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第49話 怖がり虫
チャンスは一瞬だ。
とても短く、まごついている間に終了してしまう。狼狽えてる時間はない。躊躇ってる場合でもない。単刀直入に訊くんだ。テキパキと。
「いやぁ最初は喜んだんですよ。アダルトビデオのモザイク課なんて、一日中見てていいなんて! って。それこそ、個室ブースで行うんで、ティッシュ持参しましたし」
「うわ……お前ね」
「だって仕方ないだろ。見て反応しないもん作らないだろ」
八代君の仕事話を聞いていた。勤め先はアダルトグッズや動画配信などを行なっている会社。今、所属しているのは違法アップロードの取り締まりなど。その前にしていたのがモザイク課、だったと、今その話をしている最中。
「けどさ、一日中見てると飽きてくるんだよ」
「へぇ」
「ずっとズコバコしてるとこにモザイクかけてくとさ、そのうち、興奮もしなくなるし、なんか、むしろ退屈になる。そうなると性欲も激減。これはいかんだろうと、部署異動を申し込んだわけ」
「へぇ、そういうもんなの?」
「そういうもんだね」
「ふーん」
その二人の話を少し上の空で聞いていた。隣に、拳一つ分開けて座る正嗣のことを気にしながら。その時を待っていた。
「わり、俺、ちょっとトイレ」
「おー、いってらっしゃい」
この時を。
チャンスは一瞬だ。
「八代、最上さんにちょっかい出すなよ」
「努力する」
「おい」
狼狽えてる暇も、躊躇ってる時間もない。今、すぐに、単刀直入に。
「単刀っ……っゲホっ」
「大丈夫ですか?」
正嗣がトイレに行っている今しかないのに、そのスタートで躓いてしまった。
「あのっ! 正嗣は恋人のことをなんて呼びますかっ?」
ネットで検索して悪いことをイメージしてしまう前に、一人で考え込んで変な方向に考えすぎないように。
「ぇ…………最上さん」
「じゃなくて! 俺じゃなくて! その歴代の……恋人は……」
「…………どうかしたんですか?」
「あ、いえ……」
「それでどこか上の空だったんですね」
「……すみません」
八代君は俺の勢いに一瞬背を反らして驚いていたけれど、すぐに朗らかに笑って、グラスのワインを一口飲んだ。今日もまたあの和食居酒屋だ。ここの個室は落ち着くのと、酒とつまみが美味いんだと言っていた。
「あいつの歴代の恋人がどう呼ばれてたか……か」
「……はい」
それが聞きたくて今日俺も参加させてもらった。少し強引だったかもしれない。けれど、すれ違うのとか、拗れてしまうのは嫌だったから。
「あいつに訊けばいいのに」
「……そう、なんですけど」
ここでまた怖がり虫が邪魔をするんだ。
すごい悲しい理由だったらどうしようとか、本当はそんなに好かれてないんじゃないか? とか、勝手に妄想し始めてネガティブなことを考えついては俺の頭の中をそれらでいっぱいにしていってしまう。
この怖がり虫はとても厄介で、一旦、顔を出すとそのまま居座り続ける。そうして居座られてしまうと、もう本人に訊くことができなくなる。
だからそうなる前に少しでも怖がり虫の邪魔をこっちこそ邪魔しないと。
「最上さん……って、苗字にさん付けなのが気になるんですか?」
「……」
「その理由を俺には話してないですよ」
「そ、ですか」
「えぇ」
まぁ、そうだろうな。恋人の呼び方を友人に解説するなんてこと、あまりしないだろう。それこそ奇想天外なニックネームをつけているのなら別だけれど。
「俺、イイヒトじゃないんです」
「え?」
「あ、ちなみに、俺に理由をあいつは話してないですけど、大体、予想はついてますよ」
「えっ!」
「教えませんが」
じゃあ、教えてくださいと言う前に一刀両断で、微笑みながらそう言われてしまった。
「教えませんが、歴代の恋人のことは、下の名前で呼んでました」
やっぱり、そうなんだ。一般的な恋人同士のように、下の名前で呼んでいたんだ。
「理由はご自身で訊くのが一番ですよ」
知ってる。きっとここで八代君がどういう理由なのかを予測で話したところで、それすらも怖がり虫は餌にして、どんどんまた理由をネガティブな方向に捏造していくんだ。だって、もう、今まさにその怖がり虫が「お呼びですか?」って、ひょっこり顔を――。
「それでもまた悩みそうだったら、俺の連絡先、お伝えしておきますね。俺、横恋慕は趣味じゃないんでしませんから。なので最上さんからの連絡先は結構です。何か相談したいことがあった時だけ、ぜひ」
そう言って、名刺をくれた。察しの良い人だから、俺に、こういう恋愛事を相談できる相手が乏しいことを見抜いてくれたんだろう。
「何、二人で話し込んでるんだよ」
「あ、帰って来ちゃった。残念」
「なんだよ、八代、最上さんは絶対にダメだからな」
正嗣はトイレから戻ってくると俺の隣に座った。
「わかってるって。でも、ナンパしたら引っかかってくれるかなぁ、なんて。俺の年収、市役所職員の初年給よりはずっといいし」
「おまっ、そういうことをっ」
トイレに行く前は拳一つ分、開いていた。
「最上さんは譲らないからな」
「はいはい。ご馳走様です」
けれど、トイレから戻ってきた正嗣はピッタリとくっついてくれて、拳一つ分なんて入り込めそうもない。入り込めるとしたら下敷きくらいのものだろう。そして、くっついてくれたところがとても温かくて心地いい。
「最上さんは俺の」
「はーいはい」
そして、そのくっついてる安堵感と、八代君に少しはしゃいだ口調で話す言葉に、さっき「お呼びですか?」と顔を出した怖がり虫が、いそいそと引っ込んで帰っていった。
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