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第50話 親しい人

 怖がり虫はとても厄介な虫だ。  ずっとそれは俺の中にいて、一回引っ込んだと思ってもまたすぐに顔を出す。油断ならないんだ。だから、ちゃんと退治しておかないといけない。 「あー、やっぱり終バス行っちゃいましたね。ギリギリ間に合うかなって思ったんだけど」  電車が駅に到着するのとほぼ同じ時刻に俺たちの使っているバスの最終が出発する。もしかしたら待っていてくれるかもしれないと、人の波を掻き分けて急いでバス停に向かったけれど、今回はダメだったらしい。 「タクシーにしましょうか。最上さん」 「……あぁ」 「じゃあ、並んでてください。俺、コンビニでお茶買ってきます」  好かれている、と思う。 「うん……わかった」 「変なのに引っかからないようマスク外さないでくださいね」 「何、言ってんだ」  大事に、されてると……思う。  ―― 教えませんが、歴代の恋人のことは、下の名前で呼んでました。  でも、呼び方がとてもよそよそしくて、なんだか、少し。 「お待たせしました。緑茶と烏龍茶どっちがいいですか?」 「あ。じゃあ、緑茶」 「はい。結構すぐにタクシー来そうですね」 「……あぁ」  ―― 理由はご自身で訊くのが一番ですよ。  それが一番だとは思う。考えてたって相手のことなんてわからないことの方が多いだろ? 訊くのが一番だ。でも。 「あれ、美味かったですね。ナスの冷製トマトサラダ。俺でも作れるかな。作ったら、最上さん、一緒に食べてくれます? 失敗しても」  今なら勢いで訊けそうな気がする。  でもここは人が並んでるし、会話だって聞かれてしまうから、難しいだろ?   じゃあ、やめようか。  でも、ここでやめると、また怖がり虫が出てきそうだ。自宅の方は住宅地でとても静かだから、話を切り出すタイミングがきっとわからなくなってしまう。静かすぎて、一言目を言い出せなくなるんだ。きっと。  そして、そのまま、また考え始めて、結局は怖がり虫に――。 「あ、そしたら一緒に作ればいいかも、最上さんの料理めっちゃ、……」 「正嗣」 「最上さん」 「って、俺は呼んでる」  人の気持ちを訊くのはとても怖い。 「正嗣って……」  だから、顔は見れない。けれど、もう、俺は、怖がり虫になんか、付き合ってやらない。 「……最上さん?」 「し、親しい人だから」 「……」 「その、すごく親しい人、だから、そのっ」  そこでタクシーがやってきた。二番目だったのに、前に並んでいた人がタクシーに乗った瞬間、その後ろには次のタクシーがやって来てて、「ほら、どうぞ」と後部座席のドアを開いた。  荘司って呼んでくれ。  と、言いたかったのに、タクシーはまるで怖がり虫の手伝いをするように俺の邪魔をする。あーあ、また、言うタイミングを見失ってしまう。 「荘司」 「ぇ? あっ」  落胆しかけた俺の手を掴んで、正嗣がタクシーへと先に乗り込んだ。 「すみません。市役所方面へ」  正嗣の指示を聞くとタクシーはメータをセットし、ドアを閉め、市役所の方へと走り出す。  窓の外はほとんど人も歩いていなかった。時間が時間だ。都会や繁華街ならまだしも、この辺じゃこんな夜中に歩いている人はあまりいない。  その変化に乏しい風景を眺めながら、確かめていた。  今、確かに、荘司って呼んでくれたって。  初めてなんだ。正嗣に名前を呼ばれたの。付き合うことになった時も苗字のままだったし、初めて、その……した時だって、最上って呼んでた。 「覚えてます? 付き合おうってなった日」 「え? あっ、えっと」  タクシーの中なのに、ドライバーには丸聞こえなのに、正嗣は構うことなく交際について話し始めてしまった。男同士だぞ? って、俺は慌てて、けれど、そんな慌てる俺の手をドライバーには見えないところで‘ぎゅっと握って。俺は手を繋ぐことにも狼狽えてしまう。 「終バスにあの時は間に合ったんですよ」 「え? えっと」 「残念って思った。もっと一緒にいたくて、終バスが行ってしまっていたら、まだ一緒にいられるかもって」 「えっと、あの、正嗣」 「あ、運転手さん、そこのバス停近くでいいです」  気がつけば、いつも使っているバス停のところだった。  手を握られてるせいもあってマゴついてる俺に構うことなく、正嗣はクレジットカードを胸ポケットから取り出すと、会計を済ませてしまった。  タクシーを降りると、慌てふためいて熱くなった頬では初夏の夜風も冷たく感じられて。 「そこ、段差気をつけてください」 「あ、あぁ……あの、手、タクシーの中で急に繋ぐからびっくりした」  タクシーの中なのにって、会話の内容も内容だったから俺はひどく慌ててしまった。 「そうですか? でも、大したことじゃないと思います。向こうにしてみたら」 「そ、そんなの」 「男同士ってだけの話で」 「いや、それは」 「けど、俺には違うんです」 「?」  そこで正嗣がキュッと手を強く握った。 「本当に好きだから」 「……正嗣?」 「マジで、恋は盲目ってあるんだなって思ったんです。貴方に好かれてるってわかった時から、ずっと一緒にいたくて。ホント、やばいでしょ?」 「……」 「やばいんです。テンション。だから、ブレーキ代わりに最上さんって苗字で呼んでた」  苗字呼びは疎遠な感じがして、距離があるというか遠慮が垣間見えて、親しさが深くなりにくい。だから別れてしまう確率が高くなると、ネットに書いてあった。  俺はそれを読んで慌てたんだ。 「だから、ブレーキ、効かなくなりますよ?」  別れてしまうなんてどうしようと大慌てしたんだ。 「いいって、言ったら、あの、どうなるんだ?」 「……」 「それで構わない。だから、荘司って呼んで欲しいって言ったら」  そしたら、親しさが深く深くなるんだろう? そうネットに書いてあったんだ。それなら、きっと。 「……荘司」  あのちょくちょく顔を出す怖がり虫も、もう簡単には出てこないんじゃないかなって、そう、思うんだ。

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