが住む、普通の二LDKだろう? 「そんなことないですよっ、ぶっちゃけ、最上さんがうちに来る時もけっこう緊張してたし。心臓バックバクだし。あと、テレビとかつけてないと、その」  そういえば、よくテレビ付けて食事してたっけ。真剣に見つめてるから、あのクイズ番組も、お天気予報も、あのドラマも全部すごく好きなのかと思ってた。 「テレビに意識向けてないと」 「?」 「理性飛んじゃいそうだったし」  小さな声だった。だから俺も。 「今は?」 「……」 「今は、あまり理性飛ばなそう?」  外でなら聞き取れないかもしれないほど小さな声でそう尋ねた。

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