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第48話 ダーリン、ハニー
「まぁくぅん」
「なんだよーヒロミ」
まぁくん……ニックネームなんだな。
「まっくん」
「なんだよぅ、ヒロミぃ」
変化した。まっくん、って呼んでるのか?
「まああああああ君っ」
長くないか? それ、長くて呼びにくいだろう?
「なああああああにっ、ヒロミ!」
ほら、返事もつられて長くなった。それじゃ会話が中々進まない。
「マーク」
「誰だそれぇ、ヒロミぃ」
外国人なのか? 確かに金髪だけれど。誰だって言われてしまってる。
「まさし」
まさしなのか。日本人じゃないか。
「えへへへへ」
「うふふふふ」
バスの中、隣の高校生カップルの会話に聞き耳を立てていた。通常のカップルはどう呼んでいるのかを確認するために。まぁくん、まっくん、まあああああ君にマーク、で、まさし。
多分まさしと呼んでいるんだろう。
俺が「正嗣」と呼んでいるように。
「今度の休み、俺ちょっと行きたいところがあって、きっと好きだと思うんです」
恋人なのだから。
「最上さん、好きそうな場所だったから」
けれど、正嗣は俺のことを苗字で呼ぶ。
「最上さん?」
外だから、じゃなくて部屋でもどこでも、いつでも最上って呼ぶんだ。
「あ、あぁごめん。えっと」
「今度の休み、行きたいところがあるんですよ」
「あぁ、うん」
隣のカップルの会話が気になってしまう。だって、何通りも呼び方を変えては返事をしているけれど、でもその何通りもある呼び方は絶対に苗字じゃなかったから。必ず名前だったから。
それでも一回くらいは苗字で呼ぶかもしれないって聞き耳を立てていたけれど、でもずっと変わらず、「まさし」をベースに呼んでいた。つまり、苗字では呼ばないんだ。一度も彼氏のことを苗字では呼ばなかった。
それでもいい、とも思う。個人の自由だと。
恋人の呼び方なんて。
ダーリン、ハニー、でも構わないし、ベイビーでも別にいいと思う。だから「最上さん」でもいいけれど。いいんだけれど。
知ってしまったんだ。驚愕の事実を。
「なんてことだ」といつもの休憩場で一人、マスクの中でそう思わず呟いてしまったほど、驚く調査結果に、スマホを握りしめた。
なんと、なんと、苗字呼びをするカップルの八割ほどが交際三年目の時点で別れてしまうという、恐ろしい調査結果を知ってしまった。
理由としては常に距離感がある感じがする。よそよそしく、一定の距離を置かれている感じがしてしまうことから、気持ちが離れやすくなるらしい。
何やら呼び方を変えるのなら最初のうちにするべし、と書いてあった。途中で変えるとなんだかぎこちなくなり、それが微妙な距離感を生み、もしかすると最悪「別れる」なんてことにもなりかねない。それから、変えるタイミングが遅ければ遅いほど、変えにくくなるから要注意。
風邪と同じだ。
早めに対処をしなければ、手遅れになってしまうんだぞ。
なんて、うまいことを言ってる場合じゃない。
恋人の呼び方一つを研究している機関があることにも驚きだったけれど。
でも――。
「……」
でも、スマホで調べると大概悪い結果が出るんだ。そういうものだっただろう? キスのことだってスマホで調べて練習したけれど、そのままで、下手でいいと正嗣は言うし。今回のだって、さ。
きっとそう大した理由なんてないんだ。
職場の先輩でもあるわけだから、何か咄嗟の時を考えて呼び方を変えずにいるのかもしれない。
もしくは、俺の下の名前を知らない、とか? 言ったよな? 入所直後の、四月一日、自己紹介の時に名前はフルネームで言ったはず。
最上荘司って……言ったはず。
「? 荘司、ですよね?」
言ってあった。知ってた。
「どうしたんですか? 急に」
「い、いや」
「俺の名前を知ってるか? なんて」
ここで、一度口にしてみたんだ。「じゃあ、荘司って、呼び方変えようかな……」なんて言い出したり。
「怖い顔をして、最上さん」
しなかった。ちっともしなかった。普通に再び苗字で呼ばれたし。
「それにしても、どこの海がいいですかね。もうこうなったらいきなり、一番遠い沖縄とかでも。っていうか、バス遅いですね。道が混んでるのかな」
バスは電車と違って交通状況の影響を受けやすい。道が混んでいるのかもしれない。今日は帰りのバスがだいぶ遅れている。夏の旅行、まだ、今のうちなら海水浴の近くの旅館も良さそうなところがあるからと、スマホで色々探してはどれもこれも良さそうで決めかねているところだった。
でも、俺は夏の旅行よりも、、良さそうな旅館を見つける度に正嗣が俺を呼ぶ「最上さん」っていうのが気になって、それどころではなくて。
何か、理由があるのかなって。
前に付き合っていた人達はどうだったんだろうって。
気になってしまって。
「あ、すみません。八代だ。ちょっといいですか?」
「あぁ」
八代君。俺の動画とかを削除申請と使用禁止の申請をしてくれた正嗣の友人。
「お前急だなぁ……いや……うん。今……そう」
彼はなんでも知ってそうだった。それこそ前の恋人の容姿を知っていたんだ。俺に似ている人を選んでたって教えてくれたし。だからきっと呼び方だって知ってるだろうし、もしかしたら俺を「最上さん」って呼ぶ理由だって知ってるかもしれない。
「あー、そしたら、また今度」
酒の席とかに呼ばれたのかな。正嗣だけ、だよな。俺もついて行ったらダメだよな。
「そう、最上さんと一緒だからさ……いや、最上さんも忙しいから、あぁ、今度」
「行こう!」
「へ? あ、いや、あの、えっと、最上さん?」
今の会話から察するに、俺もお呼ばれしたんだろう?
「俺は忙しくないから! 行こう!」
「え……あの……」
幸いなことに、今日は橋本さんからトマトもナスもいただいていない。きゅうりはまた今度持ってくるわねと言ってもらえている。だから、今日は外食でも大丈夫。だからだから。
「行こう! バス、向こう側だ!」
そう言うと、夜間のみの押しボタン式信号のボタンを勢いよく押して、反対側のバス停へと向かった。
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