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第56話 取るに足らない平和な一日

「えーっと、先日、本人たちには伝えましたが、今年入った三名の職員の方々の本採用が決まりました」  うちの役所は本採用までの試用期間として三ヶ月を設けてる。この間にたとえばどうしても所属課に合わないようなら配置換えがあったりもする。けれど、今年の三人はこのまま子育て課に本配属で決定らしい。 「それでは、これからもずっと一緒にやっていく仲間として、三名を歓迎しましょう」  ずっと。 「はい、それでは、皆さん、夏の暑さに負けず今日も宜しくお願いします」  ずっと、一緒に。 「最上さん」 「……ぁ、樋野」 「これからも同じ課で、男二人、宜しくお願いします」 「ぁ……あ、こちらこそ」  ドキドキしてしまったじゃないか。  朝礼が終わり、そのままそれぞれが仕事を始める中、真っ直ぐに正嗣だけがこっちへ向かって歩いてきて、改めて挨拶をしたりするから。 「それと、納涼会の出欠席の名簿です」 「あ、あぁ」  ずっとこれからも一緒に仕事をしていけるんだと、嬉しくなってたところに、その相手が現れたりするから。 「行きます?」 「あぁ」  それにあまり上手じゃないんだ。隠し事というか芝居は。 「よかった」  だからすごくドキドキしてしまって、俺は芝居がバレてしまわないようにマスクの鼻先を少し摘んで、瞼のぎりぎりまで白いマスクで覆い隠した。 「あ、ここの旅館、すごい良さそうですよ」 「へぇ、どれだ?」 「これ」  食事を終わらせてから、スマホで夏の旅行先を一緒に選んでた。スマホで条件を指定すればそれに見合った旅館がピックアップされる。 「ほら、個室露天風呂付き、朝夕部屋食、禁煙」 「ちょっと高くないか? 一泊でこの値段だぞ?」 「えー、でも、いい感じですよ?」 「こっちはどうだ?」 「それは、良さそうって思ったけど、絶対に怪しいです」  そうか? お手頃な価格で、海岸からも近そうだし、いい感じがするけれど。 「まず、写真が夜っていうのが怪しい」 「っぷ、確かに、じゃあやめておこう」  写真は色々魔法が使えるツールだからなって笑った。前の連休の時、二人で泊まったホテルでその写真マジックに遭遇したんだ。元々は泊まる気なんてなかったけれど、でもまだ一緒にいたくて、その遊園地と隣接しているホテルに泊まった。写真で見る限りではとても大きなプールがついているようで、少し割高だけれどそこで水着まで買ったっけ。いざ、プールへ、と思ったら、写真とは全く違う、小さな小さなプールが一つあるばかりで。あまりに上手に写真に収めていることに、二人して感心したんだ。 「楽しいですね」 「え?」 「旅行の予定立てるの」 「……あぁ」  こっちの旅館はどうだろう? いや、そっちは少し海岸から遠そうだ。じゃあこっちの旅館と見比べてみよう。なんて、二人でスマホを覗き込んではあーでもないこーでもないって話して。 「そうだな。すごく楽しい」  まだ少し先なのに、その日を想像するだけでもワクワクしてくる。 「早く夏休みにならないかな」 「……正嗣」  去年の夏、今頃は。  俺は何をしてただろう。覚えていないからあまり印象的なことはなかったんだろう。毎日同じことを繰り返し繰り返し。それでいいし、それが一番だって思ってたんだ。けれどその平和で淡々とした日々にはワクワクもなくて。 「でもその前に色々忙しいんだぞ」 「そうなんですか?」 「そりゃ、花火大会だってあるし」 「あぁ、いいですね。それ、浴衣着たりして」 「まさか。浴衣なんて着てたら仕事にならないじゃないか」 「へ?」 「?」  ならないだろう? 「花火大会は市で開催なんだから、役所の職員はその日仕事だよ。色々な」 「な、なんの?」 「なんのって、そりゃ運営の仕事だよ」 「ええええ!」  だから浴衣なんて着て「たーまやー」なんて言ってられないんだ。むしろ長袖長ズボン。完全防備で挑まないと。蚊がすごいから。 「マジですか! だってそんなの聞いてない!」 「聞いてないだろう。大体、花火大会の本役員は基本観光課が主体だから。でもたまに人数足りないとかで他所から手伝いに行く事はあるけど。今回子育て課からは花火大会の本委員に選出されてる人はいないから。でも当日は雑務がいっぱいあるから忙しいんだ」  会場席を用意たりっていう雑務があるから。来賓用の椅子を並べたりする。しかも十、二十なんてもんじゃない。 「そんなぁ。じゃあ、花火デートは?」 「見れるぞ。花火なら」 「じゃなくてっ」  去年もそれをやったっけ。延々と椅子を並べていくんだ。結構な数の椅子たちを地道に職員総出で並べてく。来賓だけじゃなく花火観覧有料席の分もあるから。暑いし長袖長ズボンが汗で張り付いて気持ち悪いし。少ししんどかったけれど。 「俺は楽しみだよ」  今年は、少し違う。 「正嗣がいるから」  だから、少し楽しみが勝っていて、苦労がとても小さくなった。 「そんな顔で笑ったりして」 「だって、笑ってしまうんだ」  正嗣が一緒にいるのなら、どんなことでもワクワクしてしまうから。 「ズルいなぁ」  そうぼやくと膨れっ面のままキスをくれる。そして、また淡々として変わりのない取るに足らない時間がドキドキする特別な時間になる。

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