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第52話 黒いシルエット人間

 ふわふわする。  指の先から足の爪先までふわふわしている。 「それで?」  夜更かしが過ぎる時間。眠いのに、余韻がすごくて、まだ身体の中に正嗣の熱が残ってる感じがしてる。たくさん抱き合った余韻。 「え?」 「歴代の恋人はなんて呼んでたんだ」  尋ねると、布団にちょうど入ろうとしていた正嗣が一時停止ボタンでも押されてしまったみたいに、ぴたりと止まった。 「ヤキモチ……だ」 「え?」 「これはヤキモチだ」  気にしてないと言ってあげられたらいいんだろう。ヤキモチなんてしないと。過去は過去だからと言ってあげられたらその方がいいんだろう。けれど、それはまだ初心者の俺には難しいんだ。 「モテてただろうと思う。顔もかっこいいし、人当たりもいい。俺と違って話しやすいし。だから、過去の交際相手はたくさん、だと思うんだ」  一緒にシャワーを浴びて、とても申し訳ないことに無意識に背中にたくさんの引っ掻き傷をこしらえさせてしまった。沁みるだろうに、全然、って笑ってくれるくらい、七つも下の正嗣はとても寛容なのに。年上なのにとても心が狭ぃけれど。 「その過去の交際相手が気になってる」 「……」 「ま、前はっ、気にならなかったんだ。八代君に少しだけその話を聞いた時は、気にならなかったんだけど」 「……」 「今はとても気になる」  面倒な恋人で申し訳ない。でも――。 「聞いて、何か、その怒ったりはしないっ」 「本当に?」 「た、多分」  保証はできないけれど、と慌てて付け加えた。気にならなかったものが気になるようになったのだから、今は怒るつもりもないし、ただ知りたいだけでも、聞いたら、また変化して、知りたいだけだったはずなのに知ったら怒るかもしれない。もしくは、やっぱりもういいですと話を中断させてしまうかもしれない。 「まぁ、付き合ったことはあります」  その答えに少し緊張した。  胸の辺りは、やっぱり少しざわついてしまう。 「人数は、まぁ、それなりに」  それなりにってなんだ。一人もない、ゼロの俺にはそれなりも何もないんだ。 「こ、交際期間は?」  追加でそう尋ねると、正嗣は少し目を丸くして、困ったように苦笑いを零しながら、布団の中へと入ってきた。その途端に布団の中が少し狭くなって少し、あったかくなった。 「交際期間は、まぁ、それもそれなりに……」  だからその「それなりに」というのが、ゼロの俺には。 「それぞれです。一週間で別れたこともあるし、半年くらい続いたこともある」  話を聞いているうちに、言葉でしか存在してなかった「過去の交際相手」がぼんやりとだけれど輪郭を持った人の形に変わっていく。 「名前は全部、下の名前で呼んでたかな。あ、本人の希望で苗字っていうのもいたけど」  やっぱり下の名前で呼ぶんだ。そして、なんだ、その本人の希望により苗字読みっていうのは。 「下の名前が好きじゃなかったとか、前の恋人とダブるから、とか? わかりませんが」  ぼんやりとした輪郭だけだった過去の交際相手がくっきりとしてきた。まだ黒色のシルエットだけれど、確かに誰かが正嗣の隣にいたんだと。 「けど」  そう想像が膨らみかけた時だった。 「けど、こんなに緊張しながら、テンションいちいち高くしながら名前を呼んだのは初めてです」 「……」 「荘司、って」  黒いシルエット人間。 「それと、交際期間、短かったことも、長めだったこともありますけど」  そのシルエット人間が消えてしまった。 「荘司とは、期間とかない」 「……」 「そう願ってます」  ヤキモチもすごく膨らみたがっていたけれど、しおしおと萎れてしまった。 「そ、その割にはっ敬語のままだ! それこそ親しい人には普通っ」 「あー、これは距離とかブレーキとかじゃなくて、プレイです」 「ぷっ」 「荘司、どこを触って欲しいんです?」 「んひゃああああ!」 「ね?」  布団の中、密着して、腰を抱くように引き寄せられた瞬間、思わず飛び出した甲高い悲鳴。夜の夜中にご近所迷惑なその悲鳴に、正嗣が楽しげに笑って、ぽすんと枕に頭を預けた。  ここの部屋には誰も来たことがない、のかもしれない。正嗣の部屋には枕が一つしかないから。毛布も掛け布団も、全部一人用。食器は買い揃えたのか五枚ずつあるけれどマグカップは一つしかない。歯ブラシも一本。そこにストックから分けてもらった俺のを一緒に置かせてもらってる。 「これ、いいでしょ? 敬語攻め」 「なっおまっ」 「真っ赤。荘司、可愛い」 「んなっ」 「トマト」  ヤキモチは萎れて、大きくなりかけた妄想は小さく消えたけれど、その代わりに。 「明日! トマトソースたっぷりのオムレツしてやるんだからな! トマト苦手な人には絶対に食べられないような」 「大歓迎です。トマト好きですもん」 「すごーい、トマトの味なんだぞ!」 「だから大歓迎ですってば」  ヤキモチは膨らまなかった。けれど、俺たちが、いや正確には、正嗣にからかわれて抱き締められて、俺が暴れるせいで布団がその代わりにほわほわと、夜も夜中に騒がしく、膨らんでいた。

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