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第54話 夏が来た

 こんなに毎日が楽しくて仕方がないなんてこと、生まれて初めてかもしれない。  だから、こんなに夏を楽しみにしているのも初めてなんだ。  職場はオフィスカジュアル促進のため、夏場はスラックスにポロシャツ、半袖のシャツを可としていた。色はベーシックカラーのみ。派手な色も厳禁、半袖シャツはシャツでもアロハシャツはダメ。当たり前だけれど。毎年課長が夏仕様に切り替わることを朝礼で伝える度に、そのオフィスカジュアルのルールに少し笑ってしまう。でも、少し前に半ズボンもありでいいのではないだろうか、なんて突拍子もない案が出たっけ。流石に無しになったらしいけれど。半ズボンの市役所、地方テレビが取材に来そうだ。  ともあれ、例年通り、変わらない夏仕様の服装、ということで落ち着いた。  今日は俺は半袖シャツにした。もちろんマスクは着けたまま。もう通年でマスクをしているから、誰もそのことには触れない。最初は夏で暑くないですか? とか訊かれたけれど、今じゃ、風邪を絶対に引きたくない人、もしくは通年で何かしらのアレルギーがあるんだろうね、くらいの感じなんだと思う。  確かに夏場のマスクは暑い。だからこの夏場のオフィスカジュアル即進化はすごくありがたい。半ズボンまではしなくていいけれど。  そして、今日の正嗣の服装は。 「あ。これ、納涼会のお知らせですか?」  紺色のポロシャツ。 「まさ……樋野」  それが爽やかだけれど、逞しい筋肉の感じが伺えて、俺は内心そわそわしていたりする。 「今、誰もいないよ。荘司」 「!」  最近、少しだけ混ざる友達のように親しげな口調にドキっとする。普段は敬語なんだ。けれど今みたいに、たまに混ざる親しい人への言葉使いが。それにいつも頬が熱くなるのがわかる。 「そ、そうか……でも普段から職場では苗字って気をつけてないと」 「別に誰も気にしないと思うけどなぁ」 「そんなことないだろう」  正嗣はあまり男性同士で付き合っているというのを特別視しないところがある。男女での交際が「普通」というような考え方が元からないような。手を繋ぐこと、二人の呼び名がとても親しげなこと、楽しそうに二人で話をすること。男女で交際をしていたら「普通」にすることを「普通」に俺ともする。男女でも「普通」はあまりしないような、街中でのキスや抱擁は正嗣もしない。  至って「普通」に恋人へ接してくれる。俺の生まれ育った田舎じゃ到底――。 「あ、そうだ! これ、いただきました!」 「? 何」 「ジャジャーン!」  目の前に差し出されたのは三つ折りになっている一枚の紙。 「? あっ!」  開けてごらんと手渡されたそれを開いてみると、それは正嗣の職員本採用が決定したとの通知書だった。そうか四月入職で、三ヶ月が採用期間、それが、そっか。 「おめでとうっ!」 「ありがとうございます」  そっか、今日から正規職員なのか。 「うわっ、よかったな。おめでとう!」 「……ありがと」  ほら、またこんな時に言うんだ。ありがと、なんてとても近しい人への口調で、そんな優しく甘い笑顔で。そしてやっぱりそれに俺はドキッとして、ここが職場の廊下だというのも忘れて真っ赤になってしまう。 「それでさっき課長に呼ばれてたのか」 「えぇ」  何かと思ったんだ。正嗣だけ呼ばれて、いや、その前に一緒に入った女性のうち一人が呼ばれていたかもしれない。その次が正嗣で、呼ばれて、席へ向かうと、どこかに課長と連れ立って向かって行ったのは確認した。もう一人いた女性職員は正嗣の後に呼ばれていた、ような気がする。正嗣の事しか注視してなかったから。 「こ、これで」  これでずっと一緒に仕事が……っていうのは少し、なんというか、重いかなって。 「ふがっ!」  それを見透かして、諭すように正嗣が俺の鼻を指で摘んだ。 「これで一緒に仕事がずっとできますね」 「……」 「それと、今夜はお祝いしてくれるんでしょ?」 「! も、もちろんっ!」  スーパーでの買い物はただの家事だった。所要時間はどのくらいだろう。でも田舎のスーパーみたいに知り合いに遭遇してそこで立ち話、なんてことはないから、さっと買って帰るだけだった。  今は少し違う。 「お祝いなんだ。手巻き寿司だろう」 「……」 「正嗣?」 「いえ、なんか、可愛くていいなぁって」 「! ま、またそうやって」 「だって可愛いですもん」  別に今の会話に可愛いところなんて一つもないだろう? 手巻き寿司にしようっていうだけの話だ。実家ではそうだったんだ。お祝い事となったら大概手巻き寿司だった。 「どこがっ」 「手巻き寿司セットっていうのありますけど、これにします?」 「あー、そうだな、それにしようか……あ、でもいくらがない」 「いくら、好きなの?」 「手巻き寿司にはいくらは必須だろう? って、なんでそこで笑うんだっ」 「いや、だって、やっぱ可愛いから」  だから、どこにも今、可愛いところなんてない。正嗣はすぐにそうやってあれもこれも可愛いと言い出すけれど、俺にはやっぱり一つもそんなところが発見できない。 「じゃあいくらは別売りのを買いましょう。あ、あと酒は日本酒? それともワイン? 俺、ワインの方がいいかな」  でも、楽しい。可愛いところは発見できていないけれど、とても楽しい。 「じゃあ、ワインにしよう。正嗣のお祝いなんだから」 「そうそう、お祝いの手巻き寿司」 「んなっ、また何かからかって」  買い物が、ただのスーパーでの買い物ですらこんなに楽しいから。 「からかってませんってば」 「だって」 「ほら、おいで、荘司」 「!」  今年の夏が楽しみで楽しみで仕方がないんだ。

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